最近流行りの異世界転生だって!?
駅のホームから落とされた。故意ではなく、高校生がふざけていたところ、連鎖的にぶつかって、私が落ちただけのこと。故意じゃないからいいかと言われれば、まったくよくない。こちらは死んでいるのだ。しかも、結構ひどい感じで死んでいる。
入って来た電車に轢かれた。撥ね飛ばされたわけではなく、線路に身体を打ち付けた後に、車輪に轢き潰されて、肉を飛び散らせたというわけだ。
無関係な人にトラウマを植え付けてしまったことは大変申し訳ないと思うのだが、ふざけていた高校生たちは私の肉片でも浴びて心底反省をしてほしい。頭が無事だったばかりに、滅茶苦茶痛くて、結構意識残ってたからね?
そんなふうにもし次に会うことがあれば絶対に許さないと思う程度の恨みつらみを高校生に募らせていたら……というよりも、募らせることができている事実を理解したら、自分が真っ白な空間にいるということに気が付いてしまった。
え……死んだ……よね?
死んだという記憶があって、真っ白な空間にいるというのは、なんというか、ものすごく既視感のある状況だった。私はもちろん、死ぬのは初めてだから実際に体験したことがあるというわけではないのだが、ライトノベルで嫌と言うほど見た状況の一つだ。
「お前」
「ひっ――」
後ろからかけられた声に竦みあがる。竦みあがる、ことのできる、身体がある。声も出た。その声を聞く耳もある。どうして? 死んだはずなのに。
それを意識すると、今度は手の形を自覚することができた。磨り潰され弾け飛んだはずの身体が、しっかりとした形を保っている。
これは……?
「――お前は死んだ」
恐る恐る振り返る。うすぼんやりした影のようなものが見える。不確かな存在だ。
反応を返していいかどうかわからなかったが、口は動かせるようだった。すぐに反応しない私に怒りをぶつけるわけではなく、その不確かな存在は静かに佇んでいた。相手を刺激しないように、ゆっくりと口を開く。
「電車に、轢かれました」
「そうだ。17:48発の電車に轢かれて死んだ。記憶は保持しているようだな」
帰りの混み始めた時間に轢かれたのか。そうか。ふざけている高校生と会うくらいだ。その時間というのは、きっと間違いないんだろう。
「お前には他の世界に行ってもらう」
「……それは、」
「異世界転生。記憶を持ったまま、他のところに行ってもらう」
目の前の不確かな存在は、もしかしたら神かもしれない。逆らっていいことなんてないのかもしれない――とか言ってる場合か!?
「嫌です゛っ!! 本当に勘弁してくださいっ!! 身分差ゴリゴリの乙女ゲーム転生も、モンスター大パニックの冒険者転生も、死ぬ恐怖しかないじゃないですか! あれは創作だからいいんですよ!? 現実で死んだばかりの人間にそれ言います!? しかも記憶あるままに送るよとか……あなた、神というよりも悪魔では!?」
泣きわめきながら、不確かな存在に縋りつく。
「もう絶対死ぬのは嫌なんです。本当に! だから生き返らせてもらえると聞いたって絶対にお断りさせていただきたいんです! どれだけ怖いかわからないでしょう!? 記憶持って転生しろとか言ってもいいのは、死ぬときに轢き潰された記憶がある人だけっていう法律に変えて!?」
鼻水を垂らしながら縋りついたせいか、不確かな存在がちょっと身を引いたような動きをした、ような気がする。触っていないと分からないけど、たぶん、そういう動きをした。
もしかしてこの人……人? 人ではないかもしれないけれど、酷いことをしてくる……怖い存在ではない……のかな? 勢いに任せて変なことを言っても、私を消し飛ばしたりだとか、無理やり転生させるだとか、そう言ったことをする気配はない。
不確かな存在は、私が落ち着くのを待っていたかのように、少しの間のあと、また話し始めた。
「ここにずっといても構わんが」
「……真っ白い空間にいると人間の精神が壊れるって聞いたことあるんですけど……そういう目的ですか?」
壊れるまで観察するつもりなのだろうか。いいご趣味をしていらっしゃる。できれば私に関係のないところでやってほしいが、選択肢を出してくれるだけ大分有情だとも感じるので、とても混乱している。嫌がらせ? 親切心? どっちだ?
