第二話 『ヴァレンタイン家の姉妹』
幕間劇 『世界を引っ掻く悪しき爪』
ヒトは欲深い。そして、それを自覚しているが故に、己の欲望を必死になって隠そうとする。そうすべきだな。なぜなら、彼らの欲望とは実に恐ろしいものだからだ。ときにそれはヒトが持つ理性とやらを凌駕し、集団を統率している倫理をも壊してしまう。
そうなれば?
……破滅が訪れる。
欲に駆られた愚か者どもは、暴力や卑劣な手段を用いて望みを叶えていくだろう。寛容さや慈悲が失われ、ヒトは隣人をまったく信用しなくなる。その状況に至れば『群れ』を維持することは不可能だ。
村だろうが、国家だろうが、それよりも大きな文明というサイズであろうとも、公平さと信頼関係を失ったヒトの群れは例外なく弱体化し、滅びてきた。それ故にヒトは自制しなくてはならない。ヒトの欲は、ヒト自身を容易に滅ぼすほど強い業火であるのだから。
それほど『邪悪』な動物がヒトなのである。
そうだというのに……。
おどろくべきことに、ヒトは『正義』を好む。
多くのヒトにとって、自分が悪であることは耐えられない屈辱でもあるのだ。己が欲求を叶えるための悪行にさえ、そのバカバカしい習性は及ぶ。
たとえば欲望を叶えるための殺人や窃盗などは、ヒトの倫理からすれば明らかな悪であろう?そうだというのに、時にヒトはその明快な真実さえも認めることが出来なくなる。
たとえば戦争だ。他人の土地や財産、女や奴隷などを手に入れるための残虐な行い。だが、多くの戦争において悪行は正当化される。戦時下においては何をしてもいいのだ。あらゆる行為が『正義』の名のもとに赦免される。
多くのヒトは悪であることに耐えられない。だが、もしも悪を強要されるとき、ヒトは滑稽なことに大きな嘘をつく。集団のすべてが嘘つきになるのだ、この悪行は『正義』であると言えばいい。そうするだけで、ヒトは痛みを感じずに悪でいられるのだよ。そして、偽りの『正義』のもとに、悪はますます栄えるのだ。やがて滅びるその日まで。
―――じつに困ったことだが、我の研究するヒトとはそういった厄介な習性をもつ動物なのだ。習性ゆえにこれは不変である。古今東西どの民族も文明も、まったくもって同じ行動を選択する。例外など無い。
しかし、そのことが我の計画にとって有利に働いたときも多々あるのだ。あの愛すべき下等ほど、我ら魔族の意のままになる存在は他にあるまいて。
―――『二百年の健康』をお前にやろう。
―――ただし、我が望みをお前が叶えたならな。
我が出した提案に、老境の愚王カルティエはすぐさま食いついた。みじめに飢えた野良犬のように涎を散らし、目の前に出されたエサへと迷うことなく食いついたのだ。
アレは愚かな王ではあったが知性がなかったわけではない。ヤツは知っていたのだ、自分が死ねば四人の息子たちが玉座を巡って殺し合い、その苛烈な紛争をすでに疲弊しきっている自分の王国がどうやっても耐えられはしないことを。愚王は自分の命が延びれば、それだけ王国も長く存続することが出来ると信じていたのだ。
100万の民を率いる愚王は、我に千の乙女を差し出した。
乙女らは我が術を施すことで、強き魔術の素養を植え付けられることとなる。『魔女』たちだ。彼女らは愚王の言葉に踊らされた男たちによって残酷な目に遭わされた。若く清らかな乙女をなぶりものにする機会を与えられたのだ。
彼女たちが男のもつ嗜虐性の犠牲になることは当然だろう。我の証を持つ乙女たちは、邪悪とされ、強姦や私刑の憂き目に遭わされたあげく、村から追放された。
『女狩り』……いや、『魔女狩り』。
ああ、なんと都合の良い言葉であろうな?王は我に健康の対価である乙女をこれによって支払えるし、乙女やその家族から奪った財産のおかげで王国の財政はそこそこ潤ったのだ。男どもは乙女で楽しむことができるし、女どもは自らより若く美しい乙女どもが近所から消えてさぞや喜んだことだろう。美醜にまつわる終わりなき劣等感から解放されたのだからな。老いという不利を解消する方法など下等どもにはないのだ。
我の力を刻まれたことで『魔女』と蔑まれ、さまざまな不幸を味わうことになった乙女たちは社会から追放される。
殺されそうになる場合も少なくなかったが、我にとって乙女らが殺されることは本望ではないので、多くの場合は命を助けてやった。もちろん、すべてのケースに手が行き届いたわけではないがな。ヒトは我の予測を上回る残酷さを持っているのだ。
森や谷底などに隠れ住むしかなくなった我の愛しき乙女らは、我が与えた魔術の素養と大いなる知識によって生き延びる。こうして我はファンタジーを完成させた。
……そう、もはやヒトの妄想のなかにしか存在していなかった『真の魔女』たちを復活させることに成功したのだよ。
これらの血筋はじつに孤独であろう。『魔女』と関わりあいたいと願う勇敢な男は少ない。魔道に堕ちた術士や、魔獣がはびこる地を放浪できるほどの荒くれ者ぐらいしか『魔女』と交尾する対象はいないと予想していた。
おお!過酷なる淘汰圧!その果てに起きるなんと素晴らしい交配か!
そやつらの『雑種』こそが我の目的。これらの血が混じり合う内に、我が望む『進化』を促進できると考えた。我が意図的に与えた才能と、運命が形作った天然の才能どもが混じり合う!それは、より凶暴な生物の誕生を期待させるには、十分な前提条件なのだ。
魔王であろうとも。
勇者であろうとも。
世界を救済しようが滅ぼそうがどちらでもいい。強い生物であれば、それでいいのだ。いつか出会うその者こそが、我を癒やしてくれるであろう。
我はその邂逅を促すためにすべてを操る。百の王を甘言で騙してみよう。間抜けなモンスターどもを保護してやり増やしてやろう。世を乱すことを望む政治的野心家に、とっておきの魔剣をプレゼントしてやるのさ。
……ヒトは本当に愚かな動物だから、たったそれだけのことでいい。こんな世界はたやすく荒れ果てるだろう、暴力無しには生き抜けぬほどにな!
フハハハ!さあ、戦え!殴り合え!殺し合え!みじめな下等どもよ!そうすることで貴様らは研磨される!!
強き技、強き魔術!
生存の知恵、生きようとする鋼の意志!!
それらが無くては絶対に生き延びれぬような世を与えてやろう……。
ああ、まだ見ぬ我の『天敵』よ!お前のために、この下らない世界のすべてを捧げよう!!お前はそれを喰らうことで完成するはずだ!!
だから。
だから、早く生まれておくれぇ、たくましく育っておくれぇ!
我の愛しき邪悪よ!!
我の愛しき英雄よ!!
我は、そなたに恋い焦がれておるのだ。我が灼熱のブレスよりもはるかに熱く!
……断じて言える。
そなたと殺し合うことこそが、我が生のすべてなのだ。
世界など、そのために捧げてやろう。
我らの戦いは、他のすべてに勝る価値を持つのだ。
第二話 『ヴァレンタイン家の姉妹』
―――ラティシャの村にその一団が現れたとき、私は彼らにすぐ魔術をかけるべきだったのかもしれません。
扉を叩き、放たれた声など耳をふさいで聞かなければよかった。『急患だ、助けてくれ』。あんな嘘偽りの言葉に、だまされてしまうなんて……。
『白の魔女』はいつだってこんな風にだまされる。『竜』に与えられた力で、世の理不尽に苦しむ人々を救う。その『掟』を逆手に取られてしまうのだ。
教会の扉を乱暴に開け放ち、山賊どもがこの神聖な場所に入ってきました。そして、その汚れたブーツで救急病院と化していた教会の中を踏み荒らす。彼らは子供を看病していた大人たちを剣で刺した。私はそのあまりに悲惨な光景にうろたえてしまい、その隙を突かれて熱病にうなされるミーシャを人質に取られてしまう。
「―――魔女を怒らせて、どうするつもりですか?」
私は汚らしい山賊どもをにらみつけながら、左手に白い炎を召喚する。
でも、山賊どもは卑怯な取り引きになれていた。まだ七才になったばかりのミーシャの喉に、銀に輝く刃を押し当てます。私は、魔術を停止し、せっかく呼び出した炎を消すほかありません。
「ひひひ!『白の魔女』ってのは相変わらず愚かだぜ!こんな臭くて汚え貧乏人どものために、わざわざ山奥に出向いてよう。そのうえ、死にかけたガキのせいで、オレらの言いなりになっちまうってんだからなあ!!」
「……その子を離してください」
「そりゃ、アンタの心がけにかかっているな。ほら、コイツが何か分かるか?」
山賊のひとりが私の足下に何かを投げつけてきました。それを見て私の背筋に悪寒が走ります。なぜならば、山賊たちの邪悪な作戦の一端を理解してしまったから……それは『魔銀の首かせ』です。
囚人や奴隷たちに使われる、魔力と動作を封印される錬金装置。もちろん、それは私のような『魔女』にとってもアレは有効なアイテムです。
「さあ、魔女のお嬢ちゃんよ、さっさとその首輪をしておくれよう?……じゃねえと、このガキの頭と胴体がァ……離ればなれになっちまうぜえ?」
「ひ、卑怯者!」
「ああ。そうだとも!オレは卑怯で残酷な山賊さあ!……このガキの指、へし折るぞ?」
ミーシャが悲鳴をあげました。男があの子の小さく細い指を握っています。かわいそうに、ミーシャは指を折られるという恐怖に怯えきっていました。殺される、ということよりも、指を折られる痛みのほうが具体的に想像できたせいでしょう。
……私は、あの子の悲痛な叫びを無視することが出来ません。山賊どもの言いつけの通りに『魔銀の首かせ』を手に取ると、自分の首にその冷たい器具をあてがいました。カシュリという音が聞こえ、その卑劣な首輪に鍵がかけられます。
「ハハハハハッ!!いい仕事だぜ、なんて簡単な仕事だ!!魔女を、こうもあっさりと捕まえることが出来るなんてなあ?これで、アンタはオレたちご主人さまの言葉一つで、首の骨をへし折られちまうんだぜ?サイコーだな!!」
「……さあ。私はあなたたちの言うこと聞きました。今度は、あなたたちの番です。ミーシャを離しなさい!」
「離してもいい。オレたちの目的は病気のガキじゃなくて、アンタだからなあ……だが、まだダメだ。アンタは『白の魔女』だ。それは『最高の魔術師』って意味だよな?オレたちが想像もつかない方法で、そのみじめな首輪を無効化するかもしれねえ」
「……そこまで器用なことはできませんよ」
「ハハハ!……女の言うことを素直に信じるようになると山賊もお終いよ。とくに美人の言葉は、小娘のだって信じられんね。ほら、お嬢ちゃん、この薬も飲みな」
山賊が小瓶を手渡してきます。ガラス製の小瓶には緑色の液体が入っている。得体のしれない薬……でも、ミーシャを人質にされたままの私は、それを口にするしか無かった。
ニヤニヤと笑う山賊たちの目の前で、私はその甘い香りのする薬液を口に含む。う……苦い。でも、舌がピリピリと痺れていくこの感覚は知っている……たぶん、ビャリーナ草の根っこだ。これを飲み込めば、またたく間に手足が麻痺してしまうだろう。
その液体を飲み込むことへ反射的な抵抗を示した私に、山賊のひとりが腹を立てる。私のあごを持ち上げて、その苦い薬液を飲み込めと命令してきた。私は、喉の奥に流れ込んでくるそれを押し止めることができません。ごくり。首輪をはめられた私の喉が小さな音を立てて、それを飲み込んでしまいました。
ああ、薬の効果はすぐにあらわれます。
これこそビャリーナの特徴なのです。この薬の即効性はとても優秀なんです。あっというまに手足から力が奪われていき、私はその場に力なく崩れ落ちてしまいました。私は自分のことを見下ろして笑う山賊どもに、痺れた舌で懇願します。
「お……おね、が……そのこ、を……は、なし……て」
「ああ。もう、いらねえからな」
山賊はそう言ってミーシャを乱暴に床へと投げた。ミーシャが鳴き声をあげる。ああ、あんなに怯えきって!……ごめんね。撫でてやりたいのに、なぐさめてあげたいのに……私は、もう……ッ!
