その刀は両刃で出来ていた
パブロフの犬って知ってる?条件反射ってやつなんだけどさ。
ある音を聞かせた後に餌を与えると、次第にその音を聞くだけで涎が出るようになっちゃうってやつ。まあ有名な話だし、みんな知ってると思うんだけどさ、もしもそれが人間に使われたらどうなると思う?しかもそれが恋人だったら。
ぼくに恋人がいたことは無いんだ。いや、あったのかな。でもあんな人たちは道具に過ぎなかったし、身体さえあればなんでもよかった。え、酷い?何を以って酷いって言うのかな。相手がぼくを好きだったらどうなのかって?いやいや、相手の感情なんてぼくの知ったことじゃ無いよ。第一、道具が主人に感情を持つなんて、付喪神じゃあるまいし、そんなのは100年経ってもお断りだ。
なんの話だったかな...あぁ、パブロフの犬の話を恋人で試したらって話か。まあ、厳密に言えば、相手の恋愛感情に条件反射を与えたらって話なんだけど。これもよく言う話で、キスをする度に耳を触られると、耳を触られるだけで興奮するようになるんだってさ。なるほど、面白い。でも、これじゃあまだ刺激が足りないと思わないかな。ぼくだったらもっと派手にやる。
相手の恋愛感情「全てに」条件反射を押し付けるんだ。全ての想い出の端々に、共通動作を置いてくる。それが長ければ長いほど、続ければ続けるほど、突き放すその瞬間は面白くなるだろう。どうせどの道具を使っても一緒なんだから、実験の一つでもしようって話だ。
ちょうどいいところに女がいた。人当たりの良さそうな、どう見ても男性経験のなさそうな女だ。ぼくは手っ取り早くそれと連絡を取り合い、交流をし、そして付き合うことになった。
最初のデートは遊園地に行った。まあ、楽しくないこともないけど、別になんてことはなかった。そんなことはどうだっていい。さぁ、実験の時間だ。最後は観覧車と相場は決まっているわけで、ぼくらも例に漏れず観覧車に乗った。この女にとってはファーストキスなんだろうなと思い、ぼくは女の耳を触った。ここからぼくの大実験が始まるかと思うと、それはただのキスでは得られないほど、たまらない快感だった。
その後、何度もデートを重ねた。その女が犬になる日は近かった。互いの誕生日を盛大に祝い、ぼくが熱を出せばわざわざ家まで看病に来た。いつ、どんな状況の中でも、ぼくは動作を置くのを忘れなかった。
そして時は満ちた。この台詞、一度言ってみたかったんだ。さぁ、やろうか。一世一代の大実験を!今日起きることを考えると、ぼくは図らずもにやけそうになった。
いつもと同じようなデートコース。相手には、いつも通りのぼくが映っているだろう。ディナーも終え、あとはいつものあの動作をするだけだ。帰り道、暗い夜道を立ち止まる。ぼくがいつも通り女の耳に触れると、女は無意識に身体預けてきた。
よし、ここで一気に突き放すんだ。最後を盛り上げるほど、実験結果は盛大になるだろう!そうしてぼくは、彼女にこれ以上ない程の暴言を吐いた。...つもりだった。
その折、あり得ない液体が目から分泌された。なんだ?一体なにが起きた?一切理解の出来ない現状にぼくは戸惑った。
その時刹那、ぼくは思い出したんだ。初めてのデートで遊園地に行ったこと。誕生日に腕時計を貰ったこと。風邪をひいたぼくに、こっちが心配になるくらい尽くしてくれたこと。
そして全てを悟った。...あぁ、そうか、条件反射になっていたのは、ぼくもまた、同じだったんだ。この思い出が、この涙が、この感情が。この全てが恋だって言うのか。ぼくは無意識に彼女を抱きしめていた。
「なんで、泣いてるの?」
なんでだろう。ぼくは、なんで泣いているんだろう。...いや、本当はもう分かっているはずだ。あの瞬間、別れたくないと思ってしまった。想像するだけで悲しくなってしまったんだ。ぼくは、ぼくは...。
「それは...ぼくが、どうしようもなく、君のことが大好きだからだ。」
ぼくの持っていた愚鈍な刀は両刃で出来ていた。