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第一話   太陽を追いかける男

WILD×WILD×WIZARD  ~竜喰いのソルと白の魔女~



 『真の強者』にとって最も苦しいこととは何か?

 ……決まっている。敗北することだ。



 それは世界の始まりの日に生まれた最も古い竜たちの一匹。あらゆる生命の頂点に君臨してきた無敵の魔竜―――その名を『ケインシルフ』。数多の文明を滅ぼしてきた、破壊の化身。忌むべき力と思想のもとに、殺戮を繰り返す世界の怨敵だ。

 このドラゴンに分別はない。己に敵対してくれる強者であるならば、誰もが彼に愛され、そして殺されてきた。

 彼は強者を愛する。そして、それを倒すことを更に愛している。じつに狂気じみた発想の持ち主で、己が兄弟たちである最古のドラゴンたちとも共食いするように殺し合ってしまった。憎しみゆえのことではない。たんに戦いを欲した結果なのである。このドラゴンは、まったく見境のない闘争本能の持ち主なのだ。

 ……ゆえに、『ケインシルフ』は人間どころか邪悪な魔族にさえも恐れられてきた。彼自身が求めたわけでもないのに、魔族たちから『公爵』という位を与えられるほどに。魔族は彼を奉ることで仲間に引き込もうとしたのである。

 しかし、この魔竜は権威などに興味が無かった。なにせ彼の魔力は、すべてのものに勝るのだから。欲しければ、力ずくで奪えばいいだけのこと。魔族の爵位などというものに付随した権力や尊敬などを利用せずとも、己の力ですべてを意のままにすればよい。

 魔族はドラゴンに爵位を与えたことを後悔したかもしれない。従順と尊敬を示すための行いであったが、それでも『ケインシルフ』は魔族の『降伏』を認めなかった。力ある多くの高位魔族たちが、彼に愛され闘いを求められた。あげく、魔族の支配階層はドラゴンの牙と炎の前に滅ぼされてしまうことになった―――。

 闘争を愛する彼は勝利を重ねた。人間、魔族、ドラゴン。力あるあらゆる存在に彼は挑み、また時には挑まれることで闘争を継続した。何十年、何百年、何千年。闘いの履歴は神話となって歌に残るほど長くつづいたのである。

 やがて敗者どもの死骸で白骨の山を築きあげた魔竜は、そこを最良の寝床と定めることを選んだ。敗者たちの骨が風に吹かれてからからと啼いてわめく。その音を嗜虐の魔竜は自分へ捧げられた最高の歌だと感じていたのだ。勝利を思い出しながら眠れるこの寝床を彼はいたく気に入っている。

 彼と闘いたければ?世界の果てにあるその『白骨山』を目指せばいい。およそほとんどの時間を彼はそこで眠りに費やしている。よほど運が悪くないかぎり、その山にたどり着けたら会うのは難しくはないだろう。生きて帰れた者はいまだにいないが。

 無敵の魔竜『ケインシルフ』。

 しかし、そんな彼とて完全無欠なわけではない。

 敗北したのは、二回だけ。

 数千年における闘争の時間のなかで、たったそれだけである。

 その黒星を恥じることはないだろう。彼を倒すことが出来たのは『魔王』と呼ばれた男と『勇者』と呼ばれた女のただ二人のみ。それも一対一の決闘などではなかった。彼らと、彼らに味方する優秀な仲間たちの手により、ほんとうに僅差の敗北を味わっただけのことにすぎない。

 そうだ、『単独の力』では、いまだに無敵のままなのだから。魔竜の伝説は崩れることはない―――。

 だが。

 魔竜はその二度の敗北で己が変わってしまったことに気がついていた。彼は『純然たる勝者』ではなくなっているのだ。彼は自分が穢れてしまったと考えているし、事実、彼の心にはドラゴン特有の邪悪さとは、やや異なる闇が生まれてもいた。

 その『劣等感』という闇を拭い去るにはどうすれば良いのか?

 どうすれば自分は穢れのない心に戻れるのだろうか?

 ……彼は思索を巡らせながらも狂ったように闘争する。高名な戦士を、邪悪な魔術師を、力に溺れた魔族たちを。あらゆる強者をいつの世でも探し出しては殺しつづけたが、その問いに対する答えは長いあいだ見つからなかった。

 二つ目の白骨山をつくりあげたとき、返り血で赤く染まった彼は一つの答えにたどり着いた。そうか、『偽物』をいくら倒しても意味がないのだ。

 意味のない勝利では、自分の心を清めることは出来ない。再戦するに相応しいものは『魔王』と『勇者』のみ。だが、どうしたらいい?彼らは何百年も前にこの世を去っている。彼ら以外に勝利したところで、この心の飢えは満たされないのに……?

 困ったものだ。

 いない者と戦う?……どうあってもムリな話だった。

 何か、ないのか?この命題への満足出来る答えが―――。

 魔竜はそれから何十年も考えつづけた。答えはなかなか見つからなかったが。飽きることはない。彼にとってその再戦こそが最大の関心事だったからだ。いいさ。世界の終わるそのときまで、考え続けてとしても構うまい。それだけの価値があることだ。

 魔竜は無限の思索を白骨山で続けることに迷いはなかった。

 ……しかし、運命は唐突に動きはじめる。

 その日、腹を空かせた魔竜がたまたま立ち寄った村で答えは見つかったのだ。ほんの数分のうちに滅ぼしたその村で、彼は当然のことながら食事を始めた。彼の炎の息で生焼けにした肉に巨大な歯を立てると、肉ごと骨を噛みつぶして、命が壊れる感触を楽しむ。

 何人目かの死体を食したあとで、彼は『それ』を見つけていた。

 女だ、しかも年若く、痩せた背の低い女。

 ……だが、どうした?やけに腹が大きいではないか?

 魔竜はその死体がどういう『症状』に冒されているのかを知識で理解する。たしか、人間どもは『卵』を腹のなかで孵化させるのだ。強靱で賢いドラゴンであるならば、生命の創造をわざわざ体内で行うことはないが、強者から逃げ回らなければならぬ弱い人間はそういうわけにはいかないようだ。

 逃げ惑うために腹のなかへ卵を抱えるのか。なんと重たかろうに、不憫であるな。絶対強者である魔竜は、人間の持つそのみじめな生殖方法に同情を禁じ得なかった。そして、彼が人間どもを哀れに思ったその瞬間にこそ、その邪悪なアイデアは誕生していたのである。彼の心のなかにある闇が、狂気となって形をとっていく。



 ―――そうか。創ればいい。



 この世にいないのなら、我が自ずから創ってみればよいではないかァ……。

 魔竜が古き世界の言葉で呪文をつぶやいた。死体の腹で息絶えようとしていた生命は魔竜の邪悪な力を注ぎ込まれることで死の淵より蘇る……。

 それは同情の心から来るものではなかった。長く、おぞましい計画の始まりでしかない。魔竜は死んだ女の腹を裂き、尖った爪の先で血まみれの胎児を大切そうにつまみあげる。魔竜に祝福された赤子は、おぎゃあおぎゃあと産声をあげた。

 強き声だ。

 ―――合格である。我が力を注がれた、始まりの者よ……。

 ああ、そなたは最初の『母』になる。

 我の飢えを満たしうる強者をつくるための、聖なる母となるのだ!!