―――ビャリーナ神経毒の特徴は麻痺させた相手の意識までは奪わないことです。体を動かすことは出来ないけれど、それでも意識は明瞭を保つ。眼球を動かすことも、まぶたを開けることも閉じることも自由です。それが、私には悲劇となってしまいそう……。
山賊が床に倒れた私の手首をつかみました。私におおいかぶさってくる!
ああ、荒い息をしています、目も血走っていた。い、いやです!……拒絶したい、こんなこと!で、でも、指の一つにも力が込められません。彼は私の顔を見て笑う。私が嫌がるその態度が彼には嬉しいのでしょうか……黄色い歯のあいだから赤い舌を出して、下品な顔で笑いました。
「へへへ、お嬢ちゃん。自分がこれからどんなことされるか知ってるかぁ?」
か、考えたくもないことです。ですが、抵抗する手段はもうなさそうです。もしも、ミーシャがここから逃げ出してくれれば、他の患者さんたちがここにいなければ……最後の手段である『自爆』の魔術を使ったかもしれません。でも、ここでそれを行えばみんなも巻き添えにしてしまう……っ。
それに……お父さまの『呪い』はどうなるのでしょうか?
……もしも、私が死ねば、お父さまの『呪い』を解く者がいなくなってしまう。ああ、私は……死ねません。どんなみじめな目に遭わされても、死ぬことも……できません……。
神さま、死よりも辛い屈辱に私はさらされるのでしょうか?……やはり、邪な魔族の力を受け継ぐ娘など、あなたはお嫌いなのでしょうか……?神はいつものようにお答えになりません。その代わりに、山賊が言いました。
「ひゃはは!みんなに見られながらオラと『結婚』しようぜえ?」
け、『結婚』!?そ、そんなの、イヤです。『白の魔女』とは言え、私だって16才の女の子です。結婚というものに対しての夢や理想ぐらい持っているのです!そ、それを、この邪悪な山賊と?……た、たとえ体を汚されたとしても、こ、心まで汚されたくない!私にとって、その言葉はとても神聖なものなんです!
「い、い……やぁ……ぜ、ぜっひゃい……い、いや……ぁ」
拒絶の言葉さえもまともに叫ぶことが許されません。なんという屈辱でしょうか……。
「なあ、オラと一つになろうぜ、お嬢さまよお!そんなにガキが好きならよお、自前で作りゃいいじゃねえかぁ。オラたち、みーんなと子作り楽しもうぜえ?」
山賊たちの下品な笑い声で教会が満たされます。ミーシャがわんわん泣いています。私も、悔しさのあまりに涙がボロボロとこぼれてくる。ああ……ゆるせない。こ、こんなに誰かを憎いと思ったことはありません……ッ。
「『…………』っ!」
私は人生で初めて『呪い』の言葉を口にしようとしました。母からも祖母からも絶対に使うべきではないが、魔女であるなら受け継ぐべき『業』とされたあの言葉。
でも、麻痺した舌と唇ではその呪詛が正しく歌えません。だから、『呪い』は成らなかった。よかったのか……悪かったのか、分かりません。
「じゃあ、そろそろお嬢ちゃんの綺麗な肌を見せてもら―――」
山賊のいやらしい指が私の服を脱がせようとしたそのとき。私は『竜』を見た。大いなる怒りに揺れる漆黒の長い髪、雄牛のように巨大で力強い肉体、獣のような牙、ワルプルギスの夜空に君臨する月みたいな金色をたたえた左の瞳と……炎竜の紋章を宿す右眼。
―――『呪い』は成っていたのかもしれない。
『この下郎どもに、相応しき死の罰を与えよ、楽園の果てより戻りし竜よ』。あの恐ろしい歌は声にならずとも機能してしまったのかもしれません。
私の怒りと憎悪を帯びて、『竜』は静かに語ります。
「……他人の行いを責めれるような身分じゃねえんだけどよ?テメーらは、死んでおけ」
「な、なんだ、テメーは―――」
それは拳。ただのパンチ。それが私を襲おうとしていた山賊の顔面を打ちすえた。骨と肉が弾ける音がした。山賊は頭の骨を粉々に破壊しながら、そして、その砕けた骨で脳髄をズタズタに切り裂かれながら宙を舞う。死にながら殴り飛ばされた山賊の体が、力なく壁に叩きつけられた。
山賊たちの顔が引きつる。
怒り?いえ、そんなありふれた感情じゃありません。絶望。もしかすれば、陵辱にさらされることを覚悟した瞬間に私が抱いたものよりも、ずっと大きくて深い絶望なのかもしれません。
―――しかたのないことでしょう。『死』が形となって降臨したのですから。
彼は私が知るどんな獣よりもずっと速く動きます。
二人目は鎧の上から腹を蹴られて吹き飛びます。大量の血を吐いて飛ぶ……ああ、鎧が大きくへこんでいます。きっと、内臓が破壊され、横隔膜が引きちぎられたのでしょう。彼の肺は血ですぐに一杯になる。肺を満たした血に『溺れて』死ぬのです。意識がすでに無いことが、彼には救いになるのかもしれない。
三人目は全力で運命から逃げようと走っていましたが、後頭部に手斧を投げつけられて人生にピリオドを打たれます。矢より速く飛ぶ斧を、私は初めて見ました。
四人目は怯えながらも勇敢に剣を振り下ろします。
でも、そんなことで『死竜の呪い』が解けるなら、ヘリオスの都もロンダ・ドール城塞都市も全滅なんてしないでしょう?
なまくらなロングソードが切ったものは何もありません。彼のクマみたいな巨体は春風と同じ速度で踊るのですから。でも、山賊には理解できなかったはず。まるで幽霊にでも斬りかかった気になったかもしれません。ヒト相手なら、あの剣は命中したはずだから。
でも、悩むこともありません。次の瞬間には側頭部を拳で打ち抜かれ、四人目の脳は思考機能と生命維持機能を一瞬のうちに破壊されていました。
五人目は発狂しそうな顔をしていました。でも、ナタで彼のことを切りつけようとした。しかし、望みは叶いません。ナタを持つ手そのものを彼は握り、五人目の動きを腕力ひとつで止めました。もう片方の手で喉を握り……首の骨ごと潰してしまいます。
六人目と七人目はガクガクと震えていました。神に助けを請うているようです。
「……フン。今さら?……後悔も改心も、その年齢じゃあ、遅すぎるな」
彼はどこからともなく投げナイフを取り出します。右手と左手にそれぞれ一つ。合わせれば二つ。だから、六人目と七人目を殺すには数がちょうど良いのです。銀の刃が飛翔して、二つの頭蓋骨を串刺しにして―――戦いは、こうして終わります。
そのころには私だって気がついていました。
彼は『呪い』ではありません。
おどろくべきことですが、私の知らない竜に祝福されただけの若者に過ぎません。
彼が月の瞳で私をのぞき込んできます。少し心配そうに。でも、私が微笑むと、彼はなんだか子供のような無邪気さを宿した表情で笑い返してきます。ああ、あれほどの戦士なのに……なんなのでしょうか、この牧歌的で、とても親しみを感じる笑顔は―――。
―――世の中はアホみたいに物騒なんだな。
オレは『魔銀の首かせ』をはめられて床に横たわる女の子のそばにしゃがむ。クズどもに何かを飲まされたのか、うつろな目をしている。オレは彼女の首に伸ばした指を当てながら看守のマネをする。
「えーと……『解』」
解錠術を使ってみる。『魔銀の首かせ』をはめられていると、どんな魔術も使えない。だから、オレからすれば人生において初めて使った魔術だった。ヴァルガロフの看守ごときに使えるんだから、オレでも使えるだろうとは考えていた。そして、その予想は当たる。
クロードの兄貴が化けたドラゴンを殺したあの夜みたいに、『魔銀の首かせ』がカチリと音を立てて外れていた。
やっぱり、あれはクロードの兄貴が解錠術を使ってくれていたんだろうな。桜色の長い髪をした女の子が目を見開く。驚いているのか?でも、しゃべらない。そうか、コイツが飲まされたのは薬で麻痺していやがるのか。
「薬のせいで、しゃべれねえのか?」
彼女はわずかな動作であったが、それでも確かにコクンと首を縦に振った。
「そうか……どうすればいいのか―――」
「ミーシャあああああああ!!」
子供の大声がオレの思考を遮った。ユリアンの大声だ。赤毛のユリアンが教会に駆け込んでくる。木こりや猟師のオッサンどもと一緒にだ。どうやら、オレが山賊どもを制圧し終えたことにようやく気がついたらしい。
彼らは山賊どもの死体に蹴りを入れ、つばを吐き、負傷した村人たちの救護を開始した。8才のユリアンは友だちを見つけたらしい。
「ミーシャ!だいじょうぶかよ!?」
「う、うん……おねつがまださがらないけど、だいじょうぶ。おねえちゃんと……クマのひとが、助けてくれたから」
クマの人だと?
……ああ、なるほど、オレのことかよ。ユリアンのヤツと同じこと言っているな。森でオレを見たあいつの第一声は『クマが出た!!』で、あいつの親父はオレ目掛けていきなり矢を放って来やがったっけ?
「……よか……った……あ、のこ……ぶじで……」
少女は虚ろな表情でそうつぶやく。
……まったく、自分の心配をするべきだろ?クズどもにわけのわからん妙な薬を飲まされてるんだから―――そうか。思いついた。飲んだなら、吐かせればいい。
「よし、すぐに楽にしてやるからな」
「……え?」
オレは少女を抱き上げる。やっぱり女ってのは軽いもんだな。オレはそいつを右肩に担いだまま。外に出ると、村の中央にある井戸の前にたどりつく。誰かが水を汲んでる最中に山賊どもがやって来たのか?
つごうよく、きれいな水で満たされたバケツがそこにあるじゃねえか。オレは少女を地面に横たえさせると、そいつの唇に指を引っかけるようにして口を大きく開かせた。
「ひ、ひひゃい……でふ(い、痛い……です)」
「ククク!我慢しろ、すぐに楽にしてやるからよ」
オレは彼女を安心させるために笑いながらそう言った……つもりだ。クロードの兄貴に『悪人っぽい』と指摘された顔と笑い方だったせいか、少女はかえって怯えたように見えた。クソ、人付き合いってのは難しいもんだな。
「今から水を胃に流し込んでやるから、息を止めてろよ?あと、歯を立てるな」
「や……こ、わひひょ」
オレは、いくぞ、と一言だけつぶやき、バケツの水をそいつの口目掛けて流し込む。水差しでもあれば良かったのか、思ったよりも勢いよく冷えた水が少女の口と胸元をぬらしていく。ていうか、ずぶぬれだ。
でも、予定通り水はコイツの口のなかにガンガン入っていく。舌が暴れ、歯がオレの指に噛みついてくるが、麻痺しているせいで大した力じゃねえから問題は無かった。
……いや。少女が白目を剥いているような気がする。まずいな肺に水が入ってしまったのか?クソ、急がねえと死ぬかもしれねえ。
少女の体をうつぶせにして、そのまま右腕を彼女の細い腰に絡めて持ち上げた。オレは左の人差し指を伸ばして、力なく開いた少女の唇をかき分けるようにしながら突っ込んだ。
びくり!