「ここに人間が残ったことはないから、どうなるかは知らん。少なくともこちらは壊れたことはない」
「えっ! ……あなたは、ずっとここに?」
「そうだ」
「……死者を他のところに案内する、お仕事的な?」
「役割の方が言葉が近い」
この人、一人でこんなところに押し込められていたということ? なんか上位の存在がまだあるのだろうか。考えるとすごく怖くなってしまうんだけど、これは考えない方がいいこと? それともしっかり考えた上で、現状を選ばなければならないってこと?
頭の中を今までのやり取りがぐるぐる回る。何が正解? どうすればいい? 私はどうしたい?
「本人の同意が得られなかったのは今回が初めてだ。どちらか選べ。こちらの裁量で出来るのは、留めるか、送り出すかのどちらかだけだ」
選択を迫られる。待ってはくれない。この人は役割をこなしているだけだ。
「……ここに、置いてください」
「構わん。好きにしろ」
消極的な解決法を選ぶことにした。死にたくないのも勿論あるが、状況が理解できない。だから今の段階では何もわからなくて選べない。なので、ここに置いてもらうことで時間を引き延ばそうという、なんとも逃げの姿勢だ。死にたくないし、ちょうどいいと言えば、ちょうどいいんだけど、ここにいるのも本当は怖い。考えれば考えるだけ怖くなる。
――でもひとまず、寝っ転がってみようかな……。死んだばっかりで、疲れていると感じる。すごく、本当に。なので、お疲れ様、私。身体を投げ出すと、眠れるような気がした。そのまま目をつむる。お休み。
・・・・・
・・・
・
この空間についてわかったことがある。
ここには不確かな存在さんと私以外の存在は基本的には存在しない。話したりとか、死んでいるけど生き物だった私のようなもののことではなく、物質そのものが存在しない。
椅子もベッドも床も壁も、何もない。真っ白な空間と言ったが、色があるという知覚ではなかったのだ。本当に何もない、という意味だ。
「あなた、こんなところにいてよく発狂しないですね!?」
「お前だって発狂しているようには見えないが」
「そりゃああなたがいるからでしょう。話し相手のいるいないというのはだいぶ違うと思いますけど」
「こちらにも話し相手はいたが」
「死んだ人を案内してるだけでは?」
基本的には、と言ったのは、たまに私みたいに死者がやってきては異世界転生していくからだ。一日に亡くなる人の数を考えると、もっと多くてもよさそうなものだが、思っていた以上に来る頻度は少ない。ごくたまに現れる死者は皆驚くほどに嬉々として異世界に飛び込んでいく。
たまに強くてニューゲームとか言っているけど、きみ、行ったこともない異世界の何を知っているっていうんだい……。さすがにそんな水を差すことは言えないが、気を付けてね、くらいの言葉をかけることはある。ていうか、相手からしたら私がいるのは見えているわけだから、何も話しかけてこなかったら、それはそれで怖いよね。
「それ以外、何かする必要があるのか」
「……ないかもしれないですけどぉ」
ぶっちゃけ他に何もすることがないのだから仕方ない気もするのだが、それにしても彼は意志薄弱だ。水先案内人の意思がゴリゴリに強くても死者の皆さん困るだろうから、転生してもらうって提示してくれるだけくらいがちょうどいいもかもしれないけど……。なんだかそういうふうに調整が施されているみたいで、なんとも言い難い気持ちにさせられるのだ。
「お前、寝なくていいのか」
「もう寝る時間ですか。寝ます」
ここで出来るのは彼と話すことと、眠ることくらいだ。何もないので排泄行動を取らなくて済むのは助かっている。こんな何もない空間でトイレに行きたくなっていたら、本当に地獄だ。
実際、私は眠くなるわけではない。でも眠れるので寝ている。ただずっと彼と話し続けるというのは、苦痛ではないものの、自分から話題提供をしないと話が進まないので、ネタ切れになりがちなのだ。
彼はそれを察しているのか、一定時間で私を寝るように促してくる。彼は意志薄弱であるわりに、私に優しい。
「ほら」
「ありがとうございます」
