1、闇を歩む者
墨の幕を広げたような暗闇の中、滲んだ朱色の光が揺れていた。蝋燭を手にした二つの人影が、足音も立てずに進んでいる。
一人は長い黒髪の少女。十代の半ばであろうか、しっとりと落ち着いた顔つきに、強い意志を秘めた瞳を美しく煌めかせている。もう一人は長い顎髭を生やした老人。かなりの歳のように見えるが、その確たる足取りに危うさはひとかけらもない。
共に神に仕える者のように、純白の着物に身を包んでいる。
「もう少し、早く歩いてもよいのでは」
前を歩いていた少女が、立ち止まって振り返った。
「急ぐでない。地面の特徴をしかと足裏に刻みつけるのじゃ。たとえ暗闇でも、自由に移動できるように」
「わかったわ。長老様」
少女は大切な物を撫でるように、そっと足を下ろしながら進みはじめた。
「それでよいのじゃ」
老人は喉を軽く鳴らして笑い、後に続いた。
二人が歩んでいる所は、奥山の懐にぽっかりと開いた洞窟の中だった。
今から二億年ほど前、この辺りは海に浮かぶ珊瑚礁だった。それが地殻の隆起とともに、高く盛り上がり、ついには千メートルにも及ぶ山となったのだ。
もともと珊瑚だった岩は、降り注いだ雨や地下水に溶かされていった。そして気も遠くなるほどの年月をかけて、深く広い、幾つもの枝に分かれた洞窟が形成されたのである。
もっとも、この洞窟のことを知っている者はごく限られていた。
山ができあがる寸前に、頂上付近が大きく崩れ、硬い岩で覆われてしまったからだ。地質学者の行うありきたりの調査では、複雑に入り組んだ洞窟が地中深くに広がっているなど、思いもよらないことであった。
洞窟は今もなお、年に一ミリほどの早さで広がっていた。
ターン、ピシャン…
遠く近くで、水の滴る音が響いている。
天井から伸びた大小の岩を伝い、しずくが落ちていた。その下の地面には、しずくに溶け込んだ岩の成分が固まり、柱のように育っているものもある。地面は、時にのっぺりと広がり、時にがたがたと段を作っている。目を凝らせば、人がすっぽり落ちてしまうほどの底知れぬ穴も開いていた。
「竜が光って、蛇が一匹、馬が一匹、羊が三匹…それで兎が四匹で、皆でお宮へ詣でましょう。竜が光って…」
少女は足裏に神経を集中しながらも、干支とその数を囁くように歌っていた。洞窟が枝分かれしているところでは、声に力を込めて歌った。
「…兎が四匹」
目の前の暗がりが、七つに分かれていた。
「やっと十一番目、兎は四匹」
炎をかざした少女は、大小の穴や亀裂のうち、壁に星印を刻まれたものを左から数え、四番目の穴に足を向けた。
囁いていた歌は、迷路のような洞窟を進むための口伝歌だった。これまでに十の分かれ道を通過した。
「よいぞ、過ちはない」
「このぐらいは当たり前よ。私、もうすぐ高校二年生になるのよ」
老人のしゃがれ声に、少女は細めの顎をちょこりと上げ、また進んだ。やがて道は二手に分かれた。少女は揺れる炎を老人に向けた。
「次は竜。十二番目はどちらに進んだらよいのか、歌にはうたわれていないわ」
「そりゃそうじゃ。それは我ら一族が、十六の歳を迎えた時に教えることになっているからの」
「長老様からの誕生日プレゼントってわけね」
「そうとも。こんな所でなんじゃが、おめでとう、蒼。さあ、若き語り部よ。心を落ち着かせよ。誓いの儀式をはじめよう」
老人は優しく話し、少女の額に手を当てた。少女は丁寧に膝をついた。
「これより、我らが守ってきた竜の波動への道を伝える。おまえはそれを受け入れるか」
低く威厳に満ちた声だった。
「はい!」
少女は唇をかたく引いた。
「竜の波動への道を知ってからは、おまえは歴史の語り部であるとともに、波動を守る者ともなる。
いざとなれば、戦わねばならないこともある。それでもよいか?」
「はい」
少女は凛と返事をするとともに、手にした蝋燭を高く掲げた。その黒い瞳に映る炎は、一瞬、四つ足の獣のような形となって揺らめいた。
「竜の波動を守ること。我と我が身に宿る者に約束いたします」
少女は瞳の中の光に語りかけるように、静かに息を吐きながら誓った。
「ならば伝えん」
老人は差し出された手から蝋燭を受けとると、一本を消し、白い煙がたなびく方とは別の、右側の道に炎をかざした。
「さあ、我らが守る波動に触れに行こう。これから先は、どうするかわかっておるな」
「もちろん」
少女は着物の袖から、青白く光る物を取り出した。
小さな光が二つ三つ、ついたり消えたりしている。それは手の平に収まるような虫籠だった。中で数匹の虫がモゾモゾと動いている。洞穴や洞窟などに生息する蛍虫だった。
「いっそう、足元に気をつけよ」
老人は、もう一本の蝋燭も吹き消した。
闇が辺りに重々しく広がった。
虫籠の中の微かな光が、周囲の岩にてらてらと反射して見えるようになってから、二人はまた歩きはじめた。
少女の歩みはより慎重になってきた。先祖たちがずっと守り通してきたもの、これからは自分も守ることになったもの。それに触れることに恐ろしささえ感じていた。
「前に、前に…」
暗闇に虫籠を差し出す手を、老人がそっと支えた。洞窟は曲がりくねりながら続いていた。いったい何時間歩いたのだろう。いや、ほんの数分か。
突然、足元が揺れ、湿った空気が角笛のように鳴った。
「地震じゃ!」
老人は少女の小柄な体を抱きしめ、地面に伏せた。
キリキリと岩にひびが入る音、しずくが大粒の雨のように降り注ぐ音が、幾重にも重なってこだまし、やがて静まり返った。
「たいしたことはない。あうっ」
顔を上げたしわだらけの喉から、呻き声が絞り出された。
右に折れた洞窟の先に、燻った白い光があった。
「外からの光よ」
「今の地震で天井の一部が落盤したんじゃ。この先にわしらの守る波動がある。明るい光の下、波動はにわかに活性化したはず。波動は今、命を宿した者を待っている、その体に取り憑こうとして」
「どうしたらいいの、長老様」
「蒼、大急ぎじゃ、入口で待っている聖とともに、地上の割れ目に向かうんじゃ!」
「お父さんと。で?」
「三人で結界を張り、割れ目を塞がねばならない。万が一にも、世の人が竜の波動と出会ってはならない!」
老人は、少女から虫籠を受けとると、もときた道を早足で戻りはじめた。まるで足の裏に目があるかのように複雑な形の地面を跨いでいる。少女も獣のようにしなやかな足取りで後に続いた。