少女の体がちょっとだけ跳ねた。うえ、うえ。と呻いている。やったぜ!息を吹き返しやがった!オレは指の先で少女の舌の根元を抑えたまま微妙な振動で揺さぶってやる。
「ククク!いい調子だぜ。そのまま、吐けよ!吐いちまえ!」
うえ、うえ。
うーむ。いい感じで吐きそうなんだが、コイツ、妙にがんばるな?……オレだったら指突っ込まれた時点でゲロ吐いちまうんだけどな。体をヒクヒクと引きつらせながらも、少女は嘔吐を我慢しているように見える。
「もっと激しく突かねえとダメか?あんまり乱暴にしたくなかったが、しょうがねえか」
今度は指二本まとめて突っ込んでやろうとした直後のことだ、馬の蹄が大地を蹴る音と、凜とした女の叫び声が聞こえた。
「―――この、強姦魔がああああああああああッッ!!」
それは白い馬に乗った若い女だった。この子とそう年は離れていないように見える。おさげに編んだ栗色の長い髪と、翡翠のようなグリーンの瞳。気の強そうな顔だ、美人だけどよ。そんな少女が銀色の甲冑を着て、白馬にまたがったままこっちに突撃してくる。天高く掲げた右腕には馬上槍。いかにも騎士ってイメージだぜ。
オレは肩に少女を担いだまま、その馬の突撃を回避する。
「く!軽薄な動きをしやがって!」
少女騎士が馬から飛び降りる。彼女は槍を捨て、腰に下げていた長剣を抜いた。剣の先をオレへ向けたまま彼女は命じる。
「このクズ野郎!私の妹を離せ!」
「……妹?ああ、コイツのことかよ」
「そ、そうだ!妹に何てことをしたんだ!まだ嫁入り前なんだぞ!この、鬼畜ッ!」
「何って、指を突っ込んでゲロ吐かせようとしただけだぜ?」
「げ、ゲロ……って、な、なんだそれ?どんな変態行為だ、貴様ァッ!?」
「……お、おねえさま……ご、誤解です」
「シャーロット!無事か!」
「は、はい……あ、あの。もう大丈夫なので、下ろしてくださいますか?」
「おう。そりゃかまわねえぞ」
オレは肩に乗せていた少女を地面に下ろしてやる。だが、ちょっとムチャをしているようだな。立ち上がろうとしてふらついたんで、支えてやる。だが、余計なお世話だったのかもしれない。オレから奪い取るように姉が妹の体を抱き寄せていた。
「ああ、こんなにずぶ濡れにされて!冬なのに……寒かっただろう」
「いえ……だいじょーぶです」
「……気丈だな。あんな大男に辱められたというのに、なんて気高いんだ!」
「は、辱められてはいません!」
「そ、そうだな。そう、お前は汚されてなどいない!こ、これは忘れるべきことだ!……私も忘れる。だから、お前もそんなみじめな記憶は頭から消すんだぞ!」
「だから、そうじゃなくてですね!?」
「姫さま!ご無事ですか!」
馬に乗った四人の騎士がこの場に参上する。そいつらはオレを鋭く睨みつけながら、銀にきらめく槍を構えた。
フン。馬ごと突撃してきそうな勢いだぜ。そんな騎士たちの一人が馬から飛び降りて剣を抜く。金髪碧眼ですらりとした長身の男だ。優男だが、剣を抜く動きにまったくのよどみがない。場慣れしているんだろう。
なにより、この男はオレの『強さ』を理解していないわけでもなさそうだ。イヤな予感で胸が一杯なのかもしれない。冷や汗をかいていやがる。
それでも視線をオレから外さない。騎士としての義務感なだろうか?そいつがオレ目掛けて今にも斬りかかってこようとしている。マジメなヤツだ。殺すには忍びないし、だいたい殺すどころか戦う理由がねえぞ。テキトーに殴って気絶させてやろうか……そんなことを考えていると、少女が叫んだ。
「アルト、おやめなさい!その方は私を助けてくれた恩人です!」
「……ッ!」
騎士の動きが止まる。少女は姉の腕から離れて、オレのそばにやってくる。彼女は鼻息荒く両手を広げた。このちっこい娘はオレの『盾』になってくれるつもりらしい。姉や騎士たちを見回しながら、凜とした声で彼女は宣言した。
「いいですか!この方は私を山賊どもの手から救って下さったのです!いえ、私だけじゃない。あのままだと、もっとたくさんの犠牲者が出ていた可能性もある。被害を最小限に抑えられたのは、この人のおかげなのです!誰も手を出してはいけません!わかりましたか、ジュリィお姉さま!!」
ジュリィと呼ばれた少女騎士は、どこか不満げな態度のまま返事する。
「……わ、わかったよ。私の勘違いだったみたいだな」
「そうです。アルトさんも分かりましたね?この方は、危険な人物ではありません」
「……シャーロットさまがそうおっしゃられるのなら」
オレに斬りかかろうとしていた金髪の男がその剣を鞘に収めた。そのうえ、コイツは静かに微笑みさえも浮かべてきやがる。だが、コイツの気配は緊張を保ったままだ。オレが少しでも怪しい動きをすれば、即座に斬りかかってくるだろう。そういう態度をされる以上、オレもリラックスすることは出来ねえな。
……水面下の緊張感に気がついているのか気がついていないのか、桜色の髪の少女はサファイア色の瞳でオレを見上げてくる。水でびしょ濡れのままだが元気そうだ。
「薬は抜けたのか?」
「え?はい。おかげさまで……水をたくさん飲めたので、中和できました。そ、それに、私、こう見えて『白の魔女』ですから。あの邪悪な首かせを貴方に外してもらった時から、解毒の魔術をかけていましたので……」
「そうか。それなら、指なんて突っ込まなくてもよかったのか」
「は、はい。で、でも!……助かりましたので、そのお気持ちだけはありがたいです」
「そう言ってもらえると罪悪感が薄らぐぜ」
「あ、あの!……私はファーレンの領主の娘で、シャーロット・ヴァレンタインと申します。こちらは姉のジュリィで、そっちは騎士団長のアルトです!」
ジュリィ・ヴァレンタインが不満げな顔をしたまま、面倒くさそうに右手をあげる。挨拶のつもりらしいが、なんというか欠片ほどの敬意も感じない態度だな。
対照的に、アルトという若い男はあのニコニコしたまま、アルト・ワイズマンです、と丁寧な挨拶をしてくる。これはこれで『裏』を感じるんだよな。まあ、お姫さまを守るのが仕事というヤツだから、オレみたいな謎の浮浪者に対して警戒ゼロというわけにもいかないのだろう。
「……オレは、『ソル』だ」
そう、ただのソル。『ヴァルガロフ』はつけないほうがよいだろう。『魔女』はともかくジュリィやアルトはその単語に過敏な反応を示しそうだから。『魔女』は微笑みを絶やさない。この場を取り繕うとしてくれているのかもしれねえな。
「ソル……ソルさまですね。『太陽』を示す、とても力強いお名前です。では、お姉さま、アルトさん。私とラティシャ村の恩人であるソルさまを、お屋敷に!」
「……本気か?その山賊みたいなヤツをうちにあげるのか?」
「お・ね・え・さ・ま!」
「お、おう。分かったよ……それじゃあ、ソル殿、我々にご同行願おうか」
……ジュリィか。明らかにコイツはオレに悪意を持っているな。妹の説明を疑っているのかもしれない。そんなにシャーロットの口に指を突っ込んでいたことが問題か?
しかし、この誘い、どうしたものか。
『魔女』という魔術のエキスパートにヴァルガロフの『呪い』について質問するいい機会にはなりそうだが、ちょっと警戒したほうがいいかもな。とくに、ジュリィだ。この女はオレが『脱獄囚』だと気がつけば、全力で拘束しようとしてくるかもしれん。そんなヤツの本拠地に乗り込む……?
「……ありがたい申し出だが、オレは―――」
「どうぞ、我が家へお越し下さい。おいしいものもたくさんありますよ!」
……そんなことを言われると、断る理由なんてどこにもなかった。オレは腹が減っていたし、貴族のごちそうというモノにも興味がわいていたのさ。
ヴァレンタイン家の屋敷は大きくて立派だった。なんていうか全体的に『白い』というイメージだな。明るく清潔感のある屋敷といったところか。初めて見るモノが多い。なんだろうな、あの水が噴き上がっている小さな池みたいなヤツ……?なんで温室ってところには、食べられもしない花をたくさん植えてあるんだろうか?変わっているな。
よく分からねえ。よく分からねえから無意味な不安が生まれる。
オレは内心の動揺を押さえ込みながら、どうにか平常心を保っているフリをしていた。無愛想な無表情をつらぬいたってわけさ。そして、屋敷に入ったオレを待ち構えていたのは更なる不慣れだった。
風呂に入れ。
老いぼれた『執事』とやらに背中が痒くなるような丁寧な言葉で伝えられたが、要約すればつまりその一言だ。貴族の視点から考えれば不思議なことではないのだろう。オレは木こりや狩人のように泥だらけの格好をしているから『不衛生』に見えるのさ。
しかし、『貴族の風呂』ってシロモノは、監獄育ちのオレからすればこれまた不思議な存在であった。金メッキが施されたバスタブのなかに、妙な香りのする湯があり……その香りの原因の一つかもしれない花びらが湯船に浮いていやがった。
もちろん嫌なにおいというわけじゃないが、甘い香りってものには慣れていなくてな。でも、こんな寒い日に昼間から風呂に入るってのも悪いハナシじゃねえ。いい気分転換になるし、なにより気持ちいいしよ……。
―――監獄暮らしが『良かった』とはとても言えないが、ヴァルガロフ大雪原を抜ける命がけの冒険の日々は監獄よりもはるかに劣悪な環境であり、まさに『地獄』そのものだった。寒いし、眠いし、腹は減るし、獣にさんざん追いかけられるし……崖からも三回ほど落ちたっけ?もっとかな?……我ながら、死ななかったのが不思議なぐらいだ。
そんな地獄を命からがら抜け出したところで深くて暗い森の中だ。
もし、ユリアン父子と遭遇しなかったら、あの冷たい森で飢え死にしていた可能性は高い。あの親子は命の恩人だな。彼らはオレを自宅に招いて、温かいスープをごちそうしてくれたんだよ。
……今日の行いは彼らのためだった。山賊どもと戦った理由はユリアンへの『恩返し』なのさ。『幼なじみを助けて欲しい』。あのガキはオレにそう願った。あの元気いっぱいのクソガキが、死ぬほど悲しそうな顔で必死に頼むんだ。断る理由はなかった。
「……ククク。どう考えても目立たないほうが『脱獄犯』としては正解なんだがよ?……まあ、ガキどもが笑っていたから、よしとするか!」
あの親子にはずいぶん世話になったからな。しばらくのあいだ、オレはユリアンの父親の元で薪割りの仕事をさせてもらっていた。
親父さんからは『金』が無ければ旅は出来ない、と教わった。『金銭』ってものをオレはまったく理解できていないことに気がつかされるハナシだったぜ。思えば、多くの人間が金のために人殺しや盗みをする。つまり、金は人の命よりもずっと貴重なんだよ。
その社会において最も重要な存在のことを、オレは学ばなければなるまい。
なにせ、金ってものが何をするためのものなのかさえイマイチ理解していないんだからな。ユリアンの父親のもとで短期の仕事をしようとしたのも、親父さん曰くの『金銭感覚』というのを学ぶためだった。
ユリアンといっしょに『おつかい』ってヤツにも出かけたりしてな。リンゴは1シエルで三つ買える。3シエルの金のために殺された男もいるでの、つまり男の命の値段はリンゴ九個と同じぐらい『高い』のさ。
―――もちろん、旅の目的も忘れちゃいねえぞ?
村の猟師や木こりたちにも色々とハナシを訊いて回ったが、彼らはけっこうな職人であるものの、魔術についてはあまり詳しくなかった。初歩的な魔術を使える者もいたんだが、彼らは口をそろえて『呪い』なんて複雑なことは知らないと言った。あまり一般的な存在ではないらしいな、『呪い』ってものはよ―――。
そして、彼らは同じアドバイスをオレにくれた。『白の魔女』に相談すべきだ。彼女たちは善良なる『魔女』。そして、領主さまの娘の一人がその『白の魔女』である。
……オレの目的は『呪い』に精通するという『魔女』に会うことになったのさ。
すぐに会いに行かなかったのはどれだけ『金』を請求されるか分からなかったからだ。だが、オレの出会った『魔女』は抱いていたイメージとはかけ離れた存在だったな。もっと、こう……『ババア』を想像していたんだが、シャーロット・ヴァレンタインはじつに可憐な少女だった。オレと同じか、もしかすれば年下の女の子だ。
色白で、肌は柔らかく、桜色をした髪はいい香りで……そういえばこの湯と同じ花の香りがしていたかも?夏の空みたいに惹きつけられる青い瞳が特徴的だった。それに……指がまだあの子の感触を覚えていた。
あいつの唇のやわらかさだ。あのピンク色の唇ははかなさを感じるぐらいにやわらかくて、オレのごつい指で乱暴にこじ開けたとき、罪悪感を覚えた。毒薬を吐かせるためとはいえ、年頃の令嬢にはあまりにも無礼すぎた振る舞いだったかもな。
「……いい女だよな」
冗談抜きにアレほどうつくしい少女を見たことがない。ヴァルガロフ監獄にいて、オレが接触する機会があった若い女は、オレたち囚人に罪を悔い改めるように諭してくるシスターと、看護師や薬師のお姉さんぐらいだ。
たまには可愛くてエロい女もいて、オレだって彼女らの邪悪な欲望に付き合うような形で青春を楽しんだことはある。監獄なんかに派遣された若い女はヒマすぎて、オレみたいな若くてたくましい男を求めて来るんだよ。
だが、シャーロット・ヴァレンタインのうつくしさの前には彼女らとの思い出がかすんで消える。『魔女』ってのは怖えな。それとも、『お姫さま』ってのが怖いのか?その可憐さやうつくしさは他の女どもに比べて桁がちがう。
「『魔女』で『お姫さま』……ね」
そういう厄介そうな肩書きがついてなきゃ、気楽にやらせてくれって言えたのかね?まあ、それほどストレートに欲望むき出しな言葉じゃなくても……ただ、あのうつくしい顔をじっと見つめることぐらいはできたのだろうか?