 美しく強く育て、我が『娘』よ!!

 そして、強き仔を産むのだ!!増やすのだ!!

 繁殖を続けよ!!

 いつか……我に比類する『勇者』か『魔王』に至るまで!!



 こうして、いくつもの世代に渡って生命を冒涜しつづける邪悪な魔術は、その赤子の鼓動とともに動き出していた―――。


 


第一話   『太陽を追いかける男』



 ―――『ヴァルガロフの樹海』は天然の迷宮である。その深い針葉樹の森は特徴がなく旅人を迷わせるし、年の内、八ヶ月ものあいだ雪に覆われた極寒の土地でもあった。古来より文明の祝福を受けぬこの土地は、闇の気を受けた凶悪なモンスターと、血肉に飢えた野生の獣たちがいつでも徘徊している。

 ここに『監獄』を設けることは理に適っているだろう。この極限環境では希望さえも凍りつく。寒さと獣と荒野の檻だ。囚人らは逃亡する意欲さえ持てなくなり、ただただ従順に懲役につくほか道はなくるのだから……。

 そんなヴァルガロフの『開墾』は過酷を極めるものであるが、歴代の王たちの夢でもあった。『東の果てに楽園はある』……古代の偉大なる詩人が口ずさんだ『嘘』。それを真実に変えて肥沃な領土を手にすることこそ、北方諸国の支配者たちがいつの世にも見続けた夢であった。囚人という名の『奴隷』どもは、この地獄を開拓させるには、あまりにも都合の良い存在だったのである―――。



「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 オレは獣のように咆吼する。

 腹から叫び、全身の力を昂ぶらせるようなイメージだ。腕と脚が囚人服を引きちぎるような勢いで膨らみ、背中の筋肉が岩のように固くなっていくのが自分でも分かる。オオカミみたいに牙を剥く。奥歯を噛みしめた。凍傷を防ぐ目的で両手に巻いた包帯越しに、オレは分厚い鎖を砕けんばかりに強く握った。

 一歩。また一歩。オレは雪原をゆっくりとだが力強く踏みしめていく。鎖がガチガチに緊張し、オレの馬鹿力をあの大木に伝えていった。

 ミキ、ミシミシシキキイッッ!!

 骨にヒビ割れが入るときと同じような音が、背後から聞こえてくる。斧で切れ込みを入れた大木に限界が訪れようとしている。見張り役の男たちがつづけざまに叫んだ。

「にげろおおお!」

「たおれるぞおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 オレは鎖から手を離す。振り返ることはしないまま、膝の近くまである雪を力ずくで蹴飛ばして、とにかく必死になってまっすぐに走った。

 見ていなくても木が倒れてくるのが分かる。なにせ何百回も……いや、何千回もやってきたことだからな。乾いた悲鳴を道連れにしながら、引き倒された大木が、まるで復讐するみたいにオレを目掛けて倒れてきやがる!

 ―――死にたくねえ!

 全身を激しく動かしながら、考えていたのはたった一つのことだ。

 頭の中では、先週、オレが埋めた名も知らない男のことを思い出していた。二十才ぐらいの童顔の男で、ヴァルガロフ監獄には似合わない細身の男だ。

 せいぜい間抜けな詐欺師だろうと言われていたが、本当のところは知らない。ここでは囚人が犯した罪が何であるかをしつこく訊くような習慣がないからだ。

 ……あの男は倒れてきた巨木の下敷きになって死んだ。即死だっただろう。つぶれたあの男の死体を埋めてやったのはオレだった。くじ引きで負けたんだよ。あんなみじめな死に方、サイテーだぜ。オオカミやクマに食われたほうがまだマシだ。

「死にたくは、ねえ!!」

 口から祈りを吐き出しつつ、オレは雪原目掛けて腹ばいにジャンプした。わずかな時間がまたたく間に過ぎ去り、オレは頭から深い雪の中に頭から突っ込んだ。

 それとほとんど同時に一本の巨木がヴァルガロフの雪原に沈む。それからしばらくのあいだ地面が揺れていた。そして、何秒かすると、雪はすべての音を封じ込めた。ヴァルガロフに白い静寂が戻ってきた。

 オレは手足をゆっくり動かし、それらが無事かどうかを確かめる。うん。まともに動くぜ。潰されたりはしていない。寒さで固まった足の指さえ無事のようだ。

「くく、くくくく……ッ!!」

 刺すように冷たいはずの雪を両腕で強く抱きしめていた。

 今のオレにとっては頬を痛めつけるその冷たさだって愛おしい。それは生きていることの証だから。オレは大木の下敷きになることもなく、今日もどうにか生き残れたのさ。生きている。それを実感させてくれるのなら、この粉雪で顔を洗ったっていいぐらいだ。

「―――何を悪党みたいな声で笑っているんだ?」

 知性的で凜とした声を耳が捉えた。

 ヴァルガロフ監獄にはどうにも珍しいタイプの声だ。ここにいるのは野蛮な盗賊たち、そして、貴族どもに痛めつけられてプライドを破壊されたみじめな政治犯たちがもっぱらだ。だから、オレにはその声の主が誰なのかすぐに分かる。

「……今日も生き残れたからだよ、クロードの兄貴」

 オレは顔中についた雪をはたき落としながら、いつのまにか目の前にやって来ていた長身の男に自分の心中を語っていた。

 オレの髪と同じような黒髪を持つ男だ。瞳の色はオレと違ってブラウンだけどな。オレの目は金色だった。クロードの兄貴が手を差し出してくれる。オレは彼の手に引き上げられるようにして雪原からその身を起こしていた。立ち上がったオレの背は兄貴よりもずっと高い。オレはなんだか可笑しくなってにやけてしまう。

「どうかしたのか、ソル?」

「いやさ、不思議だなーって思ったんだよ。初めてクロードの兄貴を見たときはよ、こんなに背が高いヤツがいるんだって驚いちまっていたのに。今じゃあ、オレのほうがずいぶんとデカいんだからなぁ……?」

「そうだな。確かにお前は背が伸びたよ。よくよく思えば不思議な話だぞ、ここにはロクな食べ物もないというのに。なぜ、お前はそんなに太れるんだ?」

「はあ?べつに太っちゃいねえぜ?見ろよ、この筋肉をッ!!」

 オレは見せつけるように右腕の力こぶを肥大化させた。囚人服の繊維がビリビリと悲鳴をあげる。クロードの兄貴はあきれ顔だった。

「ああ、もう。分かったから止めろ、暑苦しい!!」

「おう。そうだな、服が破けちまいそうだぜ」

「まったく……こんな極限環境で、よくもそこまで『成長』したものだ」

「まあ、オレはこのヴァルガロフに合っているんだろうよ。なにせ、オレは『生まれもっての罪人』らしいからな」

「……ソル。それは違うぞ」

 クロードの兄貴がマジメな顔になる。あの強い意志が秘められたブラウンの瞳が、オレのことをにらむようにまっすぐ見ていた。異論は許さない。そういう迫力がそこにある。

「生まれることが罪なわけがない。いいか、それは絶対に違うんだぞ、ソル」

「……おう。分かったよ」

 まったく。クロードの兄貴は囚人のくせにマジメ過ぎるからいけないな。オレが発言の非を認めると、クロードの兄貴は満足したのだろう。じゃあ、作業に戻るぞ、と言った。

「厄介なことに雪が降り始めているからな」

「ん?……おう、ホントーだな」

 オレは手のひらに灰色の空から降ってきたひとひらの雪をつかまえる。手のひら熱がある程度伝わっているだろうに、その雪はすぐには溶けなかった。オレは雪をにぎりつぶす。

 どうやら、かなり気温が下がってきているらしいな。大木を鎖で引き倒すなんていう運動をしていたせいで体が熱くなっていたから、それに気がつかなかったのか。この天候では、おそらく今夜は吹雪になりそうだな―――。

