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私の母は明るい人だった。穏やかで優しい人だった。怒られる事はあっても叩かれた事なんて一度も無かった。でも怒るととっても怖い人だった。
母は私の為にと、よく手作りの洋服を作ってくれた。私の大好きな色『水色』の布を使った色んな小物も作ってくれた。
母はセンスの良い人だったから、私は母の手作りしてくれた洋服が大好きだった。
おやつも母はよく手作りしてくれて、プリンやゼリー、クッキーやホットケーキなどの定番のお菓子以外にも、パウンドケーキやゴマのお煎餅なんかも手作りで作ってくれた。
夏になればアイスクリームも手作りしてくれた。しかも料理上手だったからどれも本当に美味しかった。
そんな母だったから、もちろん私の誕生日には手作りの誕生日ケーキを作ってくれた。
生クリームで綺麗にデコレーションされたケーキの上には、私の大好きな苺をたっぷりのせてくれていた。もちろんケーキの中にもたっぷりと苺と色んなフルーツが入っていた。
私の為の特製ケーキは母の愛がたっぷり詰まっていた。
当時私は習い事をしていた。
ピアノと習字だ。
ピアノは残念ながら才能が無くて練習しても全然上達しなかった。結局ピアノを弾くのはいつまでたっても苦手だった。
でも習字に関しては上達が早かった。
早々に市の習字コンクールで特選を貰い、県のコンクールでも入選した。賞を貰った私の習字の作品が飾られているからと、電車に乗って母と見に行ったのを覚えている。
母は「秋ちゃん頑張ったね、凄いね!」と私を何度も何度も褒めてくれた。私は母に褒めて貰えるのが嬉しくて習字以外にも、学校の勉強も頑張った。
家のお手伝いもたくさんした。お使いに行ったり、玄関の掃除をしたり、お風呂を洗ったりした。その度に母は大袈裟なくらい喜んでくれた。それが嬉しくて、私は積極的に家のお手伝いをした。するとやっぱり母は大袈裟なくらい喜んでくれた。
テストで百点を取った時も。
母の誕生日プレゼントにと一生懸命描いた、下手くそな似顔絵を贈った時も。
れんげ草の首飾りを作ってプレゼントした時も。
いつもいつも母は大袈裟なくらい喜んでくれた。
今はこう思う。
母はきっと大袈裟じゃなく、本当に本当に嬉しかったのだ。娘が母に喜んで貰おうと、一生懸命頑張っている姿が嬉しくて堪らなかったのだ。
私は八歳まで母に愛されて育った。
暴力とは無縁の、日だまりの様な暖かく穏やかな愛に包まれて幸せに暮らしていた。
そう、私は本当に本当に、幸せだった……。
だがそんな日々は両親の離婚により終わりを告げる。
実は両親が離婚すると聞かされた時、どちらと暮らしたいか聞かれた私は、母と暮らしたいと告げていた。
だがそんな私の願いは完全に無視され、ダブル不倫をしていた両親はどちらが私を引き取るのかについて揉めに揉めていた。
当時の母の年齢を越えた今の私なら、分かる気がする。
母は母親ではなく女である事を選んだ。
実の娘より不倫相手を愛していたんだろう。
実際、母は不倫相手と再婚した。
だから母と暮らしたいという娘の訴えを無視できた。
実の娘を捨てる事ができたのだろう。
結局父に引き取られる事になった私は、父に連れられ当時の父の単身赴任先に連れてこられた。生まれ故郷とは飛行機の距離の学校へといきなり転校させられたのだ。
幼なじみや友人達に別れを告げる事すらできなかった。それぐらい急な転校だった。もちろん心の準備などまったく出来ていなかった。
父は既に単身赴任先で不倫相手と一緒に暮らしていた。
連れてこられた当日、まだ何も聞かされていない不安でいっぱいの私に対して父は「この人が今日からお前の母親だ」そう言った。なんて気遣いの出来ない父親だろう。
そんな父は『お母さん』と呼ぶのを拒んだ私を何度も何度も殴りつけ、無理やり『お母さん』と呼ばせるような最悪の父親だった。当時父から殴られた事がほとんど無かった私は、ショックで頭が真っ白になった。