見た目だけじゃないもんな。あの子は、貧乏人のガキのために、自分を犠牲にしようとするような気高い心をもっているんだぜ。それをまっすぐに見つめるようにして、ちゃんとスゲーなって褒めてやることが出来たのか?
―――『たられば』なんて考えてもしょうがねえや。
どうせ、高嶺の花ってヤツさ。悲観することはない。オレは『白の魔女』と知り合えた。そのうえ、偶然にも彼女に恩を売れたんだからな。好かれなくても、ある程度は協力してもらえる可能性があるだろう。
「……ヴァルガロフの『呪い』。あいつになら、色々と分かるはずだ」
風呂を出たオレを待ち構えていたのはシャーロット……ではなくて姉のジュリィ・ヴァレンタインだった。こっちは全裸のフル・オープンなんだが。さすがに自宅だからか?さっきみたいに鎧を装備してはおらず、ゆったりとした動きやすそうなロングスカートをはいていた。ただし、腰には護身のためか細身の剣を帯びてはいるが。
「……アンタ、ここで何しているんだ?」
「……お前を殺すために待っていたのさ」
「なるほど、風呂に入れさせたのは武装を解除させるためかよ。策士じゃねえか」
「動じないんだな。丸腰なのに?」
「まあ、ケンカには自信があるのさ」
「……ふむ。ケンカ、か」
ジュリィはそうつぶやくと細身の剣を抜く。そして、風のような速さでオレに近づき、オレの蹴りの間合いに入る直前でピタリと停止した。獣のようにするどいエメラルドの瞳がオレを見つめている。しばらくのあいだお互い動かなかったが、やがて、根負けしたかのようにジュリィが剣を納めた。
「……私のレイピアに『蹴り』で応戦しようとしたな?」
「ああ。よく分かったな」
「……フン!ほんとうに素人じゃないか!武器に対して、そんな野蛮な対応があるか!」
「悪かったな。武術なんてもの、正式に習ったことはねえよ」
「私は4才のときから習ってきた!何人もの師匠を雇い、彼らを越えて来たつもりだ!」
ジュリィは怒鳴るようにそう言った。
「ふーん?たしかに、アンタいい動きするもんな。でも、それがどうかしたのか?」
オレは言葉の選択を誤ったのだろうか?ジュリィは腕を組み、自虐的に笑う。
「フン!……どうもこうもあるか。『剣の乙女』の再来とおだてられたところで、全裸の男にさえ勝てそうにないんだからな!!」
「勝てそうにないって分かるだけでもいいだろ。ムダなケガをせずに済むじゃねえか」
「ぬ、ぬう。そう上から目線で言われると、ますます腹が立つ!」
「だってよ、お前よりオレのほうがデカいし、腕も長いし、力も強い。たぶん、スピードもオレの方があるじゃねえか。勝てなくたって当然だろ?」
「―――そうかもしれんが……ああ、もういい!このハナシは止めだ!……それより、お前、さっさと服を着ろ!というか、その、か、隠せ!バカっ!」
「見たくないなら見なきゃいいじゃねえか」
「だ、だれがお前のハダカなんて見るか!」
露出狂。そんなアホな罪でヴァルガロフ送りになった囚人を知っている。正直、みんなの笑われ者だったが……今のオレにはそいつの気持ちが少しだけ理解できる気がした。オレさまの肉体を見て恥じらう美少女が目の前にいる……か。
ククク、悪い気はしないもんだな。この状況はジュリィにすべての責任があってオレは一つも悪くない。まったくの合法だ。でも、さすがにレディの前でいつまでも全裸ってのはマズいわな。
「……で。そろそろオレの服を返して欲しいんだが?」
「お前の服なら焼いて捨てたぞ」
「…………はあ?」
「あんな臭くて泥だらけの服なんて、処分するに決まっているだろ?」
「なにオレの服のにおいとか嗅いでやがる?」
「こ、言葉のあやだ!実際に嗅いだりはしていない!」
「そうか。だが、お前なんてことしやがる!このまま、オレに全裸で過ごせとでも?それが貴族サマのやることか!発想が痴女すぎるがろうが!」
「だ、だから!着替えは別に用意してある!こ、これだ、ほら、さっさと着ろ!バカ!」
ジュリィがぶっきらぼうに服を投げつけてくる。こいつは……礼服っていうのか?やけにマジメそうな服じゃねえか。
「オレに、これを着ろって言うのかよ?」
「そうだ。お前はこれから父上に会う。この土地の領主にだ!武装の解除は当然のこと、その身だしなみにも気をつけてもらうぞ!」
「……ふーん」
正直、着方が分からねえぞ?……まあ、服なんてどれも似たようなものか。オレはたどたどしい手つきで貴族様式の衣装に挑戦した。出来は……うん、全体的によれているな。そもそもサイズがかなり小さい。ジュリィがあきれ顔だ。
「……バカな格好だ。ネクタイもロクに結べんのか?」
「仕方ねえだろ。こんなマジメな格好するのは初めてなんだよ」
「……そういう格好も初めて、か」
「悪いのか?」
「悪いというわけじゃない。貧しい生い立ちを笑うような趣味は無いんだ」
彼女はそう言うとオレに近づいてきた。殺気はないから接近を許す。彼女の指がオレの首元に伸びてきて、ネクタイ?とやらを正してくれる。さすがにシャーロットの姉だな。近くで見るとコイツもぞっとするほどいい女だ。
「……ジロジロ見るな。言いたいことがあるなら言え」
「意外と面倒見がいいんだな」
「ふん。貴様ごときが乱れた服装で父上の前に現れるなど、我が家への冒涜なんだよ」
「へいへい」
「ふざけた態度だな。うむ……しかし岩みたいな体しているな。お前、木こりなのか?」
「木を切ることもあったな」
「そうか。だろうな、剣を持つような手じゃない。たしかに、お前はシロウトだ」
ジュリィがじっとオレを観察しながらそう言った。そう、彼女はオレを観察している。
「……ジュリィ。アンタ、オレのことを探っているんだな」
「―――ああ。当然だろう?私は妹のように窮地をお前に助けられたわけじゃない。だから、お前を直感で信じるようなことはしない。お前の服を調べ、隠してある道具を見た。手入れも行き届いていない貧弱なナイフや小型の斧、私の感覚ではあれを武器とは呼べん」
彼女のことをあなどっていたかもしれない。彼女はオレよりもはるかに『正式な戦士』なのだろう。たとえ、オレの方が彼女の数倍力が強くてもな。囚人のオレにはない『戦士』としての視点や思考方法を確立しているようだ。
「……そうさ、あんなもの武器なんて呼べるものじゃなかった。だが、それでお前は何をやってのけた?山賊の集団を一方的に全滅させた。異常なことだ」
「そうか?たかが雑魚の群れを蹴散らすなんて、たいして難しいことじゃねえだろ」
「……フフ。恐ろしいことに、お前は本気でそんな言葉を口にしている。つまり、お前はあれだけのことをしているのに、まだ全力を出してはいまい。そして、お前にはたしかに武術を習った形跡がない。戦いの訓練を経た者なら、『武器』を前にすれば、どんな形であれ『備える』。お前にはそれがないのだ」
「難しいことは知らねえさ。でも、ケンカなんざ、一発当てたほうが勝つだけだろ?」
「お前はシンプル過ぎるな。泥臭く、武術も知らない。粗暴で教養も感じない。まともな服の着方さえも知らんときた……『洗練』という概念から最も遠い位置にあるような『野蛮人』であるお前が、なんと魔術を使ったと聞いたぞ?あの教会で、妹につけられた『魔銀の首かせ』を外してくれたそうじゃないか。お前はどこでその魔術を教育された?」
「……言う必要があるのかよ?」
「もちろんだ!……私には家族を守る義務がある!父上も、妹も、私は守りたい!……お前のような怪しい男、屋敷にいれるなんて絶対にイヤなんだよ!『白の魔女』の掟だからといって、病気の子供たちのために妹が山奥の村に行くなんてのも反対だ!たしかに、妹の行いは崇高だ!誇りに思うよ!でも、今日みたいなことがいつ起きるか分からない!」
ジュリィは苦しそうだった。何かに耐えているような顔で、彼女はオレに迫った。
「お前は、妹に近づいた!妹の命を助けた?山賊どもから彼女の貞操の危機を救ったか!美談だな。だが、お前は正体を明かさない!山賊を蹴散らすほどに強く、『魔銀の首かせ』を解除する中級魔術まで使える。それなのに、一般常識すら知らない?そんな不自然なことがあるか!お前は、『何』だ!どこから来て、なにをしに来た!……答えろ!」
レイピアが抜刀され、その流麗な輝きをもつ白銀の刃がオレの首に触れてくる。オレは避けなかった。避けることも出来たが、あえて彼女の気高き不安に命を預けていた。そのことが彼女には理解できるだろうし、それを理解したところで新たな疑問も浮かぶだろう。並びのいい彼女の歯が、きりり、と噛みしめられた。
「なんなんだ、お前は!……抵抗できるだろ!?なぜ、しない!私は怒っているんだぞ!家族のためなら人でも殺す!そんな狂った女に、お前は命を預けてどうするんだ!!」
「……オレはバカだからな。自分にとって都合のいい嘘とか思いつけなさそうだ。アンタを騙せるほど賢くもないだろうよ。だから、本当のことを話そうと思う……まず第一に、オレはアンタの家族を傷つけるつもりはねえ。そこは絶対だ」
「……私がその言葉を信じるとでも?」
「そこはアンタに任せるさ。それで、オレがどこから来て、何をしたいかだが……それについてはよ、外で聞き耳立てている二人に同席してもらってからにしねえか?」
オレがそう言い終える頃、部屋のドアが開いて二人の人物が入室してくる。一人はシャーロット。そして、もう一人はやつれた中年の男。身なりがいい……この人物がおそらく、シャーロットとジュリィの父親だろう。彼は、オレを見ると気さくに微笑み、言った。
「……娘を助けてくれたそうだな。ありがとう、礼を言うよ。私は、リオネル・ヴァレンタイン伯爵……この二人の父親にして、この地を治める者だ」
厳格さを持ちながらも、シャーロットに似たおおらかさも感じる。好漢だな。しかし、彼は病気なのだろうか?あの二人の父親にしては年寄りに見える……というか、やつれて杖を突いているせいで、実年齢以上に老けて見えているのかもしれないが。伯爵はゆっくりとした動きでイスに座ると、彼の忠実なる執事を呼びつけた。
「紅茶でも飲むとしよう。ジュリィも少し落ち着きたまえ。君は熱くなり過ぎさ」
ジュリィはその言葉を聞いて、ようやくレイピアをオレの首元から離した。オレはシャーロットが用意してくれたイスに招かれる。シャーロットはすまなさそうな顔をしていた。オレがジュリィに殺されかけていたことを気に病んでいるのかもしれない。
しばらくして、紅茶と……テーブルまで運ばれてきた。オレたちは四人でテーブルを囲んで座る。変な状況だが、伯爵はいたってマイペースだった。オレに紅茶を勧め、執事の煎れた紅茶は今日も素晴らしい味だと喜んでいる。
オレは紅茶を口に含むが、おいしいとは感じなかった。その味に舌が慣れていないのもあるが、氷みたいに冷たい視線をジュリィに浴びせられているせいだ。伯爵のペースに付き合っていたら、我慢の限界を迎えたジュリィに斬りつけられてしまうんじゃねえかな?