「急ぐぞ、ソル。早いとこ木を運ばないと、死人が出かねん」



 オレたちの予想はよく当たる。このヴァルガロフでは『悪い予感』だけは滅多と外れるものじゃないのさ、残念ながらな。

 オレたち囚人は五人で一つのチームを作っている。

 そう、たった五人だけさ。馬や牛の力も借りることなく、人間の力だけで凍り付いた大木を引きずって運ばなくてはならないのだ。

 鎖を木に巻き付け、それを力ずくで引っ張るというなんとも荒々しい手法でな。バカなオレでさえもっと効率的な運搬方法を思いつくのだが、オレたちは所詮『囚人』でしかなく、この作業も『罰』の一環でしかないってことさ。

 ……くそ、新しい雪が道に積もり始めてやがる!!

 やわらかい雪はオレたちの足に絡んでくるし、運搬物の障害にもなるんだよ。もちろん囚人の体を冷やしてその体力を奪いもする。つまり、風邪気味だったラントのオッサンがやべえことになるかもな。

 オレは横目でラントのオッサンの顔を盗み見た。

 想像していたとおり、すっかり青ざめてやがるぜ。ああ、悪い兆候だ。ヴァルガロフの風邪はたちが悪く、それに罹患して命を落とす囚人は毎冬たくさん出ちまうんだよな。

 薬師や看護師が気まぐれを起こしたり、看守長の気分が良いときは治療を受けられることもあるが、50前のオッサンに彼女たちや看守長はおそらく興味が薄いだろう。

 若いオレの肉体にならともかく、あの禿げかけたオッサンに女たちが何を期待するというのだ?女子の博愛を注いでもらえるほど、彼はもう魅力的じゃないんだよ。

 そして、看守長からすれば、『労働力』として疑問符がつく年齢に達しつつあるオッサンの生存を望む理由なんて、どこにもなかった。

「……ソル。ちょっと協力してもらっていいか?お前の馬鹿力が必要なんだ」

 オレの前を行くクロードの兄貴が振り返りもせずにそう訊いてきた。まったく、変わった囚人だよ、このヒトは。あのオッサンには一つの借りも無いだろうによ?

「……いいぜ。兄貴の頼みを断ったら、その後が面倒くさそうだしな」

「ありがとう。晩飯のスープを分けてやる」

 クロードの兄貴はそう言いながら前傾姿勢になる。わずかに大木を引きずるスピードが上がった。兄貴は全身を痛めつけながら、この加速を生み出したってわけさ。

 だから?

 だから、まあ、このオレもそれをなんとなくマネしてみるんだよ。よそさまのことはよく分からねえけどよ……『弟分』ってのは、大体そんなもんだろ?

「おらああああああああああああああああああッッ!!」

 獣のように吼えながら、腕に、脚に、力を込めていく。大木が雪をかき分けるようにして進み始める。ああ、背中が痛いぜ。腕も脚も爆発しそうだ。包帯越しに鎖が手のひらを痛めつけてくる。それでも、オレは奥歯を噛みしめる。

 ―――ホント、なんでこんなことをするのかね?

 ラントのオッサンなんかのために、若いオレたちが苦労する?ホント、馬鹿らしい考えじゃないか。ガキでも分かる。一人の囚人のために、二人の囚人が辛い思いするなんてよ?どう考えても損してるじゃねえか!!

 ……まったくよ。自分でも理由がよく分からねえ。

 よく分からねえんだが……オレはこの何年か、クロードという名のお人好しの囚人の背中をいつだって追いかけているような気がしているのさ。その理由こそ、よく分からないままなんだがよ。



 当たり前かもしれないが、ヴァルガロフ監獄のメシはまずいし少ない。

 とくに、オレほどの巨漢になればまったくもって量が足りない。密造してた干し肉がなければ餓死するところだぜ。ほんと、ヴァルガロフにいいところは少ねえんだが、まあ、管理のテキトーさは素晴らしいと一人の囚人が口にしていたのを思い出す。

 たしかにこのデカい監獄のなかで、オレたち囚人にはそれなりの『自由』があった。逃げたり暴れたりしなければ、何をしていても看守どもは文句を言わないのだ。どこで寝てもいいし、カードによる賭博に明け暮れるのもありだ。賭ける金はないんだがな。

 ……そもそも『ここから逃げる』という考えがバカバカしくもある。なにせ、外には自然という名の地獄がどこまでも広がっているのだから。ここから脱走を成功させた者はいない。ここが出来てもう400年になるらしいが、誰ひとりとしていないのだ。

 そのうえ、オレたち囚人の首には『魔銀の首かせ』と呼ばれる邪悪な錬金術の産物がくくりつけられてもいる。看守たちの呪文ひとつでこの忌々しい魔銀はうごめき、オレたちの首を締めつけて、あっさりと首の骨をへし折ってしまうというわけだ。

 逃げることも、抵抗することも、囚人には出来るわけがない。

 だから、ここの囚人はそれなりに従順だし、看守は囚人たちの管理を必死に行うこともねえのさ。そのおかげでヴァルガロフは監獄としては『自由』なほうらしいぞ?……まあ、ヴァルガロフの真の問題点は、作業があまりにもキツく、そのせいで誰も長生き出来ないということのほうだけどよ。

 ―――オレはその地獄みたいなヴァルガロフにある数少ない楽しみを満喫していた。デカい図体を床に転がしている。目の前には暖炉があった。とても暖かい。ここは『特等席』だ。冬に温かい場所に寝転がる。最高だね。

 ……文句のあるヤツはこのソルさまにケンカを売り、勝利しなければならない。かつてオレがそうしたように『玉座』というものは、力で奪い取らねばならないのさ。

 暖炉の火に温められながら、オレの腹が「ぐるる」とみじめな音で鳴きやがる。

 そう、考えないようにしていたけど、じつは腹が空いている。クロードの兄貴はたしかにトウモロコシのスープを分けてくれた。だが、それがあの労働に見合うものだったとはとても言えない。

 ……17才のオレは成長期だ。たとえ、この監獄で誰よりもデカい肉体を誇ろうとも、まだまだ体はより大きくなろうとして栄養を求めていやがった。

「……ソルくん」

 そんなオレの背中に誰かが声をかけた。気配が近づいてきていたから、すでに準備はしていた。いつでも動けるようにな。オレは獣のような俊敏さで床から飛び起きると、懐に隠してあるナイフを逆手で抜いた。『敵』を金色の瞳でにらみつける。