眠るのに際し、彼は膝……膝的なもの? を貸してくれるようになった。そのあたりに転がっているのを前にして、哀れにでも思ったのか、膝枕をしてくれるようになったのだ。膝枕なんて他の人にしてもらったことがないからわからないけど、彼の膝枕は硬い。
でもあのとき身体を打ち付けた線路よりも、彼は柔らかい。体温はわからない。そもそもここに、温度なんてものはあるのだろうか。
・・・・・
・・・
・
目を開けた時、私の頭はまだ彼の膝の上にあるのだと思う。目の前には揺らめきのようなものが見えるだけで、彼の存在は相変わらず不確かなままだ。
「起きたか」
「よく寝れました。ありがとうございます」
「構わん」
起き上がる。起き上がっているような気がしているだけで、別に床も地面もないのだから、起き上がれていないのかもしれないけど、気分的には起き上がっている。
「ここって、何か作るってことはできないんですかね」
「死者を送り出すだけの場に何がいると」
「そうですかね?」
死んだ後にお葬式みたいな場所だったらそれはもう本当に嫌って言うか、泣くか吐くか、怯えて逃げ出すかくらいのことはあるかもしれないが、ゆっくり話をするのなら椅子くらいあってもいいと思う。それを伝えたら、彼は首を横に振った、ような気がする。
「ああ……そもそもゆっくり話すの、私とあなただけでしたね」
「そうだ」
ここは次点がどうなるかを伝えるだけの中継地点であって、これからの人生を相談する場所ではない。だから椅子も机もいらないし、私以外残る人もいないので特に何が必要というわけでもない、ということになる。
逆に言えば、私と彼がいるんだから、ある程度の設備は整えてもいいのではないかと思うが、そもそも私は本来いないはずの人員で、彼はそういうのを不要だと考えているため、結論としては何もいらないという話になってしまう。
「あ、じゃあ、花はどうですか」
「そんなものを何に使うんだ」
「旅立ちの門出に、何もないのは寂しいですから」
死んだんだから花くらいもらってもいいんじゃないか、という、なんとも安易な考えだったが、もらった花は特に次の人生に持って行くこともできないだろうし、やっぱり不要なものかも。
考えた矢先、彼と私以外何もなかった空間に、明確な色が着いた。赤い花だった。見たことがある。
「スイートピー……?」
「お前が思い浮かべた、相応しい花が咲いたはずだ」
自分のことながらよくわからないんだけど、スイートピーって送り出す時に渡す花だっけ? 少なくともお葬式の花ではないような気がするから、これでいいのかもしれない。暗い気持ちになるような空間から旅立つのは、きっと誰でも嫌だろうから。
「なんだか景色が全然違って見えますね」
「そもそも景色なんてものがここにあったか」
「なかったですねぇ!」
何もないところを景色とは呼ばないだろう。でもだからこそ、今、景色と呼べるようになった状態は圧巻なのである。
赤いスイートピーが視界の端まで広がっている。その真ん中に、彼と私。彼の揺らめきが、いつもよりはっきりと見えている気がする。色が生まれたから、その対比だろうか。
「……真っ赤な花畑は悪印象じゃないか?」
「…………そうかも?」
圧巻ではある。でもたしかに、赤い花だけというのは死んですぐの人間に見せる景色でもないかもしれない。思ったら、色とりどりのスイートピーが咲いた。淡い色が多いので、きつい印象は緩和された、ような気がする。
・・・・・
・・・
・
彼と二人、花冠が異様に上手になった。作っては消えてしまう花冠だが、確実に上達しており、彼も私も、売り物にしても問題ないほどの腕前になってしまった。売る人も買う人もいないので、互いの頭に載せる程度のことしかできていないのだが。
「赤と黄の派手めコーデです」
「紫から白のグラデーションだ」
「くっ……あなた、めちゃくちゃ繊細な花冠ですね……やりますね……」
「お前のものは豪奢だ。やるな」
互いの花冠を褒め合い、相手の頭に載せて観察する。彼はこういった少し大きめの花冠が似合う気がする。しかし作業としては大変細かい作業を得意にしているようで、彼の作る花冠は細かな編み込みなどが多く、非常に繊細な作り込みの花冠になっている。それに対し、私は彼が豪奢と表してくれたようにたくさんの花を厚めに、多めに重ねるような大ぶりな花冠だ。