「……伯爵さん。いいお茶だったよ。でも、そろそろ本題に入ろう」
「ふむ。君がどこの誰で、何をしにここへ現れたかということだね」
「ああ。そうだ。オレの名前はソル。ファミリー・ネームは知らない。ただし、生まれ育った場所を取って、『ソル・ヴァルガロフ』と名乗ることにしている」
「ヴァルガロフだと!?」
「お、お姉さま!まずは、ソルさまのお話を!」
妹に制されてジュリィはイスに着席する。あの家族を愛する女は会話に向いていない。
「ヴァルガロフといえば、ヴァルガロフ平原。冬には大雪原とも呼ばれる厳寒なる土地。ここよりはるか東の地だが……人が住んでいると聞いたことはないが?」
「伯爵さんも知っているだろ?あそこで人が住んでいる場所はただ一つだけさ。オレがいたのはヴァルガロフ監獄。オレはそこから来た」
「つまり、脱獄囚か!」
「ジュリィ、慌てるんじゃない。彼は自分が不利になる情報をあえて話してくれている。こちらも礼節をわきまえて、彼の言葉に耳を傾けるときだ」
「ち、父上……は、はい……わかりました」
不服そうだがジュリィはオレの会話を聞くことを了承した。シャーロットは胸をなで下ろしている。彼女はオレと姉とのあいだにある緊張に責任を感じすぎているかもしれない。まあ、それが必要なぐらい、ジュリィという女が危険人物なのかもしれないが。
「さて、ソルよ。話を続けようじゃないか?教えておくれ、君のことを」
「……ありがとよ、伯爵さん。オレは、ずっとあの監獄にいたんだ。物心つく前からずっとな。だから、まあ故郷みたいなもんだった……でも。あの日、すべてが炎に包まれた」
―――上手く説明できるかどうか自信はなかったが、オレはヴァレンタイン家の人々にあの日あの場所で起きたことを伝えていく。
囚人どもがリザードマンになったこと、監獄が爆発で吹き飛ばされて、おそらくその犯人はドラゴンに変化したクロードの兄貴であったこと。そして、それらと戦い……オレだけが生き残ったこと。
「……人が、モンスターに変化する『呪い』……シャーロットよ、そのようなものが?」
「はい。そういった『呪い』はいくつか存在しています。ですが、ソルさまのお話を聞くに、その『呪い』は変化するというよりも、人体を触媒……つまり、『生け贄』にすることで魔界より魔獣を呼び出すための『召喚術』だったのかもしれません」
「『召喚術』?じゃあ、クロードの兄貴たちは、自分の体を『門』にされたってのかよ」
「……『門』。はい、真実を射抜いた言い方かもしれません。異界から召喚された魔獣どもは、現世に受肉するとき触媒とされた人体と癒合することもある。高位なモノであるほど、『生け贄』の血肉と融ける……クロードさんという方の『なごり』が竜にあったのは、そういうことだと思います」
「……ああ。兄貴……みんな……」
腹を裂かれながら、リザードマンを『産む』……いや、『産まされている』ラントのオッサンが脳裏にフラッシュバックしやがった。
ヴァルガロフの囚人たちは、みんな肉の門にされたのかよ。魔界とやらからモンスターを呼ぶために、その体を引き裂かれて『出口』にされたってのか?……じゃあ、兄貴は?リザードマンごときの大きさでもラントのオッサンは死ぬほど苦しそうだったじゃねえかよ?あんなデケえドラゴンだ、兄貴の体はグチャグチャに引き裂かれちまったはずだぞ。それが、どんなに痛くて、苦しいことか!!
「クソッ!」
オレはぶつける場所のない怒りに震えた。右の拳を固め、左の手のひら目掛けて打ち込んだ。骨が軋む、痛い、でも……兄貴はもっと苦しんだはずだった。
「……ソルさま。シャーロットには、かける言葉も見つかりません……」
泣きそうな、というか完全に泣いているシャーロットがそこにいた。『魔女』の彼女ならオレよりもよっぽど明確にヴァルガロフの囚人たちの苦痛を想像できたからだろう。オレはそんな彼女にこう告げていた。
「―――ありがとう」
「……え?どうして?」
「あいつらのために、泣いてくれたからさ」
それが、とてもありがたく思えたんだよ。監獄の囚人ごときのために同情してくれるシャーロットの存在が、オレにはとてもありがたい。
いいか?ヴァルガロフの囚人のために、いったい誰が涙を流してくれるっていうんだ?罪人がみじめに苦しむなんて、当たり前じゃねえかと笑うヤツだって、たくさんいるはずなのになァ……。
「……あいつらは、たぶん、みんなクソ野郎なんだよ。クズで、バカで、ダメな人間たちばかりだろうよ。でもよ、でも、オレにとっては仲間で……家族みたいなもんだったんだ」
ああ、そうさ。だから、こんなに目から熱い涙がこぼれてくる。情けないほどに。
―――しばらくの時間が過ぎて、オレはようやく泣き止んだ。ここで泣いているだけじゃ解決しないことがあるからだ。シャーロットは姉に抱きついて、まだ泣いていた。でも、オレは説明を再開することにする。オレが何をしにここへ来たか、それをヴァレンタイン伯爵に説明し、可能ならば彼……というかシャーロットの知識を借りたい。
「……オレは、みんなの仇を討つために、大雪原を越えてここまで来た。アレが『呪い』だとするのなら、その『呪い』をかけたヤツがいる。そいつを見つけて、復讐するために」
「なるほど。家族のためなら、君がそう覚悟するのもうなずける。それが罪人といえど、人々を『呪い』で死に至らしめることなど言語道断の悪行だ。私としても君の行動に協力することへ異存はない。といっても……私ではなくシャーロットの力がいるのだが。娘よ、ソルに協力してやってくれるか?」
「も、もちろんですぅ……っ」
えぐえぐ、と泣きながらシャーロットはそう誓ってくれた。ありがたいぜ。
「ふむ、よくぞ決断してくれたな。その判断を私は誇りに思う……さて、ソルよ。君の話を聞いて一つ疑問というか、懸念があるのだが」
「懸念?」
「ああ。他の囚人が『呪い』をかけられたのに、君はどうして無事なのだろうか?」
―――言われて思い出した。なにせあれから40日近くも経っているのだが、とくに健康状態に悪影響がある気はしない。ドラゴンやトカゲが腹を食い破って暴れたりすれば、気づかないはずがないからな。でも、こうしてとりあえず健康だ。
「……なんでオレだけ無事だったのか、それは正直わからねえんだ。オレだけには『呪い』がかからなかったのかもしれないし、じつは他にも『呪い』のかかっていないヤツは何人かあそこにいて、偶然に生き残ったのがオレだけ……ということなのかもな」
「なるほど。もし後者だと考えれば、君は『特別』ではなくなるね」
「特別?」
「『呪い』をかけた犯人から見て、君はどういった存在だったのかという意味さ」
「はあ?オレはヴァルガロフの囚人だぜ。特別な価値なんてねえよ」
「人の価値は自分ではなく他人が決めるものだ。人はそれぞれ様々な視点や価値観で君を評価している。たとえば、我が娘たちから見たとき、君は『命の恩人』であり、『うさんくさい大男』でもある。私から見れば『興味深い若者』だよね。ある人物につけた評価を知ることで、評価を行った人物のキャラクターや立場を推測することも可能だろう?」
「……じゃあ、アンタはオレが『特別』かどうかってことを手がかりにして、『呪い』をかけた犯人の人物像を……なんつーか、『逆算』して推理しようと考えているのか?」
「ヒントのひとつでも見つかればいい……それぐらいの期待感でね。呪った者からして、もしも君だけが『呪い』の対象でない特別な人物だとすれば?……君はその人物に慕われていることになり、その人物が誰なのかの手がかりにもなってくれる。そうだろう?」
伯爵は紅茶を一口飲みながらウインクしてくる。遊び心のあるオッサンだな。貴族ってのは変わり者が多いってハナシだが、この人もその範疇にあるようだ。
「……名探偵さまに事件をサクッと解決してもらえたら嬉しいんだがよ、そもそもこの推理の前提から正しくない可能性だってあるんだぜ?」
「ほう?どういうことだい?」
「オレは『健康』だ。ケガとか疲れを考えなければ、体のどこにも違和感はねえ。だが、べつにそれが呪われていないという証拠にはならんだろ」
「たしかにね」
「あまり考えたくはないけどよ。じつは、『呪い』はオレにかかっていて……自分でも気がつかないほど静かに、ゆっくりと進行しているだけなのかもしれない。ある日、いきなり時間が来ちまって……死ぬ。オレにとっては、それが最もイヤなケースだ」
「ふむ。なんとかこの事件に私も『戦力』として参加してみたかったのだが……やはり、我々のようなシロウトの話し合いではらちがあかんな。『専門家』を頼るとしよう。シャーロット、ソルにも『呪い』はかかっているのか?」
緊張の瞬間だった。もしも、オレの腹のなかでドラゴンが今にも『孵化』しそうだったら?……発狂するかもしれん。気を強く持てよ、ソル・ヴァルガロフ……っ。人間いつか死ぬんだよ。死にたくないけど。
「え?はい、だいじょうぶです。ソルさまが『呪い』の被害に遭うことはありません!」
ふううう。長いため息をオレは口から吐き捨てた。ああ、そうか。なら、いきなりトカゲに内臓を食い破られて死ぬことはないのか?……安心した。
「……逆に疑問だな。なんで、コイツは呪われていない?」
ジュリィが相変わらず冷たい視線でオレをにらみつけてくる。人の安堵に水を差すようなこと言いやがって。でも、たしかにジュリィの言う通りだぜ。『オレが無事な理由』、そういうものがあるのなら理解しておきたいところだな。オレとジュリィの視線を向けられたシャーロットが、こほん、と一つ咳払いをして話し始めた。
「それは……ソルさまが『竜の試練』を成し遂げたからですわ」
「『竜の試練』?……オイ、脱獄囚。なんだ、それは?」
「いや、成し遂げたはずのオレ自身が聞いたこともねえんだが……?」
「……ドラゴンは特別な魔族です。魔獣の霊長とも言える存在でしょう。彼らは恐ろしくも気高い。もし、ドラゴンと一対一で戦い、勝利を得た人間がいたとすれば、彼らはその偉大な人間を認め、力の一部を分け与えてくれる」
「じゃあ、それが『竜の試練』か」
「はい。私には分かります。ソルさまの中にいる黒いドラゴンの力が、ソルさまのことを邪悪な『呪い』から守ってくれています」
「……そうか、クロードの兄貴のドラゴンが、オレを助けてくれたのか」
「……ど、ドラゴンに、一対一で勝った?」
ジュリィの顔が引きつる。信じていないのか?……というか、信じたくないのか。彼女はオレに引きつった顔を見せた。本当か?彼女はオレにそう訊いてくる。
「ああ。逃げられそうになかったから応戦したのさ。頭にナイフを突き刺して、拳を砕いて、足の腱を切って、胴体に斧を叩き込んで、槍で肺ごと心臓突いて、とどめにのどを潰して殺しちまった」
「……ハハ。剣の道に必死になっている私が間抜けに思えるぞ」
『剣の乙女』の再来と謳われる少女がなんだか自虐的な苦笑を浮かべていた。ジュリィは自分よりも強い存在に対してコンプレックスが強いようだ。オレが自分よりも強いという現実を認めたくないのだろう。剣術に夢中な少女ってのはフクザツらしい。
シャーロットは落ち込む姉をフォローしたいようだが、いい言葉を見つけられずにいるようだ。あたふたしている。生真面目なジュリィを説得するにはユーモアでは難しいだろう。プライドが高いくせに慢心もなさそうだから、嘘やお世辞も彼女には通じないかもな。
今のジュリィには効果的な手がないのかもしれない。ヴァレンタイン伯爵もただ紅茶を飲んでやり過ごそうとしているし?……いや、彼はもしかしたら娘たちの様子を見て楽しんでいるだけなのかもしれない。どうでもいいコンプレックスに苦悩する姉、それを見てあたふたする妹。まあ、笑えなくもねえか。
「……と、とにかく!ソルさまはドラゴンに勝利することで『祝福』を授けられました。その『祝福』の力が作用することで『呪い』が中和されている……という状況ですね」
「中和?……じゃあ、『呪い』自体はまだオレにかかっているのか?『祝福』っていうので、『呪い』が『止まっている』ような状況なのか?」