「よせ、ソルくん。私だよ、私」

「……なんだ。ラントのオッサンかよ」

 目の前にいたのはラントのオッサンだ。風邪気味の顔色の悪いオッサンである。

「さすが、と言えばいいのかな。驚くほどのスピードだよ、その巨体でそこまで動ける者は王都の騎士団にだっていないだろうね」

「ここは悪名高いヴァルガロフ監獄だ。寝込みを襲ってくるバカもいるんでね……そういうオッサンもさすがってヤツかな?……オレににらまれてもスープをこぼさねえ」

 オッサンの手にはスープが入った皿がある。スープは微動だに揺れていない。

「私は慣れているのさ。君ほど監獄暮らしは長くはないが、剣士として生きてきた時間は40年にも及ぶ。今さら刃物を向けられたからといって、そう驚けないだけだよ」

「ふーん。そういうもんかい」

「熟練とはそういうものさ。それで、ソルくん……君に感謝のしるしをあげたい」

 そう言ってオッサンはスープを差し出してくる。それは、とても魅力的だ。だが……オレは、欲望を振り払うために首をブンブンと横に振った。

「い、いいや、ダメだぜ、オッサン!」

「……どうしてだい?君はまだ成長期だ、体も大きい。ここの食事では足らんだろう?」

「……馬鹿言え。アンタ、風邪気味だろうが?……栄養取らんでどうするんだ?」

「……フフ。君は、ほんとうにこの場所に似合わない子だよ」

「はあ?生まれてこの方、ヴァルガロフ育ちのオレに、何を言っているんだ?」

「……ふむ。本当に、神さまというものは残酷なことをするものだ」

「同情とかはいらねえぞ?……ヒトのことを気にする前に、アンタは自分のことでも考えておくんだな。他のバカどもに盗られる前に、そのスープもさっさと飲んどけよ!」

「……そうか。うむ、君がそう言うのなら、そうするとしよう。では、おやすみ、ソルくん。君が……いつか幸福を手にする日が来るように、ただそれだけは祈らせてもらうよ」

「……好きにしやがれ」

 ―――『幸福』?……オレにはよく理解の出来ない単語だった。色んなヤツが、色んな言葉でそれぞれの幸福ってものを語りやがる。こんな地獄にいるクソ囚人どもでさえ、色とりどりの幸福を語ったものさ。それについては、なぜか腹が立つときがあった。

「……そんなもん、ここにはねえだろうがよ……ッ!」

 オレは、ここで生まれて……それから、きっと、ここで死んでいく。オレは自分の首元に指をそえた。そこには寒さに冷えた魔銀の装置がある。『魔銀の首かせ』だ。呪文一つでオレを殺す、残酷な装置が。こんなものにオレの運命は縛られている。

 オレの金色の怒りに輝く瞳が格子窓をにらむ。吹雪のゴウゴウという荒い音がそこからは聞こえてくる。まったく、忌々しいぜ。もしも、この『魔銀の首かせ』さえ外せたら、もしも、あの生きている者を氷に変える吹雪が少しでも弱まれば……。

「……出て行ってやるぜ、こんなバカな場所をよッッ!!」

 ……オレは、どうも冷静ではないようだ。

 まずい兆候だぜ。このままじゃ、今夜もクロードの兄貴にチェスでやられちまうな。オレは暖炉の前にあぐらをかいて座り、空腹に耐えながらも兄貴との戦いに備えてプランを練り直す。攻めるか、守るか。いや、どういう順番で手駒を犠牲にしていくか……オレはナイトを偏愛し過ぎているそうだ。

 犠牲を割り切る思考をしなければ、大いなる勝利は手に入らないと昨夜も言われた。だが、こだわりを棄てて勝ったところで?オレは誇らしい気持ちにひたれるのかねえ。勝利にはさ、美学ってもんがいらないかい、兄貴よ?

 あんたも美学に縛られて、政治犯ってヤツにされちまったんじゃないのか?

「―――……そういや、兄貴のやつ……遅いな」

 今夜は兄貴に『客』が来ているらしい。兄貴の家族なのだろうか?……こんな夜更けにそれはないか。それなら、王都の警察とか騎士団とかだろうか?クロードの兄貴も、ああ見えて立派な犯罪者だからな。



 ……オレはいつの間にか眠ってしまっていたようだ。首がコクリと下に振られ、その衝撃で意識は覚醒する。暖炉の火が消えかかっていた。オレはあくびをしながら、暖炉のなかに薪を投げ入れた。いや―――正確には、投げ入れようとした瞬間、目の前の壁ごと暖炉が吹き飛びやがった。

 すさまじい爆風にあおられてオレの体がどこかへ飛んだ。感覚で分かる。やべえな、宙に飛ばされた。着地は……痛そうだぜ。

 悪い予想はやはり当たった。オレはどこかも分からない場所に背中から叩き落とされる。背中を丸めて受け身を取ったおかげだろうか、背骨が折れたりすることはなかったが、まともに呼吸が出来ないほどの痛みだ。

 だが、痛みに悶えている場合じゃねえ。状況を確かめねえとな。そう考えたオレは痛む背中を無理に動かして床から立ち上がる。立ち上がったオレの目の前にあったのは、変わり果てたヴァルガロフ監獄の獄舎だった。

 すべてが、赤に染まっていた。

 燃えていやがる。

 オレが生まれ育った、あの忌々しいヴァルガロフが炎に包まれて、ほとんどの建物が崩れ去っていた。

 瓦礫の山、そう表現するのが妥当な光景がそこには広がっている―――。

 これは、夢だろうか?……だが、全身の痛みと、監獄を焼く炎の熱量が、この光景は真実であると主張してくる。では、なぜ?どうしてこんなことが起きた?……その疑問についての答えがオレの中にあるわけがなかった。

「……うう」

 耳がヒトのうめき声をとらえた。オレはその声の主をさがすため、瓦礫をかきわけていく。崩れた煉瓦の壁を動かすと、そこにはラントのオッサンがいた。骨折でもしているのか、ずいぶん苦しそうにうめいているじゃねえかよ。

「オッサン!だいじょうぶか、すぐに出してやるぞ!」

「……だ、だめだ……逃げなさい」

「強がっている場合か!死にたくねえだろ!人間は、いつだって死にたくねえんだ!!」

 オレは煉瓦の壁を持ち上げると、どこにともなく投げ捨てた。そして、体の半分がつぶれちまったオッサンの姿を目の当たりにする。ああ、ひでえや。手足がぐにゃりと曲がっていた、明らかにどっちも骨折している。

 それに、胸と腹からは大量の出血だ……手足よりも、こっちのほうが致命的なダメージだぜ。おそらく内臓がつぶれちまっているんだろう。オレは、奥歯をギリリと噛みしめていた。経験上、判断がつく。これは、助かるようなケガじゃねえんだ。