そんな最悪な形でのスタートで、継母と良好な関係なんて築ける訳がない。こんな始まり方もあってか、すぐに継母の虐待は始まった。そりゃあそうだろう、父親が娘を殴って平然としているのだ。殴っても問題ない、そう思うのが自然だ。
正直言ってなつかないクソガキだった私は、父と継母にとっては邪魔な存在でしかなかったのだろう。実際の私は、継母に殴られても泣くどころか継母をキッと睨み返すような子供だったのだから。
実はそれには理由がある。
当時の私は両親の離婚の理由を聞かされてはいなかった。母に捨てられたなんて思ってもいなかった。
私は一時的に父に引き取られたのだとばかり思っていた。いつかまた母と一緒に暮らせると信じていた。
だから少しの間だけ耐えればいい、そう思っていたのだ。
いくらこちらが継母と仲良くしようとしても、気に入らない事があるとあちらから殴ってくるのだ。そんな女となんで仲良くしなければいけないのか。
そんな私が母に捨てられた事実を知ったのは、両親の離婚から二年ほど経過していた。継母の虐待が殴る蹴るの暴力から、木刀を使ったものへと変わっていった頃だった。
継母の虐待に耐えかねて、父に母と暮らしたいと訴えたのだ。また母と暮らすという未来は虐待に苦しむ私にとって唯一の希望の光でもあった。それだけを心の支えに耐えていたのだ。
だがそんな私に父が語った内容は衝撃的なものだった。
初めて知らされた離婚の真相、一人で暮らしているとばかり思っていた母は当時の不倫相手と再婚し子供までいるという。しかも離婚をする直前に父親名義で多額の借金までしていたらしい。
父は多少は私に対して申し訳なく思っていた様で、すぐに母へと掛け合ってくれた。だが答えは聞くまでもなく分かりきっていた。
私は結局、二度も実の母親に捨てられたのだ。
お母さん、お母さん。
私はお母さんにとっていらない子なの?
お母さんなら私を助けてくれるって信じてたのに……。
怒りや憎しみ、悲しみ、ただただ母に会いたいと願う母を乞う思い。すべてが混ざりあった、ぐちゃぐちゃな感情。
裏切られた、裏切られた、私は見捨てられた。
そう実の母に見捨てられたのだ。
私はあの時の感情をどう表現していいのか分からない。あれはきっと、絶望を越えた先の感情だった。
――私はこんなに苦しんでるのに、お母さんは私を見捨てて自分だけ幸せになったんだ!
――絶対に、絶対に許すもんか!!!
そしてこの日を最後に二度と母は、私の心の支えになる事はなかった。
それから先は本当に地獄だった。
益々酷くなる虐待、毎日木刀で殴られ、時に背中に火の着いたタバコを押し付けられ、一晩中下着姿で正座させられ、真冬の朝に冷水を浴びせられたりした。
髪の毛をハサミで無理やり切られてザンバラ髪で学校に通わされた。その時に耳まで切られてしまったのに治療も受けさせて貰えず痛みに苦しむ羽目になったりもした。
そんな地獄の様な毎日の中で私を救ってくれたのが、生まれ故郷の思い出、あの春の日のれんげ畑の風景達だった。その風景の中に、母はもちろんいない。
母との思い出は、私の中で無かった事にされた。
いや違う。
あんなにあんなに母に愛されていた思い出を、私は自分から無かった事にしたのだ。
もう、誰も助けてはくれない。
父親と母親の実家とは、飛行機の距離だ。
自由に使えるお金が無い以上、助けを求めるのは不可能だ。
こうなったら頼れるのは自分だけだ。
誰も信じられないのだ。
ただただ、耐えるしかない。
この地獄を耐えるしかない。
こんな地獄に叩き落とした『あの女』
絶対に許してなんてやるものか!!!
でも本当は気づいていた。
なんでこんなに憎いのか、許せないのか。
母を『あの女』なんて呼んで憎みながらも……。
なんで、なんでこんなにも胸が苦しいのか。
愛と憎しみは紙一重。表裏一体なのだ。
これほどに憎しみが強いのはその裏返しなのに。