「はい。そのような概念に近しいかと。ですが、『呪い』も『祝福』も複雑な仕組みをしていますから。詳しく診てみないと細かなことまで断言することは難しくて……で、でも、しっかり、か、体を診させていただければ、どういう状態なのか見極めてみせますから!」
「じゃあ、頼めるか?……なにせ命がかかっているんでな。詳しく調べて欲しい」
「お、おまかせください!」
「―――フフ。どうやら、上手く状況がまとまってきたようだね。すべきことが整理されつつるある。我々は素晴らしい協力関係を結べそうじゃないか?」
伯爵は愉快そうな表情を浮かべたままそんなことを言った。彼はおそらく誠実で公正な人間なのだろう。オレなんかの話をわざわざ聞いて、オレに理解を示してもくれたのだから。でも、そのこと自体が少しおかしくもある。
「……伯爵。アンタはオレが脱獄囚だってのに、危険視しないのか?自分で言うのもアレだが、オレは悪名高きヴァルガロフ監獄の囚人なんだぞ?……もしかして」
「―――もしかして、君の話を信じていない……そう質問したいのだろう?」
「ああ。オレは拘束されても文句の言えない男だ。それなのに、そうしないのは……」
「たしかに、私は君の言葉のすべてを信じているわけではないよ」
「お、お父さま!」
「まあ、私の話を聞きなさい、シャーロット。ソルよ、私は君の常識離れした体験や、やや疑問の残る君の生い立ちなどを鵜呑みにして信じてやることはできない。でも、理解してほしい。それは当然のことだ。ヴァルガロフ大雪原を越えた脱獄囚など聞いたこともない。あの極寒の地獄を踏破することも、そして……ドラゴンとの死闘をたった一人でこなすこと。その二つはあまりにもドラマチックで、なかなか信じられないことさ」
「……常識的にはそうだろうな」
「しかし。私もやや非常識な人間でね。シャーロットほどじゃないが、私も君を信じてみたいと考えているのさ。理性ではなく直感に頼れば、君がどれほどの戦士なのかは想像もつく。君ならば、ドラゴンも大雪原も越えることが可能かもしれない……」
「けっきょく、アンタなにが言いたいんだ?」
「……簡単に言ってしまえば、私は君に期待しているのだよ。極めて、個人的な期待を」
伯爵は白い手袋を外し、腕まくりした。そして、オレはリオネル・ヴァレンタインの個人的な危機を知ることになる。彼の右手と右腕には赤く輝く文字が刻みつけられていた。タトゥではない。不気味で禍々しい輝きを放っているのだから尋常な存在ではない。いや、オレの少ない知識でも、それがどういった類いのものなのかは想像がついてしまう。
「伯爵……アンタも呪われているのかよ?」
「ああ。そうとも。これは『呪い』だ。それも、うちのシャーロットでさえ解けない恐ろしい『呪い』……モンスターの召喚ゲートになるというわけではないようだが、骨にまでその蝕みは届き、私の命と体力をつねに削り取っていくという厄介なものさ」
そこまで説明すると、伯爵は手袋をはめて、その『呪い』をオレの目から隠した。
「私も君と似たような立場だ。この『呪い』は誰にかけられたのかも、どうやってかけられたのかも不明だ。君と似ていないか?」
「……まさか、ヴァルガロフに『呪い』をかけたヤツと同一人物がやったと?」
「フフ。さすがに、そこまでは考えていない。でも、まったくの無関係だとも思えないのだよ。私は、『魔女』を妻にした男……運命を信じるロマンチストなのさ」
「意味が分からねえな」
「『同病相憐れむ』。つまりは、そんなところだよ。さて、そろそろ夕食にしようじゃないか?うちのシェフの料理を堪能しよう!彼の肉料理は最高なんだぞ」
―――たしかにヴァレンタイン家の肉料理は最高だった。食事の仕方はずいぶんと堅苦しくて、何度も、この野蛮人が、とジュリィのヤツになじられはしたが……その悪い点を含んでも、『シェフさん』の肉料理に対する評価は完璧なままだったぜ。
ワインが入ると呪われた伯爵はさらに気さくな性格になっていく。オレにワインを勧めてきて、オレがまだ17才なんだが、と断ろうとすると爆笑しやがった。
25くらいに見えていたらしい。ちょっとだけショックだったが、まあ、老け顔だとか悪党っぽいとか、クマみたいとか……ホント、いろいろ言われるのにはもう慣れっこだぜ。
食事が終わると、さっそくだが『診察』の時間となる。
シャーロットに客間へと案内された。そこがしばらくオレの滞在する部屋になるらしい。好きなようにつかってください、とシャーロットに言われたが、寝ること以外に使う予定はなかった……いや、シャーロットをどうにか口説ければ、また話は違うけど。
シャーロットは、準備をしてきますから、もう少しお待ち下さい、と言い残して退室する。一人になったオレは、部屋の中央にあるその大きなベッドの使い心地を確かめたくなっていた。さあて、ダイブしてやろうか?少年の遊び心に満ちたこの計画を、いざ実行に移そうかと膝を曲げてみたとき、ドアを勢いよく開け放ってあの女が現れる。
「―――待て、ソル」
「……なんだよ、ジュリィ?」
そこにはジュリィがいた。彼女はいつも怒っているが、それは今も例外ではない。
「これから我が妹はお前を『診察』するそうだ。残念ながら、私が同席して貴様を監視することをシャーロットは拒否した。彼女曰く、『気が散る』そうだ。まあ、そうかもしれん、私は口うるさいからな!」
自覚があるならその過保護を止めればいいだろうが?……そういうツッコミを口にさせない勢いをジュリィって女は持っているんだよな。自称・口うるさい彼女はつづけた。
「……だが、大切な妹と貴様のようなケダモノを一つの部屋に閉じ込めるという危険性を看過できるほど、私は甘くもなければ寛大でもない!」
「だろうな」
「現に今も貴様は妹に襲いかかり、邪悪な肉の欲望を満たそうという動作をシミュレート中だったではないか!……可憐な妹を押し倒すつもりだな、この、鬼畜めがッ!!」
「そいつはさすがにヒデえ言いがかりだぞ?もっと、可愛らしい動機だっつーの!」
……引っかかるところも多々あるが、オレが妹に手を出すことを心配しているだけか。たしかにあの魅力的な少女と、夜中に二人っきり、そのうえご丁寧なことに大きなベッドまであるときた。こいつは健康な男として『求愛行動』を取らないほうが間違いなんじゃねえだろうか……?
「一日に三度も妹の貞操を心配する日が来るとは思わなかった。汚らしい山賊ども、そして、妹の口に指を突っ込んで笑っている変態、さらにはドラゴンをなぶり殺しにするような荒くれた野蛮人……泣けてくるぞ」
「三度のうち二度は同一人物だしな」
「お前が言うんじゃない!……分かっているとは思うが、もしも妹に不埒なマネをしてみろ、我が騎士団の総力をもって貴様を殺す!切り刻んで、豚のエサにするからな!」
「ああ、了解した。でも安心してくれよ、ジュリィ。お前のシャーロットに酷いことはしないさ。アイツの涙は、オレの心に突き刺さるからな」
そう。ヴァルガロフの囚人たちのために涙を流したあの子をオレが苦しめるだと?
「―――彼女を泣かせたり、困らせたりする気はひとかけらだってねえんだぜ。あの子はオレたちヴァルガロフの恩人なんだからよ?」
「いいスピーチだ。だが、お前の理性が妹の魅力の前にどれだけのあいだ正気を保てる?お前が妹を魅力的だと思えば思うほどに、かえって信用ならなくなるだろ?いいか?」
シスコン女のスピーチが始まる。
「シャーロットはうつくしく可憐で完璧な美少女だ。青い宝石のような瞳はじっと見ていると吸い込まれそうになる。あの長いまつげも愛らしいよな。そして、姉としてときに入浴や睡眠をともにしている私だけが知っている魅力もある。あの肌だ。女の私でも羨むほどにぷりぷりした張りがあるんだ。触れば、貴様は恐れ多さに罪悪感さえ抱くだろう」
たしかに神聖なものや純粋なものは汚しがたい気がするものだ。ジュリィは妹を大切に想っているのだろう。いや、そういう範疇を逸脱しているような気もする……。
「ああ!雪のように白く、陶器のようにつるつるとした肌。あの長い手足、くびれた腰。そして、貴様ら邪悪な男どもが憧れ、触らせてくれと土下座して懇願するあの大きなバストの形の良さときたら……まったく、あの子は美の神に愛されすぎているじゃないか!フフフ!彼女の繊細な肌はとても敏感でなァ、私が悪戯心に駆られてちょっと指先でくすぐるだけでも可愛らしく反応するのだぞ?」
……オレはなぜシャーロットの肉体のスペックを解説されているのだろう?いや、楽しいぜ?卑しい妄想がかき立てられるんだけどよ、なんでジュリィはこんなことを教えてくれるのだろうか?ていうか、妹に対するヤツの熱い愛情がちょっと気持ち悪い。
シスコンをこじらせている美少女が、氷のように冷たい瞳でオレを射抜く。
「究極の外見をもつ少女だ。人類であれば男女を問わずあの子に惹かれるだろう。それはある意味仕方のないことかもな。だが、貴様はあの子の外見ではなく、中身を評した。お前は腹が立つことにな、あの子の心の素晴らしさにも気づいていやがる」
「なんでそこに腹が立つんだ?」
「お前がより強くシャーロットに興味を持つからに決まっているだろう?外見と中身が完璧な16才の美少女が、貴様の邪欲が届く範囲にこれからやって来るのだが?……彼女に指一本でも触れたくはないのか?そんな男が、この世界にいるとでも?」
「……」
……そこまでの言われ方をすると反論に困っちまうじゃないか。
「うんうん、無言かァ。いい返事の仕方だなあ、オイ?……ここがもし私の支配する王国だったら、お前なんて、とっくの昔にギロチン送りにしているところだ」
「恐怖政治は良くないんだぜ?」
「そうか?優れた指導者に『規律よく』率いられた国家は躍進するかもしれないぞ?」
「そんなもん独裁者の詭弁だろ」
「ふん。貴様と政治論議などしている場合か!こっちは妹の貞操を守らねばならん!」
ジュリィ女王さまがとんでもない道具を持ち出してきやがった。オレにとっては見覚えがあり過ぎる道具、そう『魔銀の首かせ』である。
「ククク!恐怖におののけ野蛮人よ!これがお前の命を握る、恐怖の―――」
「いいぜ。つけろよ」
「え?抵抗しないのか?……なんか、張り合いがないじゃないか」
「オレはヴァルガロフの囚人だぜ?そいつを首につけられるのには慣れっこさ」
オレは彼女のためにネクタイを外して襟元をさらけ出す。彼女が『魔銀の首かせ』をつけやすいように屈んでやった。彼女は、満足げな顔をしてオレの首に腕を回す。冷たく冷えた魔銀の塊……懐かしいという前向きな気持ちまではさすがにわかないな。
「……フフン♪これでお前は囚人に逆戻りだな?」
「こんなものでアンタが安心するならそうすればいい。正直、これぐらいの保険がないとシャーロットの魅力に負けちまうかもしれねえしな」
「今ここで殺しておけば良かった……みたいなことにならなきゃいいんだが―――」
「お、お姉さま!ソルさまになんてことをしているのですか!!」
シャーロットが戻ってきていた。白いローブと、白い三角帽?……なるほど『白の魔女』とは言ったものだ。たぶん、彼女にとっての『正装』というヤツなのだろう。魔銀の装飾具とか蒼い炎が内側でで揺れている宝石とか……小さなクマの人形とか……色々なものがそのローブにはくっついていた。
「ソルさまは私の大切なお客さまなのですよ!こんな酷いことしないでください!」
「い、いや。これはその……同意の上でのことでな!?」
「ど、同意?……そ、それでは、まさか……二人はいつのまにかふしだらな関係に!?」
シャーロットの顔が赤くなる。思春期のお嬢さまはこの首輪にどんな妄想をしたのだろうか?……聞いてみるのは意地悪だな。妹のおかしな妄想に姉がキレた。
「ふ、ふざけるな!だ、誰がこんなクマのような男と卑猥な関係になったりするものか!この首輪はお前のためにつけさせたんだ!断じて、私の邪な趣味とか関係ないんだッ!!」
「私のために……ソルさまに首輪を?」
なんだか不安そうな顔でシャーロットがオレを見つめてくる。困惑しているのか?