「う、……ここ、なに……わたし、死ねたんじゃなかったの……?」
呻き声が聞こえて振り返る。女の子がひとり。顔色が悪い。死んだばかりだから、というよりも、彼女はずっと調子が悪かったのではないだろうか。目元の隈は深刻な色素沈着具合で、頬もかなりこけている。しかも『死ねたんじゃなかったの』という言葉が私の想像した意味ならば、彼女の死因は……おそらく、自殺だろう。
とはいえ、自殺した人は初めてではない。彼が違う世界に行けるというと、安心したように次の人生に進む人が多い。そういった人たちは、あの世界にはいられなかっただけで、別に死にたかったわけではないのかもしれない。なんとも悲しい話だった。
彼がいつものように既に死んでいること。次は別の世界に転生をすることを告げると、その子は顔を真っ青にさせて俯いた。なんだか自分を思い出す。もう二度と死にたくない気持ちはわかる。
「わたし、転生なんてできません」
――と、思ったのだけれど、その子の言い回しはなんだか、ちょっと違うような感じがした。私のように自分が死にたくないから、という利己的な感情ではないように思えたのだ。
その子はしばらく黙り込み、それから懺悔の言葉を吐き出した。多分、誰かに聞いてほしかったのだろう。
「五年前、わたしのせいで人が死にました。ちょっとふざけてただけなんです。友達とこづきあってただけで、でも、それで、人が落ちて、電車に轢かれて、う、……お゛ぇ、…」
それはなかなかにヘヴィな人生だ。話が重い。なんと言葉をかけたらいいかわからない。
彼の纏う空気が、少しだけ変わった。いつもなら何かを言うはずの彼が、何も言わずにただ、こう、我慢して黙っているような……? 彼が私を、見た気がした。彼の揺らめきが、いつもよりも大きい気がする。ゆらゆら。硬いはずの彼が揺れている。
「ああ。そうか。私か」
電車に轢かれた被害者と、ホームでふざけていた高校生。それが私と、この子だ。
急に言葉を発した私に、高校生だったその子は驚いていた。今はもう多分、高校生という年ではないんだろうけど。
「私。電車に轢かれたのが、私」
「は……ぇ、う、うそ……」
「たしかに、もしかしたら同じような状況に遭っただけの、他人かもしれない。私、駅のホームでふざけてた高校生に直接押されたわけではないんだけど、一番前に立っていたの。だから連鎖的に押されて、線路に落ちて、そのまま轢き潰されたの。身体の肉がぐちゃぐちゃになって焦げ臭くて、飛び散って……頭が無事だとね、なかなか死ねなくて痛いんだよ、あれ」
違うなら違うでもよかった。被害者の気持ちを知れるいいチャンスだよ。本来なら絶対に聞けない死人からの証言だもの。もし違う人だとしても、真剣に話を聞いて損はないと思う。
開き直るのだろうか、と思っていたら、その子は思いっきり頭を下げて、引きつった声で謝罪を繰り返した。
――ごめんなさい、わざとじゃなかったけど、わたしのせいです。ごめんなさい。殺してしまってごめんなさい。
泣いていた。私もなかなか聞けない謝罪だった。何せ私も死んでいる。本来ならこの子の謝罪は聞けなかっただろう。こうして聞いてみると、聞きたくなかったような気がする。許す許さないとかじゃなくて、なんだか、この子の方が私よりも余程苦しそうだから。
「次会うときは、許さないつもりだった。滅茶苦茶痛かったし、意識と一緒に何かが失われていくのを私、はっきり覚えてるから」
「は、い。わたしが、わるかったんです、ごめんなさい……っ」
「もう謝らないでいいよ。私、きみに苦しんでほしいわけじゃないんだ」
恨みつらみは、多分あったはずなんだけど。もう忘れてしまった。この子は多分私のことを気に病んで自殺してしまったのだろうから、もう許されたっていいだろう。何せ被害者の私がいいって言ってるんだし。他のふざけてた子は知らないけど。
うずくまってしまったその子の頭を、撫でる。パサついた髪。若いはずなのに、死を選ぶしかなかった、可哀想な子。自業自得の、当然の結末の一つ。他のふざけてた子は、もしかしたら何も考えずにへらへら生きているのかもしれないのにな。この子はちょっと浅慮なだけの、いい子だったんだろう。
「私みたいなのを生まないために、反省して。駅のホームでふざけない。要するに危ないことはしない、いいね?」