「……くそが」

「……ふふ。他人の死を嘆くか。君は、ほんとうにこの場所に似合わんよ」

「うるせえ。ちくしょう!なんだよ、これ?一体、どうなっていやがるんだ……ッ」

「……誰かが、『呪い』をかけたのさ」

「『呪い』?」

「そう、そうでなくては、ヒトがあんなことには…………う、ぐうううッ!?」

「おい!どうした、オッサン!」

 オッサンが苦しそうにうめき、折れているはずの手足を揺らして狂ったように暴れた。オレは彼を押さえ込む。あのケガで暴れたりすれば失血死は確実だからだ。

「やめろ、動くなオッサン!肺にあばらが突き刺さるだろうが!」

「はあ、はあ!く、くそう!お、おねがいだ、そこらのレンガで、私の頭を砕くんだ!」

「ば、バカ言え!できるかよ、そんなことが!?」

「……ちがう。これは、おぞましい『呪い』なんだよ。変異が始まればどうにもならん!殺してくれ、私は、あ、あんなバケモノなんぞになりたくはあああああああああッ!?」

 オッサンが悲鳴をあげた。剣士を40年もやってきた彼が……あの冷静なラントのオッサンが気弱な男のように叫んでいた。それほど、イヤなことだったのだろう。

 『変異』が始まっていた。

 オレは、オッサンの破れた腹から、巨大なトカゲの顔が飛び出してくる光景を見てしまう。オッサンが叫んだのは、彼もオレと同じようにその光景を見ていたからだ。

 ―――自分の腹からあんなバケモノが生えているのを見ちまうなんてな。いくらラントのオッサンでも、そりゃ絶叫しちまうだろうよ。

 とてつもなく、おぞましい光景だった。ヒトの腹から、特大サイズのトカゲの頭が生えちまったんだから。いや、『生えた』なんて生やさしいものじゃなかった。トカゲはオッサンの腹を引き裂きながら、手を出し、脚を出し、胴体を揺さぶりながら抜け出してくる。そう、不気味なことに、『オッサンの体の中から這いずり出ている』ようだった。

「ぎやあああああああああああああああああああああああああっがああああッッ!!」

 口から血を吐き散らしながら、オッサンは折れた腕で必死にトカゲ野郎を押さえ込もうとした。でも、オッサンの折れた腕ではその残酷な現実を抑止することはできない。

 無慈悲な『出産』は継続する。『出産』と言ってもオッサンから出てくるトカゲ野郎はオッサンよりもずっと大きいんだ。

 これは、まともな現象じゃない。『魔術』……いや、『呪い』というもののせいなのか?……ちくしょう、なんにしたって酷すぎるぜ。腹を裂かれ内臓をすりつぶされる激痛のせいだろう、オッサンは狂ったように叫びつづけていた。

「こ、ころせええええええええ!こ、ころして、く、くださあああああいいいッ!!」

 命がけの訴えだ。気持ちは理解できなくもねえ。オレが彼と同じ状況だったら?……自ら死を望んでいたかもしれない。だが……彼の願いを叶えられる唯一の存在でるオレの手は、そのときガタガタと震えちまっていた。

 情けねえハナシだけど、死ぬより苦しい目に遭っているラントのオッサンに、オレは何一つしてやることが出来なかったのさ。

 現実についていけず、ただバカみたいに突っ立ったまま、オッサンの苦しむ姿を見下ろしているだけだった。あんな目に遭っている男には、どんな言葉をかけたらいい?……ガキのオレには難しすぎる問題だ。

 ―――たぶん、オレがそのとき取るべきだった行動は、せめて安らかな死をオッサンに与えてやることだったのだろう。でも、そのときはまだヒトを殺すことが怖かったんだ。

 オッサンはさんざん泣き叫びつづけ、やがて、無口になった。

 死んだのが分かった。でも、『あれ』がラントのオッサンなのかよ?……そう考えてしまうほど、血の気を失ったオッサンの顔は醜く歪み、白く変色していやがった。

 状況が本当にわからねえ。オッサンからリザードマンが生まれてきたらしいが……その時点でオレには意味が分からんぞ。それはつまりどういうことなんだ?オッサンはトカゲの卵を腹に植え付けられていたのか?それとも……これは、悪い夢なのか?

 どうにも悪夢じみた悲惨な光景がそこにはある……だが、体に残る痛みが、炎の熱さが、夜空で荒れ狂う雪まじりの風の音が、このおぞましい出来事がリアルであるということを思い知らせてきやがる。

 呆然とするオレの目の前で『リザードマン』は己の生誕を祝うかのように、キュイイイイイ!という甲高い声で叫びながら、その大きな体を反らして夜空を仰ぐ。そして、ヤツはオレを見た。大きな眼球がぐるりと動き、オレをじっと見つめてきやがった。

 次の瞬間、リザードマンがオレに向かって飛びかかってくる。宙に跳び上がったトカゲ野郎が右腕を振り回す。小汚い黄色をした爪が、オレのほほをかすめた。

「……ッ」

 くそ、このトカゲ野郎!オレの首を狙いやがった!……どうにか体さばきで避けることが出来たが、トカゲ野郎は調子づき、このオレを追いかけるように突進して来やがる。オレは思わず横に飛んで逃げていた。

 リザードマンのアゴが勢いよく閉じられて、ナイフみたいにするどく光る歯列がガチリという威力を感じさせる音を立てた。まるで、鉄同士がぶつかり合うような音だったし、おそらくその予想はそれほど外れてもいないだろう。

 金属とそう変わらない強度があの牙にはあるはずだ。どうあれ、あんなもので噛まれれば、死ぬ……。

 ―――『死ぬ』?

 その言葉が心のなかで重たく響いた。そう、死んでしまうのだ。このリザードマンはオレのことを殺したいらしいし、コイツの爪も牙も、人を殺す威力は十分に持っているだろう。そもそも、理由も理屈も知らないが、コイツはすでにラントのオッサンを腹の内側から引き裂いて、彼のことを殺しているじゃねえか。

「ギシャアアアアアアアアアアア!」

 リザードマンが不気味な声で咆吼する。オレを威嚇しようとしたのか?大きく口を開いて、ギラつく牙の列を見せつけてきた。オレはそこに死を連想していく。

 記憶のなかにあるたくさんの死が次々と脳裏に浮かんだ。病気で死んだヤツ、栄養失調でやせ細って死んだヤツ、大木に押しつぶされたヤツ、自分で首を吊ったヤツ、オオカミに食い散らかされていたヤツ……そして、ラントのオッサン。

 いろいろな死を思い出し、オレはいつものように願っていた。

「―――……死にたく、ねえぞッ!!」

 迫り来るリザードマンのアゴ、死を連想させるそれを目掛けて、オレは左のアッパーを叩き込んでいた。斧を大木に叩き込むときの力で、あるいは大ナマズを川底から引きずり上げるときのような力で、オレはトカゲ野郎をぶん殴っていた。

「ぎゅひいいッ!?」

 ……殴られるなんて考えてもいなかったのか、強烈な打撃を加えられたヤツの動きが止まる。オレはその機会を逃すほどトロくない。

 懐から愛用のナイフを取り出すと、脳震とうに苦しむリザードマンの首根っこにそいつを突き立てた。突き刺し、ひねり、傷口を広げてやる!牙のようにえぐって、仕留めにかかるのさ!……ヤツが暴れてその痛みから逃げようとするが、オレは左の手をトカゲの後頭部に回すと、そのまま地面目掛けて引き倒していた。

 変則的な首投げだ。なまじっか人間と似たつくりをしているので、コイツには体術が有効らしい。首を裂かれ地面に叩きつけられたトカゲは苦しそうに体をひくつかせていた。

 そのみじめな様を哀れになど思わないし、こいつにくれる慈悲なんて持ち合わせているわけがない。だが、オレは足でトカゲの頭を踏みつけて頭の骨を砕いてやった。トカゲは死んだ。もう、苦しくも痛くもないだろう。

 ラントのオッサンにも、これをしてやればよかったのだろうか?……よく分からねえな。きっと、誰にもかんたんに答えが出せるような疑問ではないだろうよ。

「……おぞましいハナシだぜ。ヴァルガロフの囚人どもが、バケモンになるなんてよ」

 そう。囚人『ども』だ。

 瓦礫の山と化した監獄のあちこちで、トカゲ野郎が生まれていた。オッサンの口走ったことが事実なら、これは『呪い』。囚人たちにかけられた何かしらの魔術のせいで、囚人がリザードマンにされているようだ。

 瓦礫をかきわけ、不気味なトカゲ野郎どもが何匹も這い出してくる。こいつらの発生源は、おそらくラントのオッサンと同様に、囚人の『腹』なのか?