「……若輩者の私には、意味がよく分かりません……ソルさま、苦しくないですか?」
「苦しいことはない。コイツは呪文で起動させなきゃマフラーの仲間に過ぎん」
「さ、さすがにそれをマフラーだとは思えないですよ。ああ……こんなこと、やっぱりいけません。ソルさま外しましょう?」
「いや、別に構わないさ」
「で、でも!」
「これはオレがお前を襲わないようにっていう、ジュリィなりのオマジナイなんだよ」
「ソルさまが私を襲う?……おそう?おそう…………んにゃッ!!」
んにゃ?……シャーロットが変な音を出してその場にしゃがみ込む。三角帽子のはしをぎゅっと握り、もじもじと身をくねらせていた。
「そ、そんな!ソルさまは紳士です!私をあの汚らわしい山賊どもから救って下さった英雄でございます!そ、それを、そんな方が……わ、私を……ご所望に?」
怯えているのか慌てているのか。区別がいまいちつかないが、シャーロットがぷるぷると身を震わせながら青い瞳でオレを見上げてきた。
しかし、ご所望に……か。丁寧な割にはストレートな言葉だな。ああ、そう、シャーロットのことが欲しいか欲しくないかなんて訊かれたら、オレはもちろんイエスとしか答えられない。あのやさしい美少女と飽きるほどセックスできたら?んなもん最高に気持ちいいに違いねえし―――。
「絞めるぞ?」
ジュリィの短い言葉には冷たい殺意のにおいがした。ああ、そうだった。コイツ、短気でシスコンなんだよな。家族のためなら人でも殺す。初対面のオレにそう宣告するヤツだ。
「……オレはシャーロットが怖がるようなことはしねえさ。乱暴なことはしない」
「怖がること……ですか?……えへへ。それなら、安心です。お姉さま、ソルさまが誓って下さいました。だから、首かせなんて」
「絶対外すな。外した瞬間、『獣性』をあらわにして悲劇が起きるかもしれん」
「じゅうせい?」
一般会話でまず聞くことのない単語だった。
「獣の本性のままに、ありとあらゆる性的な行為を、お前にしようとするかもしれない!あ、あんなもので乱暴に襲いかかられたら、お前が壊れてしまうだろうが!」
「……あんなもの?」
シャーロットが首をかしげる。あやふやな言葉だから正確にどういったモノを示しているのかは、ジュリィ本人にしか分からない。でも、たぶん……乙女が口にするのがはばかられるモノだったのかもしれない。
そういえば、コイツには生まれたままの姿、ネイキッドなオレそのものを見られているんだった。ジュリィが完熟トマトみたいな顔色になる。
「私はそんな発言していない!」
「窮地の議員か」
「うるさい、やかましい!さっさと診察とやらを始めて、すみやかに終わらせるんだ!私はこの部屋の外で待機している!レイピアを研ぎまくりながらな!もしも、妹の悲鳴があがったり、退室してきた妹の着衣に乱れがあって、そのうえ泣いていたりしたら!貴様の汚らわしい頭部は胴体と永久に別れを告げることになるだろう!いいな!殺すぞ!殺してやる!ぶっ殺すからな!!」
ぶっ殺すからな!!
凶悪な言葉の残響を置き去りにして、ジュリィは部屋から出て行った。なんという社交性だ。オレもロクなもんじゃねえだろうけど、アイツもそうとうヒデーぞ、おい。
「……あ、あの。すみません、ソルさま。姉がなんかうるさくて」
シャーロットが帽子を取ってペコリと頭を下げる。彼女の動きに同調してローブにくっついているクマ人形も頭を下げた。さすが『魔女』。着るものからして不思議だな。
「べつにいいさ。ジュリィはお前を心配しているだけだろ?」
「は、はい。愛されているなって痛いぐらい感じるのですが……ときどき、お姉さまは私のことを愛しすぎているような気がするのです」
「それだけお前が可愛いんだろうよ」
「か、かわいい……ですか」
「そりゃそうさ」
「そ、そりゃそうなんですか……えへへ!」
「シャーロットって、よく笑うんだな。もっと大人しい子かと思っていた」
「あ、うるさい……ですか?」
「いや。そうじゃない。話しやすそうでよかったよ」
「……ま、まあ、私はそんなにおしゃべり上手じゃないですけれど、ソルさまとはたくさんお話してみたいです!」
「そうか。オレも、シャーロットとは色々なこと話してみてえな。オレには……ヴァルガロフでの生活しかないから、大したことを聞かせられねえだろうけどよ」
「そんなことありません。ソルさまのことなら、なんでも知りたいですから」
少女はそう言ってオレのそばに近寄ると、小さな声でつぶやいた。
「……じゃあ、脱いで下さい」
―――なんというか緊張しちまったな。タネを明かせば、診察のために邪魔になるかもしれない上着を脱ぐってだけのことだったんだけどよ。やけに色気を感じてしまった。こっちが変な期待をしているからだろうか?……それとも、シャーロットが意外とエッチな女の子だったりすれば嬉しいんだけどな。
ベッドに寝かされたオレは『白の魔女』の診察を受けていた。体の奥に『呪い』の欠片が突き刺さっていたりしないかを診るんだそうだ。白く輝く紋章が浮かんだ手のひらで、彼女はオレの胸とか腹の辺りを押さえていく。痛くないですか、と聞かれたが、痛みはまったくない。むしろ、温かくて気持ちがいいほどだ。
しばらくすると、彼女のローブからクマがぴょんと飛んだ。彼女の手のひらまでコミカルな動作で歩いたクマは、ぽひゅん、という間が抜けた音を立てると『聴診器』に変わる。
「へえ。便利なもんだな」
「あ。そ、その……驚かせちゃいましたか?」
「いや。そんなことはない」
「えへへ。よかったです。コレやると、怖がる人もいるんですよね……『魔女』の魔術はやはり一般の魔術とはかけ離れた存在です。だから、私を怖がる人も……多くて」
「……シャーロットは『怖い魔女』には見えないけどな」
「そ、そうですか……ソルさまにそう言ってもらえると、うれしいです」
「たぶん、オレだけじゃねえよ。お前が助けようとしてたミーシャだって、病気を治してもらった村の連中だって、あいつらも別にお前を怖がっちゃいねえさ。お前のクマの変身芸に驚くことぐらいあっても、んなもので恐れたりしない。あいつらみんな言ってたぜ?魔術で困っていることがあるんなら、『白の魔女』を頼れってな」
「……ソルさまは、やさしいですね」
「やさしい?そいつはどうかね。ヴァルガロフの囚人だぞ、このオレは」
「たかが囚人じゃないですか!私なんて、『魔女』ですもん!」
「ククク!……たしかに、その肩書きと張り合えるような気はしねえよな」
少女が、じゃあ、心臓の音を聞きますね、と言い、クマが化けた聴診器をオレの胸に当ててくる。あー……生温けえな。これって『クマ肌』か?べつに不快じゃねえけどよ。
「……力強い音。太陽みたいに、大きな鼓動です」
「健康そうか?」
「はい。問題など、ありませんね……『呪い』は完全に『祝福』のもとに制御されています。ソルさまの命が尽きるそのときまで、『呪い』が貴方を脅かすことはありません」
「……つまり、一生だいじょうぶってことか?」
「そう。一生だいじょうぶです。でも、ときどきは私の診察を受けるのがベストですね」
「じゃあ、そうするよ」
「……では、これで『呪い』のほうの診察は終わりです……けど」
「けど?」
「……あ、あのですね。ここに秘伝の薬がありました!」
「ありました?」
「い、いえ、あ、ありまして。とってもいい傷薬です。ソルさまは長旅で体のあちこちにダメージをためておられますので……あの、その治療も、しちゃってもいいですか?」
―――願ったり叶ったりのことだ。たしかに大雪原を越える冒険はオレの体に大きな負担を刻みつけた。足先から頭のてっぺんまでが疲労困憊といっても過言じゃない。治りかけの傷もあちこちにある……シャーロットの申し出はありがたかった。
「頼むよ」
「は、はい!お任せ下さいね!」
少女は意気揚々とした顔で、ローブの内側からたくさんの霊薬を取り出していく。ありえないほど大量の薬品だ。果ては巨大な『窯』まで取り出した。『魔女』の魔術ってのは何でもありだな。彼女は『窯』のなかに霊薬を投入して、こう聞いてくる。
「身長と体重を教えてくれますか?ベストな濃度に霊薬を煮込むのに必要なので」
「……191センチ、95キロ」
「え。そ、そんなに大きいんですか!?確かに岩のような筋肉をなさっていますけども。そこまで体重があるようには見えませんが……」
岩とかクマとか散々な言われようだな、オレさまの肉体は。
「体脂肪率が低いんだよ。筋肉しかねえのな」
「たしかに……そんな感じですよね」
「なにせ、ヴァルガロフでは慢性的な脂不足だったからな。脂たっぷりの美味い食い物なんて存在しねえし。タンパク質の摂取は、労働の合間にやる狩りが生命線だったな」
「狩り、ですか?」
「ああ。道具なんてほとんどねえだろ。だから、斧やら鎖とかで鹿やクマを……果ては素手だな。素手で大ナマズを捕まえるなんてこともしょっちゅうだった」
「素手で釣りを?どうやって釣るのでしょう?……シャーロットには想像もつきません」
「腕をエサ代わりにしてナマズの巣穴に突っ込むのさ」
「噛まれちゃいません!?」
「噛まれる。それが狙いじゃねえか。ガッツリ腕をかじらせて、そのまま引きずり出す」
「……大ナマズって、300キロぐらいの個体もいますよね?」
「ああ。二メートル七〇を越えるとそれぐらいになるかもな。そんなのに噛みつかれた日にゃ大喜びだったね!多くの囚人が腹を満たせるからよ」
「なんというか、壮絶な生活です。ご苦労なさいましたね、ソルさまは」
「……いや。生きて出られただけマシさ」
「そう、でしたね……」
「……」
……沈黙が生まれてしまった。苦労話なんてするもんじゃねえな。でも、オレとしてはナマズや鹿を捕らえて食べたことぐらいしか思い出せないんだよ、『いい記憶』ってのは。しばらく沈黙が続いたがシャーロットの声がこの居心地の悪い状況を終わらせてくれる。
「……ソルさま。私、お父さまに頼まれていたことがあるのです」
「伯爵に?どんなことだ?……オレの素性にまつわることか?」
「はい。お父さまはソルさまのお立場に疑問があるようなのです。そして、それは……失礼なことですけれど、私から見ましても確かに不思議に思えることなんです」
「……言ってみな」
「お、怒らせちゃったらゴメンなさい。おイヤでしたら、お答えにならなくても―――」
「いや。オレは隠し事をするつもりはねえんだ。疑問があるなら、何でも聞いてくれ」
「は、はい。あの……ですね。ヴァルガロフ監獄は『重罪人』が送られる監獄なのです。大量殺人や強盗、常習性の強い犯罪者、詐欺師や麻薬の密輸犯に……そして政治犯」
「そうだな。ヴァルガロフの囚人と言えば、まさにそんな連中だ」
「……ですが、ソルさまは?」
「あ?」
「ソルさまは17才とおっしゃられました。でも、北方諸国のあらゆる都市において、未成年の犯罪者がヴァルガロフ監獄に送られるような法律はないのです。たとえ、どんな罪を犯しても、教会と各都市で運営する少年院などに送られるのが一般的です」
「……なるほどな。そこが伯爵の疑問かよ。そう言われれば、確かに変だよな」
「あ、あの!」
シャーロットが霊薬を練る作業を止めて、オレの顔をのぞき込んでくる。桜色のながい髪がオレのほほをかすめた。サファイア色の瞳がすぐそこにあった。手を伸ばせば、あのピンク色の唇にまた触れることだって可能だろう。彼女の唇が開く。
「……もし、よろしければ。ソルさまの罪状を教えていただけませんか?」
オレの罪を知る、それはシャーロットにとって大切なことなのか?それとも、伯爵の疑問を代弁しているだけなのか?……心のなかに生じた疑問。それをオレは何故か口にすることができなかった。オレはどっちだったら嬉しいのか?……それこそ愚問だな。
「……『生まれたこと』」
オレは自分の罪状を少女に告げた。
彼女は、え?と小さな声をあの唇からこぼす。
「17年前、ヴァルガロフの囚人の一人が子供を産んだ。その子供ってのが、オレだ。母親の名前は分からねえ。ヴァルガロフってのはよく人が死ぬんだ。労働が過酷だからな。囚人は長生きできん。オレの母親を知っているヤツは、どこにもいない。看守たちも1、2年で交替して監獄を去る。だから、誰もオレの母親を知らない……当然、オレもな」
「……それは、とてもさみしいですね」
「さみしい?……というか、分からねえんだ」
「分からない……?」
「オレが思うに、さみしがるには『喪失感』ってものがいる。今まで自分のそばにあった何かが消えてしまうから、さみしくなるんだろう?失うから、痛みを感じるのさ」
「そう、かもしれませんね」
「じゃあ、最初から知らなかったらどうだ?生物学上、オレにだって両親ってものが当然ながら存在している。そりゃそうだ。でも、オレの記憶のなかにはどっちもいねえんだ。だから、親という存在がどうなろうと、さみしい、という気持ちは生まれない」
「ソルさま……なんと、お声をかけてよいのか」
シャーロットはオレに同情してくれているらしい。やさしい人間は損をするな。世の中は痛みにあふれているというのに、自前の痛みだけじゃなく、他人の痛みまでどうにかしてやろうと努力する。シャーロット、他人の痛みにまで気を回さなくていいんだぜ?