「はい……はい……もうぜったい、あんなことは、しません……っ」
「よし! そうしたら、次に行ってオッケー!」
いいったらいい。私がいいって言ってるんだから、いいのだ。誰が許さなくても私が許す。もうこの子は許されていい。
「あれ、ネモフィラが咲いた」
青く小さな花。愛らしい花。多分、この子のための花だろう。生えて来た花を髪に差す。うん、よく似合っている。
「いってらっしゃい。次の人生は、楽しんで」
この子の声はもう言葉にならなかった。涙で、嗚咽で何を言っているかわからなかったから。
今までの死者と同じように身体が消える。次の人生に進む決意をして、消えていったのだろう。
「……よかったのか、あれで」
「いいんじゃないですか? お互い肩の荷が下りた感じで」
忘れていたわけだから、大した荷でもなかったのかもしれないが、荷は荷ということで。
ネモフィラを見て、彼を見る。
「さて、新しい花が咲いたみたいですね。もう一回戦行きますか?」
「小さい花だと、こちらの方が有利な気がするが」
「やってもないうちから勝利宣言ですか? ふふふ、後悔させてやりますよ」
彼と二人、花畑に腰を下ろした。ネモフィラの花を摘み、花冠づくりに戻る。しばらくはこれで対決することになるだろう。
・・・・・
・・・
・
ネモフィラの花冠づくりは白熱した。メインにスイートピーを使い、飾りにネモフィラを加えるなど、単一だけでない花冠も作ったり、変則的にレイのような首飾りを作ってみたりと流行りのようなものもあった。
死者はたまに来て、見送った。その間隔も、なんとなくだがわかるようになってきた。またそろそろ、やってくる頃だろう。そんなふうに思っていたら、女の子が来た。
事故死だろうか? 健康そうな若い女の子だった。女の子は立ち上がるなり、罵声を吐き出した。
「はあ!? 何ここ、意味わかんないんだけど! 誰だよ、連れて来たのは!」
元気だし口悪い。こんなに活きのいい子ってあんまりいないんだけど……。
驚いている私とは反対に、彼はこういった相手にも慣れているのだろう。何か気にした様子もなく、女の子に話しかけている。
「おい、そこの女」
「はあ? ……なに、気持ち悪。あんたモテないでしょ。話しかけないでくれる?」
「死んだことを自覚しろ」
「はああ?! 意味わかんないんだけど! 頭おかしいんじゃないの!?」
この子、もしかして死んだときの記憶がないんじゃないだろうか。ここまで彼の話を否定すると言うことは、多分そう言うことだと思う。突然花畑に飛ばされて、記憶がなかったら怖いかもしれない。でも私の時は、死んだ記憶ばっちりだったからなぁ……。あれはあれで怖いけど。
騒いでいる女の子に、彼はただ違う世界に転生する話をした。女の子はそういった話を、創作でも目にしたことがなかったようで、意味が分からないと怒鳴り散らすばかりだ。
「早くここから帰してよ!! 気持ち悪いんだよ!!」
女の子は怒りをまき散らすように、足元の花を踏みにじった。少しだけ悲しかった。引きちぎれ潰れた花が私の死体みたいだった。
「――そうか」
ただそれだけ。一言彼が呟いただけで、私は驚いた。聞いたことのない低い声に、急激に増した存在感。彼の目もとが、爛々と、輝いている。
「そんなに死にたいのならこのまま消してやる」
一度たりとも聞いたことのない、暴力的な選択肢。でもこれは、もう彼の中では決定事項になっているようだった。女の子もその本気を感じ取って、自分が死んだことは忘れているくせに殺されるかもしれない恐怖に怯えていた。
「ひっい、嫌ッ、こないでっ!」
「ま、待って! 待ってください! 落ち着いて!」
女の子の悲鳴を聞いて、私も慌てて動き出した。彼と女の子の間に身体を滑り込ませる。この行動になんの意味もないのかもしれないけど、少なくとも彼は足を進めるのをやめて、動きを止めた。
「きみ、早く転生するって言いなさい! 早く!」
その隙に逃げることをオススメすることくらいしか、私にできることはない。女の子は半分泣いたような顔で、「転生する! 転生するから!!」と叫んでいた。
了承が取れれば、こんなところからはおさらばだ。女の子の姿は、瞬く間に消えていた。なんだか可哀想なことになった。次の人生は幸せにやってくれればいいけど。