 ……どいつもこいつも、ロクでもねえヤツらばかりだったが、こんな目に遭わされれなくてもいいはずだぜ。

 血に飢えたリザードマンどもが一斉に咆吼する。

 クソが。こいつら共食いでもすればいいのによ、どうやら人間の血肉が好物らしい。オレ目掛けてリザードマンの群れが殺到してくる。さっきの合唱は、そのための合図かよ!

 オレは走った。逃げたわけじゃねえ、逆に攻撃を仕掛けていたんだよ。跳び蹴りで一体のリザードマンの首をへし折る。こいつら、体こそそれなりに大きいが、力はオレのほうがはるかに強い。それに―――。

「―――遅えぜ、トカゲが!」

 トカゲの爪をかいくぐり、オレはそいつの背後を奪う。左手でアゴを押し上げてやりながら、逆手にもったナイフでその首を掻き切ってやる。死に行くそいつの体を無理矢理起こし、オレ目掛けて飛びかかってきていたリザードマンの『盾』にする。リザードマンの爪がそいつの腹に突き刺さった。

「ククク!さすがに元がヴァルガロフの囚人じゃねえか、トカゲぇ!頭、悪ぃんだよ!」

 オレはからまったトカゲどもに蹴りを入れて地面に押し倒した。生きている方が、ぐるる、と機嫌悪そうに起き上がってくるが、油断しすぎていた。オレの両手がそいつのアゴ先を鷲づかみにする。次の瞬間、オレはトカゲの首を180度近くひねって殺した。

 まだまだ、リザードマンが襲いかかってくる。

 さすがに全ての攻撃をかわせたわけじゃいないが、それでも大半の攻撃を避けたし致命傷を負うことは無かった。オレはリザードマンどもを次々と屠っていく。ナイフで、拳で、関節技で……ときにはそこらに転がる瓦礫を叩きつけることで。

 オレは必死になってヤツらを殺しつづけた。そうしなければ生き残れないから?……たしかにそれもあったが、どちらかと言えば自分のなかにある不安を打ち消したくて必要以上に暴れていたところもある。

 そう、オレはとにかく不安だったのさ。

 コイツらがヴァルガロフの囚人どもの成れの果てだとしたら……『オレ』はどうなる?オレだって、ヴァルガロフの囚人なんだぞ。

 オレも、こんな不気味なトカゲに腹を食い破られるのかよ?……そのことを考えると、とてつもないストレスを感じる。その不安を打ち消したかったのさ、暴れまくることでな。

 ―――何十分が過ぎたのだろうか?

 時間の感覚などすっかり麻痺している。オレは疲れ切っていた。トカゲどもは弱いが、30匹以上と格闘を連続して行うと、さすがにこっちの体力も限界を迎える。

 オレは瓦礫の山に腰掛けて、乱れた息を整えにかかった。

 ヴァルガロフを焼く炎、その火の粉が舞う夜空を見上げながら、オレは自分の腹に手を当てる。トカゲがうごめく―――ような感触はない。

 オレはトカゲにはならないのだろうか?

 オレとトカゲになった連中との違いは何だろう?毒でも食わされたか?それとも、年齢だろうか?……オッサンは風邪気味だったが、あれは風邪じゃなくてオレの知らない『トカゲ病』だったのか?……それなら、オレはトカゲにならねえで済むのだろうか?

「…………クロードの兄貴」

 クロードの兄貴なら知恵が利く。彼なら、この状況に潜む真実をオレに教えてくれるかもしれない。ああ、兄貴のヤツはどこにいるんだろうか?……探しに行かなくちゃな、もう少し休んだ後で。オレは……自分が殺したトカゲどもを見る。

「……まさか、あのトカゲどもの中にいねぇだろうな、クロードの兄貴……」

 分からなかった。

 その悪い予感を確かめる術はないように思える。いや、わざわざ希望を捨てることはねえさ。もう十分に最悪の状況下にあるんだ。兄貴が生きていると信じて行動したほうがいい、あきらめたって気持ちが暗くなるだけで―――。

『GHAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHHッッ!!』

 ―――オレが前向きになろうと考えていた矢先のことだ。

 あきらかに、これまでのトカゲどもとは桁違いの力強さを帯びた咆吼が鼓膜を刺激した。瓦礫の山が突如として爆炎と化す。猛烈な勢いの火柱が上がり、その火柱が収まると、そこには一匹の巨大なドラゴンがいた。

 二つの脚で地面に立ち、その長く太い尻尾をゆらゆらと空中で動かしてやがる。

 巨大な爪を持つ長い腕だ。

 コイツは別格だ。人間の大きさをしていたリザードマンとは明らかにサイズってものが違いやがるな。アレは、頭の先から尻尾の先までで7メートルは軽くあるんじゃねえか?

 ……殺意にギラつく赤い眼、黒金色のうろこ。飢えているのだろうか、ダラダラと大量のよだれを垂らす口には、剣のように鋭く長い銀色の牙が生えていやがった。

 そいつがオレを見た。

 空腹らしき獣ににらまれたんだ。もちろんイヤな予感しかしない。ヤツは口を開き、オレはオレンジ色の閃光を視認する。

 予測していたわけじゃない、たんに恐怖に駆られてのことだ。オレはとにかく全力でその場から離れようとしていたのさ。走りはじめた瞬間、ドラゴンが放った『火球』が一瞬前までオレが休んでいた瓦礫の山に命中し、そいつは爆発した。

「うおおッ!?」

 とんでもない爆風じゃねえか!クマみたいに巨大なこのオレの体が、まるで枯れ葉のように軽々しく吹き飛ばされてしまう。

 オレは理解した。さっき、暖炉ごと壁を吹き飛ばしたのはあの黒いドラゴンの攻撃だった。いや、それだけじゃないだろう。ヴァルガロフ監獄を破壊し尽くしたのは、非力なトカゲどもじゃない。まちがいなく、あの黒いヤツがやりやがったんだ!

 オレの体が地面に触れる。だが、今度は叩きつけられたわけじゃねえ。前転することで受け身を取ることに成功していた。だから、ダメージはほとんどない。その上、くるりと身を回転させたことで二本の足でしっかりと立ち上がった姿勢になっている。

「……これぐらいの『曲芸』はやれねえと、テメーとは勝負にならんだろうしな」

 冷や汗をかきつつ、オレは全力でそれを回避するために身を屈めていた。黒いドラゴンのスピードは驚異的なものだった。ヤツは火球で砲撃しておきながら、それと同時にダッシュして間合いを詰めていたのさ。銀色に輝く爪が、オレの頭上を空振りしていく。

 ドラゴンの赤い瞳がこちらを睨みつけていた。『怒り』。その瞳に対してオレが抱いた感想がそれだ。ヤツは怒っているようだ。

 必殺の攻撃を立てつづけに回避されたことで、プライドってものが傷ついたのかもしれない。ヤツは大きな尻尾をぶんと振る。尾でオレを打撃するためではなく、すばやく姿勢を立て直すための動作だった。

 ヤツが再びオレに接近してくる。正直、走って逃げたいところだが、あっちのほうがスピードがはるかに上だ。背中を見せたら、次の瞬間には爪だか牙によって体が引き裂かれてしまうだろう。逃げられない。困ったことに、戦うしかねえんだよな!

『GHAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHッッ!!』

 竜の咆吼を聞く。鼓膜が破裂しそうなほどに荒々しいその音ともに、銀色の歯列がオレを噛みつぶすためにやって来る!

 猛牛の突進が可愛く見えてしまうほどの迫力だ。だが、覚悟を決めた男の動きだってバカにするもんじゃねえ。

 ドラゴンの突進に対して、オレは素手だった。そもそも、やれることなんて二つしかねえんだよ。ヤツの巨体をかいくぐるのか、それとも跳び越えるのか……二択だ。

 オレは後者を選んでいた。尾を高くし頭を低くした体勢で走ってくるドラゴンに対して跳躍する。ジャンプで高さを稼ぎながら、両の手のひらでヤツの鼻先を押し当てた。馬の背を跳び越えるような動作だな。クロードの兄貴は『跳び箱』とか言っていた気もする。

 とにかく、オレはその動きを試してみた。

 もちろん、そんな動きをすれば勢いに巻き込まれて、オレの体なんか吹っ飛ばされて宙をくるくると舞う。でも、フロント・ヘビー/前傾重心の巨獣もまたバランスを崩していた。ヤツはアゴ先から地面にとんでもない勢いで衝突しやがったのさ。

 このクラッシュは痛み分け狙い。そして、仕掛け人であるオレのほうが、地面に叩きつけられる『覚悟』を最初からしていただけ有利でもある―――。

 オレは笑いながら地面に叩きつけられる。かなり痛いが、構うものか。骨が折れてなきゃオレの勝ち。手足が折れてたら、まあ、食われるだけだぜ。オレは笑顔を保ったまま素早く地面から飛び起きた。幸いなことに手足の骨は無事なようだ。もちろん、体中が死ぬほど痛いんだけどよ、そんな場合じゃねえだろ!!

 ドラゴンに向かう。大地とキスして昏倒しているヤツの首にまたがり、オレはヤツの赤い右眼を目掛けてナイフを突き立ててやった。ヤツが痛みで覚醒し、咆吼する。んなもん無視だ。オレはとにかくナイフを動かす。

 眼球をえぐった後は、ヤツの側頭部から頭頂部へと連続してナイフを刺していく。突き刺しては刃を踊らせて傷口を広げる、その基本の動作を一心不乱に繰り返す。ドラゴンが首を動かし、オレを振り落とそうと暴れるが両脚と左手でしがみついてやりすごす。ハハハ!命がけのロデオだ。

「悪いが、仕留めさせてもらうぜ!オレは、死にたくねえんでなァッ!!」

 ざくり!ドラゴンの眉間目掛けてナイフが深く突き刺さる。このまま深い場所をえぐって仕留めるつもりだったが、どうにもナイフが動かねえ。このドラゴン、眉間の筋肉固めてナイフの刃を掴みがったのかッ!

「テメー、ずいぶんと知恵が利くじゃねえかよ!」

 ドラゴンがオレを首に乗せたまま立ち上がる。ヤツはその大きな脚を動かして恐ろしいスピードで走りはじめた。オレを振り落とすつもりか……?ちがう、あの瓦礫の山にオレごと突っ込む気かよ!

 ……ドラゴンから飛び降りる時間もないまま、オレとドラゴンは瓦礫に突っ込んでいた。とんでもない衝撃が加わり、オレの体はまた空に投げ出されてしまう。

 天地が逆さまになる。

 めまぐるしい勢いで夜空と、燃える地上の光景が入れ替わっていく。なんて心細い浮遊感だろう。そのとき、オレの体は完全に空へ囚われていた。

 地上のあらゆるものとのつながりが立たれたせいか、手足を動かそうという意識すらも起きない。ただ、手脚は緊張して強ばるだけ。腕や脚を伸ばしたところで、それらが到着する場所など存在しないような気がする。だから、縮こまるしか出来ないのさ。まるで人形にでもされてしまったような無力さを覚える。ああ、すさまじく不安だぜ……。

 ―――どしゃああああッ!

 顔面から地面に叩きつけられる。

 クソ痛えッッ!!吐き気がするぐらい、腹も痛え!!

 ……でも、笑え!!

 戦うために、笑うんだ!!

 オレは奥歯を割れんばかりに噛みしめて、地面から立ち上がる。ドラゴンはすぐ近くにいた。さすがに、ヤツにもダメージがある。つけ込む隙なんてものがあるとすれば、そこだけだろう。オレはドラゴンの『右側』に向かって走った。ヤツの右目をナイフで潰した。つまり、ヤツからすればそちら側は死角となる。

 オレはドラゴンの右手に回り込むと、瓦礫に紛れ込むようにして腹ばいになった。ヤツが衝突のダメージから回復し、ぐるる、と唸りながら上体をあげる。必死に息を潜めた。集中しすぎているせいか、それとも緊張のせいなのか、オレは自分の心拍音を聞いた。

 ドクンドクンと脈打つ心臓の音に、ヤツが気がつくんじゃねえかと不安になったが、その音はオレにだけ大きく聞こえていたらしい。ドラゴンは首を右に左に動かしている。オレを探しているのだろうが……どうやら見つけられないようだ。まだ片目に慣れちゃいないだろうからな。

『GHAAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHッッ!!』

 怒りを表現するかのように竜は咆吼する。オレは激しい空気の振動を浴びながらも冷静さを手に入れる。ああ、心音が静かになってきている。今のオレは、暗殺者みたいにクールに動くだろうな。

 ドラゴンがオレを探して歩き始める。それでもオレは動かない。すぐ近くを歩かれたせいで地面が揺れていやがった。でも、死体みたいにノーリアクションだ。

 ……ドラゴンがオレのそばを通り過ぎていく。

 オレは腹ばいのまま春の蛇のように地面を這いずった。探さなければならない。隠れる場所を?いや、そうじゃない。そんなものはない。監獄の建物は破壊されているんだ、それに『外』は開けて視界のいい場所だ。監獄らしく、逃亡者は見つかりやすいという設計さ。逃げるのは愚策ってもんだよ。

 探し求めたのは『武器』だ。

 看守どもの使う槍か、剣が欲しい。とくに、槍だ。可能ならあの巨獣とゼロ距離での肉弾戦はやりたくねえんだよ、オレだって。さっきはナイフしか無いからムチャしただけだ。間合いをあけて戦いたいな。だが、弓もマズい。弓の距離ならヤツは火球を吐いてくるかもしれん。だから、そう……やはり、槍がベスト……。

 腹ばいで動くオレは『それ』を見つけた。手を思い切り伸ばせば届きそうな場所に『手斧』が落ちていやがった。

 武器……というか、あれは工具だな。切り出した木を割って薪に変えるための分厚い鉄の刃。それはあのナイフよりはマシだが、45センチのリーチはオレの理想としている長さからすれば、ずいぶんと短いものだ。

 ……さーて、他にねえか?