「……オレにはクロードの兄貴とか、ラントのオッサンとか……まあ、これでも色々と仲間がいたのさ。オレはべつに孤独なわけじゃなかったぞ」
「そ、そうですよね」
「うん。そうさ、オレはさみしくはなかったのさ。さて、ハナシを本題に戻すか。ヴァルガロフってところは監獄だ。禁止されていることってのはたくさんある。もちろん、囚人の妊娠もな。でも、どんな経緯か知らねえがオレは生まれた。ヴァルガロフにおいてそいつはとても厄介なことなんだよ」
「生まれることが厄介だなんて……」
「ヴァルガロフ監獄には凶悪犯だけじゃなくて政治犯もいる。革命を企んでいた若い貴族とか、有力な軍人や政治屋もな。そいつらは社会の主流派にとってとても迷惑な存在だ。だから監獄に閉じ込めている。処刑しちまわないのは、それをすればそいつの仲間が暴れ出すかもしれないから。そいつは監獄内にいてもなお社会に大きな影響を持つ」
「つまり、『人質』でもあるわけですね」
「ああ。冴えたやり方だな。厄介なヤツを捕まえておきながら、そいつの仲間の動きまで抑えるんだ。効率的だろうよ」
「……私、監獄に対しての知識はあまり持ち合わせていませんが、ヴァルガロフには複雑な事情が多そうですね」
「そうかもな。だから、まあ……オレもそのフクザツに巻き込まれたんだろう」
「フクザツに巻き込まれた?」
「オレは誰の子か?……みんな知らない。でも、誰かの子じゃあるだろう?……もしも、そんなガキがヴァルガロフから出ちまえば?そして、そんなガキを厄介な連中が……たとえば、『革命』を気取る組織が手に入れたら?……ちなみに、その組織のリーダーとかカリスマがヴァルガロフ監獄に囚人として収監されていたりしたらどうだ?」
「……ソルさまは、そのカリスマの子供と祭り上げられるかもしれませんね」
「もしくは、オレはそれなりに有力な貴族の三番目の息子のガキかもしれない。そして、詐欺師に連れられたオレはある日、病床の老いた貴族のジジイんところに行って、遺産の分配にありつこうとするのさ。遺産を相続するライバルを皆殺しにするだけで、オレと詐欺師は広大な領地を手にできるかもよ?……その詐欺師、じつは敵国のスパイだったりすれば、より面白いハナシになるだろうな」
「そ、そうですね……敵国に密かな侵略を受けてしまう。ちょっと怖いですね」
「オレは誰の子かも分からない。逆に言えば、オレは『誰の子にもなれる』。ただの孤児がヴァルガロフの政治的なややこしさと合わさることで、社会を混乱させる『厄介な道具』になっちまうんだよ……だから、『生まれたこと』が罪なのさ」
―――シャーロットはこんな話で喜んじゃくれない。
黙り込み、悲しそうな顔になっている。そんな彼女の横顔もうつくしい。でも、笑った彼女のほうがもっと好きだな。もっと、明るく楽しいことをこの口が吐けたらいいのによ、ユーモアの才能がないのが残念だ。
ぐつぐつと魔女の鍋が霊薬を煮込む音だけがつづく。オレはそのあいだ野生動物にまつわる愉快なストーリーが頭のどこかに転がっていないかと思索を巡らせていた。キツネやウサギの愉快な話でもあれば、シャーロットを笑顔にさせられやしないかと期待して。
でも、シャーロットは話を変えようと必死になっているオレとは違い、オレの罪についてずっと考えていたらしい。彼女もマジメだな。わざわざ掘り下げなきゃいいのによ、希望の欠片もないところなんて。
「―――ソルさま」
「どうした?」
「私なりに先ほどのお話を考えてみました。でも、大きな疑問がなくなりません」
「なにかオレの説明に矛盾でもあったか?」
「いえ。矛盾というものは感じません。ですが、どうしても納得できないことが」
少女は煮立った霊薬の前から離れて、またオレの顔をのぞき込んでくる。さっきとは違い、ちょっと怒っているような顔をしていた。彼女の唇が動く。
「とても理不尽なお話です。ソルさまは何も悪くない。ソルさまを利用しようとする人々がいるかもしれないことが問題で、ソルさまはぜんぜん悪くないじゃないですか!」
「……そんな苦しそうな顔で怒らなくてもいいんだぞ」
「だって!……腹が立つのです。私のソルさまを苦しめる方々に……そして、その理不尽な罪を受け入れてしまっているような、ソルさまにも!」
理不尽を受け入れる?……ああ、たしかにそうだ。オレはその理不尽なロジックを自分でもいつのまにか認めてしまっているんだな。
「どうして、そんなこと受け入れちゃうんですか!」
「納得できないってのは、そのことかよ」
「そうです。ソルさまは、ありもしない罪を受け入れているように見えるのです。どうして?そんなの、おかしい。おかしいですよ……」
「……みんな、いなくなっちまうのさ」
「え?」
「ヴァルガロフにもいいヤツっているんだぜ?囚人にも、看守にもよ。でも、看守とか僧侶とか看護士とかってのは、すーぐにいなくなっちまうのさ。一年とか半年とか……一月とか、なんなら一週間も経たないうちに」
「ソルさま……?」
「だから、まあ……そいつらとつるむよりもさ、囚人たちとつるんでいるほうがまださみしくなかったんだろう。囚人だって過酷な労働でそのうち死ぬが、看守たちよりゃ長く監獄にいるからな。オレはさ、『囚人になりたい』と考えていたのかもしれない。だから、罪を受け入れることが苦じゃなかったのかもな……たぶん、仲間はずれで、ひとりぼっちはイヤだからよ」
―――ソルさまはそうおっしゃいました。そして、静かにほほえむのです。オオカミみたいな犬歯がきらりと輝いていました。ああ、この人は、やっぱり孤独な方でした。ひとりぼっちはイヤです。誰だって、それはあたりまえのことです。ひとりぼっちになるぐらいなら、ヒトは悪人と呼ばれたって構わないのかもしれません。
ヒトは正義にあこがれる動物です。でも、孤独な正義には何の魅力も感じることはありません。私の指がソルさまのほほに触れます。男の人のほっぺたは、私やお姉さまのとは違ってちょっと硬いんですね。でも、温かさは同じです。この肌の下には命を宿した血が流れ、命が持っている温もりに、ヒトはどうしても惹かれてしまうのです。
誰だって寒い大地で、ひとりぼっちはイヤなんですよ。
私の手がソルさまの首もとに。私の唇が愛しい彼のために魔術を歌う。邪悪な『魔銀の首かせ』がカチリという音を立てて、あのひとのたくましい首から離れます。
「そいつを外すとジュリィが怒るぜ?」
「それなら終わった後で私がつけなおせばいいのです。そうしたら、バレないですよ。私とソルさまが、そのことをお姉さまに秘密にしておけばよいだけじゃないですか?」
そうです。お姉さまに秘密の悪だくみ。ソルさまと私だけの秘密。私はソルさまの首に触れる。お姉さまもきっとここに触れた。そして、この首に残る凍傷と傷痕を見たはず。だから、お姉さまは『魔銀の首かせ』でそれを隠そうとした―――。
ソルさまの傷痕を私が見ると、私が彼にますます同情して、どんどんソルさまに惹かれていくかもしれないと心配なさって。でも、お姉さま。こんなものでは『白の魔女』を止められないのです!私とソルさまのあいだを、錬金術なんかじゃ邪魔できません!
「……傷を、癒やしましょうね、ソルさま」
私は霊薬に魔術をかけて冷まします。ローブに霊薬がつかないように……脱いじゃいます。ソルさまの黄金色の瞳が私のほうを見ているような気がします。なんというか私の体の輪郭を確かめるような視線を感じました。
おかしなことですが、イヤではありません。騎士や村人たちの視線には嫌悪さえ感じてしまうのに、ソルさまに見られることはどこか私の心を嬉しくさせます。ま、まあ、ちょっとというか、かなり恥ずかしいですけど。
ローブの下は薄着で、肩が出ていますし、スカートも短いですから。そもそも半裸のソルさまのために、この部屋の暖炉の火はあらかじめ強くしているので、私はこんな格好でもぜんぜん寒くありません。だから、なんというか……問題はないのです。
私は霊薬を手に取り、そのぬめりとした傷薬をソルさまの首もとにぬりこんで行きます。首が終われば、あのたくましい胸とか、ふ、太くて硬い腕とかにある傷に薬をぬっていきました。ソルさまが意地悪な顔をしています。
「なんか、エロいな、これ?……シャーロットって、いつもこんな治療してくれんの?」
私は顔が真っ赤になりました。
「ご、誤解です!これは治療で、エッチなことじゃないですからね!?そ、それに、いつもは私の手で全身に薬を塗ってあげたりしないですよ!ご自分でどうぞって薬だけ渡しますし!こ、こんな丁寧に塗ってあげたりするの、小さな子供か、ソルさまだけです!」
「なんだよ。オレ、子供あつかいなんだ?」
「そ、そういうわけじゃなくて……む、むしろ、逆ですけど……」
ああ。ソルさまにエッチな娘だと思われたかもしれません。ひどいです、ソルさま。あんなに意地悪そうなお顔で微笑まれて。私は恥ずかしくて死にそうになります。
でも、霊薬を指につけ、ソルさまの傷へ塗り込むことはやめません。そりゃ全身に傷があるのですから、全身に触れますよ。もちろん、その過程で、ソルさまのたくましく立派な肉体に触れてしまうのは不可抗力で、しかたのないことで…………で、でも、ああ、なんという鍛え上げられた肉体でしょうか?岩のように硬く、脂肪がほとんどありません。
私を邪悪で汚らわしい山賊どもの魔の手からお救い下さったときの勇姿がまぶたに浮かびます。ソルさまがあのとき来て下さったから、私はあの下劣な悪漢どもに陵辱されることもありませんでした。感謝してもしきれないですし……シャーロットは我が身の純潔が汚されることのなかったことを改めて嬉しいと思います。
―――お姉さまが心配されていた通り、ソルさまが……こ、このシャーロットのことを、ご、ご所望になったとき、ソルさま以外の何人も触れたことのない唇と体で求愛にお応えすることができるのですから……っ。
今回はソルとヒロイン・シャーロットやその家族たちとの出会いの物語でした。バトルより会話がメインですね。雪原を越えるソルの物語は、さすがに地味すぎるかと思って書きませんでした。でも、そういう物語も書いてみたいような気持ちもあります。冒険って感じしますよね、雪原を一人で踏破するとかカッコいい。
ソルの生命力の強さや、生きることへの執着心をそういう物語で現すのも手だったなあと。でも、内的な世界の描写に偏りそうで、熱いけど地味な形になってしまったかも?
ソルは豪快なキャラクターですが、それでも欲望に素直で弱さもある少年なんです。ジュリィには蛮族呼ばわりされていますが、監獄という異常な環境で育ったため、周りは大人だらけでした。政治犯にはインテリもいますので、彼はそんな人々との対話により偏った知識や、おかしな人格が形成されています。彼は常識こそありませんが、そこそこ知能は高いという設定でもあります。
子供にやさしいのは、彼になかったフツーの子供時代への憧れやコンプレックスみたいなもんですね。彼は子供たちが喜べば、自分のことのように喜ぶでしょう。それは自分への癒やしでもあるんですね。彼自身は気づいていませんが、子供たちに自己投影をしているわけです。そういうエピソードも強調したかったような、あまり盛りすぎてもテンポが悪くなってしまいそうな……この辺りは研究がいりそうです。
囚人たちのために涙を流すソルは、豪快で粗暴なだけではなく、幼さや純粋さを持つ少年でもあるのだと表現したかったんです。でも、彼は自分のためには泣きません。哀れな誰かのために泣くのです。みじめに殺された囚人たちを哀れに思って泣いたのです。
ソルにはヒーローをイメージしています。圧倒的に強くて、悪を許すことはなく、それでも女子供にやさしくて、涙もろさもある。
次回は、そんなソルのやさしさも描こうと思います。魔族とのバトルもあるよ。