「あなた、どうしたんですか。あんなに怒って」
「……あれが、怒っている状態か?」
「私には怒っているように見えました」
でも本当は違うかもしれない。私だったら、という考え方だ。彼の中では怒っているわけではなくて、何か、もっと別のものだった可能性もある。
彼は私の言葉に、下を向き、何かを考えているようだった。
「お前の……お前の咲かせた花を、踏みにじった。それを見たら、中が掻き乱されるような、」
彼が怒りに似た何かを、私のために持ってくれたのだと知って、嬉しくなってしまった。きっと彼は嫌な思いをしただろうに、嬉しくなってしまうなんて申し訳ないと思いながら、それでも口元が緩むのを止められなかった。
「ありがとうございます」
「……いい。それくらいしか、こちらにはできない」
オレンジ色の百合が、一輪だけ彼の足元に咲いていた。
・・・・・
・・・
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気が付けばオレンジ色の百合はなくなっていた。花冠の大きな飾りにしたかったのに。そのうちまた生えるだろうか? それともあれはレアなお花だった? 花の生え方にはおそらく規則性があると思うのだけど、それを解明するのは私には難しかった。
花冠づくりに勤しみ、くだらない話をし、それを幸福と感じるようになっていた。死にたくないのもあったが、ここに残ることを選んでよかった。心の底から、そう思う。
また死者が来る。その人はすぐに転生を選んだ。
今回できなかったことを次の人生ではやってみたいと前向きな言葉で抱負を語った。
「よき旅を」
彼が、そう言った。見送りの言葉を初めて聞いた。彼は、笑っているのだろうか。わからない。
赤いシクラメンが、私の足元に咲いている。
・・・・・
・・・
・
たくさんの月日が経った。スイートピーとネモフィラの花畑はいつしかの隆盛から過ぎ去り、荒れてしまっている。そしてそれを、どうすることもできないでいる。
すべて私が原因だ。いつの日からか、彼が私以外に優しくするところを見ると、不愉快になっていることに気が付いた。死者に対する、いつも通りの彼の優しさが、妙に私を刺激する。頭を抱え、横になる日も増えていた。花冠など、もうどれほど作っていないだろうか。わからない。
花畑は気が付けば、たくさんの花が増えていた。いつの間にか赤いシクラメンやヒヤシンスに加え、マリーゴールドまで咲いている。統一性のない花が、あちらこちらから生え、スイートピーとネモフィラを食い荒らしていくようだった。
一緒に作る花冠を幸福に思っていたのが嘘のように、今の花畑を見ると頭痛を引き起こす。
わからない。自分がどうやって、穏やかな気持ちで過ごしていたのか、まったく思い出せない。
彼が他の人と話すと、苛立ちが止まらなくなる。ああ、嫌だ。いやだ。
――とても、疲れた。
「ねえあなた、相談があるんです」
「どうした」
彼はいつものように私を膝枕して、優しく声をかけて、頭を撫でてくれる。ずっとここにいたい。そう思わせてくれる、優しい、おぼろげな指先。
「私、今からでも転生することはできますか?」
でもここにいたら、きっと、もう駄目だ。自分の感情が制御できない。私は――彼を、自分だけのものにしたくなってしまった。
これは好きという感情だろうか? それともただの独占欲? 自分に優しくしてくれる人が欲しいだけの、浅ましい気持ち? 何にせよ、綺麗なものではなかった。荒れ果てた花畑のような、汚らしいもの。
彼は何も言わなかった。彼からの言葉を待つ。
返って来たのは、か細い声だった。
「……ここから、出ていくというのか? 置いていくのか、今更、どうして、ああ……」
彼の反応は、転生できると言うことを示しているように思えた。今更、どうして。本当に、その通りだ。今更過ぎる。どうして。その言葉に私の汚い感情を教えたくない。汚い私を知られたくない。知られるくらいだったら、もう一度轢き潰されて死んだ方がマシだった。
だからあなたには、花畑で馬鹿みたいに笑っている私だけを覚えていてほしい。忘れてくれてもいい。腐っていく私を忘れて。
「許さない」
その一言が、予想できないもので、とても嬉しかった。彼は私との別れを悲しんでくれている。転生しないでほしいと思っている。ここにいて欲しいと思ってくれている。
彼の手が、私の肩を掴む。今までの優しさはどこにいってしまったのかと思うくらいに、痛みを感じた。目が爛々と輝いて――ああ、怒っている。彼は怒っている。
「行かせるものか! お前をどこにも行かせはしない!」
聞いたこともない怒声。今までそよ風だって吹いたことのない空間に、嵐のような暴風が吹き荒れる。吹き飛ばされてしまいそうなのに、彼に押さえつけられた身体が風に浮くことはなかった。
花畑が形を失っていく。暴力的な風を前に、引き千切られて飛んでいく。汚く感じていた花が、宙を舞って、綺麗に見えた。本物の嵐のように灰色の曇り空ではないせいもあるだろう。白い空間に、色とりどりの花が舞っている。
「きれいね、あなた」
彼の怒りはとても美しかった。
・・・・・
・・・
・
目を覚ましたら、暴風が収まっていた。あんな風の中、私は眠ってしまっていたらしい。よく眠れたな、と我ながら感心していると、目を開いた先に驚いた光景が広がっていた。
彼が泣いている。目が、涙の流れる輪郭が、はっきりと見て取れた。
「行くな……置いていかないでくれ……」
口が動いている。今まで見えなかったものが、見えるようになっている。
なんだかとても新鮮で、見惚れてしまった。
「お前、聞いているのか」
「聞いてます。ごめんなさい」
謝ると、彼はいつかのようにまた優しく頭を撫でてくれた。指の感覚が心地よい。
ずっと一緒にいたい。だから、もう、言ってしまおう。振られたら逃げればいい。きっと転生できる。もし受け入れてくれるのなら、きっととても幸せだ。
「ねえ、あなた。私、あなたのことが好きになってしまったみたいなんです」
「好きなら何故出ていこうとしたんだ」
「あなたが他の人に優しくすると、勝手にやきもちを焼いてしまうから。あなたの優しさを美しいと思うのに、向けられた他の人を、壊してしまいたくなるんです」
彼は目蓋をぱちぱちと開閉させていた。考えているのだろうか。驚いているのだろうか。嫌悪感のようなものは見えないから、追い出されるようなことはないと、思いたい。
「それが、好きか?」
「私の好きはそうみたいなんです。軽蔑しました?」
「いいや。こちらの好きと合致した」
今、私にとって都合のいい言葉が聞こえたような気がした。彼も私のことを好きと言わなかっただろうか。幻聴?
「お前が死者に優しくできることを美しいと思った。だが、それがどうにも、許しがたいような、中身を掻き毟りたくなるような衝動に駆られるんだ。お前はこちらだけを見ていればいいのに、と」
どうやら幻聴でも聞き間違いでもなかったようだ。嬉しくて頬が緩む。いいのだろうか、こんなことがあって。
気持ちの勢いのまま彼に抱き着くと、彼は動きを止めた。もともと硬い身体だけれど、びっくりして硬直してしまったようだった。
「好きです、一緒にいたい」
「……こちらもだ。頼むから、冗談でも二度とあんなことは言ってくれるな」
「はい、ごめんなさい」
彼は恐る恐る私のことを抱きしめ返してくれた。温度は相変わらずわからない。でも、彼の優しさも変わらない。
視界の端で、千日紅が揺れている。そよ風が吹いていた。
「指輪が欲しいです。お揃いの」
「……婚姻指輪というやつか。互いを縛り付けるものだな」
「結婚してくれるんですか」
「ああ」
生きていた頃だって、多分結婚なんてしなかった。転生していたら、もしかしたら人間の伴侶ができて、子どもがいて、普通の幸せな生活を送っていたのかもしれない。でも私は彼がいい。彼だけでいい。あの時、転生しなくてよかった。
千日紅を、彼が手に取る。シロツメクサの指輪のように、器用に編み込んでいく。
「おいお前、何をぼうっとしている。こちらの分を作れ」
「……そうでした、婚姻指輪ですもんね」
彼のものを私が作って、私のものを彼が作ってくれる。それはなんて幸せなことなんだろう。
私も千日紅を手に取る。繊細な作業は彼より苦手だ。でも不格好な指輪が出来たとしても、彼はきっと喜んでくれるに決まっている。彼の見たこともない笑みを想像しながら、指輪を編み始めた。