 オレがよりよい道具を求めて首をわずかに動かした時だ。ドラゴンの足音が唐突に止まった。オレは体を石のように固めるが……でも、手遅れか。ドラゴンの足音がこっちに近づいてくる。舌打ちしながらオレは地面から飛び起きた。走る。走りながら、右手を『手斧』に伸ばし、その古びた鉄の塊を拾い上げた。

 横目でドラゴンを見た。

 速い!もう、すぐ近くに来ている。あいつの攻撃の間合いだ!今度は牙じゃない。尻尾による打撃でもない。高く振り上げた左腕の先でふくらむ大きな『拳』。あれでオレをブン殴るつもりかよ!……なにより、逃げられる間合いじゃねえぞ!!

「くそがあああああああああああああああああッ!!」

 ―――物心ついたときから常々感じてきたが、ヒトの運命をあやつる神さまってヤツは、やけにオレのことを嫌っているんじゃねえかね?

 監獄生まれの監獄育ち、周りは凶悪犯罪者だらけだ。

 クマやらオオカミに殺されかけたこともあるし、今はなぜかドラゴンともケンカ中だぞ。神さまのクソ野郎は、このオレに死んで欲しいのかね?……そうなのかもな!

「だから、オレは……ッ!!」

 ……逃げやしない。そういうのは嫌いだ。両脚に力を込める。両腕にも、背中にも。そして、オレを殺そうとしているモノに、正面から立ち向かってやるのさ!!

 ザグシャアアアアアアアアアアアアアッッ!!

 肉が裂ける音だ。

 オレは、その音を浴びながら笑顔になる。獣のように笑ってやれ、この一瞬の勝利を。

「……ククク、ざまあねえなァ!!……神さまよ、今日もオレはアンタの期待を裏切ってやったぜ!?」

 オレは受け止めていた。もちろん、勢いでずいぶん後ろに押し込まれたが、それでも止めてみせた。竜が放った突進からの左打ち下ろし……オレ目掛けて落ちてきた拳に向けて、斧の刃を思い切りぶつけることで、ヤツのパンチを受け止めてやったのさ。

 斧の刃が肉を裂き、骨をカチ割る。一拍の間が過ぎた後でドラゴンがオレから飛び退いた。そして、左拳にひくつかせながら叫びをあげた。拳一つが砕けたわけだからな、まあ、そりゃ痛えわな。だが……。

「……気にくわねえな」

 腹が立つぜ。痛くて泣きわめく。『それ』をお前がすることがな。痛えのはこっちも同じなんだよ。トカゲの群れと戦ったあげく、ドラゴンと肉弾戦だァ?……体中血まみれで、傷だらけで、骨にヒビでも入ってるかもしれん。

 オレのほうが、お前よりもよっぽど叫びてえんだよ!……でもな、叫べねえ。オレは奥歯を噛みしめて『笑顔』を作っている。なんでか?そうでもして我慢しねえと、こんな勝ち目がなさ過ぎるアホな戦いなんてやっていられねぇからだ!!

 こっちには痛がる余裕なんてねえんだよ。でもな、だからこそ、ムカつくじゃねえか。お前が戦いの最中にでも痛くて叫ぶのは、余裕があるからなんだ。お前は考えている。自分がオレなんかよりよっぽど強いとな。まあ、たしかに強いんだろうよ。ドラゴンとは生来の強者だ。だが、お前は自分の相手を誰だと思っている?

「―――ソル・ヴァルガロフさまを、舐めてんじぇねえええええッッ!!」

 オレは拳の激痛にうめくドラゴンに迫る。ドラゴンがそれに気がつき、尻尾を回転させてきた。だが、間合いがおかしい。片目を失い遠近感が狂っているのかもな。竜の尾がわずかに身を屈めただけのオレの頭上を通り過ぎていく。こいつは絶好のチャンスだ。

 オレはそのままドラゴンの側面に回り込み、左手の指を引っかけるようにしてヤツの丸太じみたサイズのアキレス腱をつかんだ。右足で地面を突いて、ブレーキをかけて踏ん張り姿勢をつくる。ヤツが体勢を整えるよりも先に、オレの思惑に気がつくよりも先に、行動する!手斧を勢いよく竜のアキレス腱に叩き込んでやったのさ!

 ドガン!

 もはやそれは爆発音に近かった。それほど竜の腱とは頑強なものなのだろう。切られて弾けたヤツの後ろ足の腱が、うるせえ音を立てて断裂する。痛み、そして運動機能の消失だ。巨重を支えつづけてきた脚の片方に、致命的な故障が生まれた。竜がバランスを崩して地面に片膝を突く。オレはその好機に飢えた野良犬みたいに食らいついた。

 牙を剥き、竜の巨体に取りつくと、手当たり次第に手斧を叩き込んだ。何度も、何度も!ドラゴンの脇腹に刃が食い込み、肋骨に亀裂を入れていく。ヤツの血肉が弾け、オレの上半身に飛び散ってきた。

 アドレナリンがあふれていくのが分かった。戦闘に酔いしれるオレの肉体はますます強靱な力を発揮し、心は狂気に染まっていく。手当たり次第に斧を叩き込み、ヤツの肋骨を何本も叩き割ってやった。

 ドラゴンが炎じゃなくて血を吐いた。手応えがある。肋骨どころかその下にある肺を切り裂けたようだ。ヤツは咳き込み血をまき散らす。外気と肺が交通したことで、ろくに空気が吸えないはず。いわゆる気胸。いいぜ、呼吸が破綻するはずだ。

 完全な劣勢に追い込まれたドラゴンが、それでも意地を見せやがった。よろつきながらも砕けた左腕でオレを打撃してくる。オレは吹っ飛ばされた。瓦礫に頭から突っ込んでしまう。クソ、何か尖ったものが頭に当たった気がする。頭からの出血が左目に入って来た。まあ、それはいいが、ヤツが立ち上がった。

 咳き込んでやがる……このチャンスにもっとキツいのを喰らわせて……ッ!?まずいぞ、あのドラゴン、口から血だけじゃなくて炎もこぼしている。

『GHAOOOOOOOOOOOOOHHHHHッッ!!』

 ドラゴンが炎のブレスを吐き出していた。それはまとまりを欠く炎の嵐となって周囲を焼き払いながら流れていく。そうか、あいつはこっちがどこにいるか把握していないんだ。あのムチャクチャなブレスで、オレを追い払おうとしているのか?……つまり、この炎の壁はドラゴンとオレを遮るカーテンになっていやがるわけだ。

 炎の津波を瓦礫の柱に隠れることで躱しながら、オレは作戦を練り上げる。ドラゴンがこっちの居場所を把握していて、今度は火球を叩き込んで来られたらマズい。でも、そうでないのなら、また奇襲を仕掛けるチャンスさ。この闘いで唯一こちらにあるアドバンテージ/有利は、オレは身を隠せるってこと。

 そして。こっちは両目が健在ってことだ。見つけたぜ。槍だ。オレが張り付いた壁、頭を横に回すと、そこには年代物の手槍が飾りつけられている。そうか。この壁、看守の詰め所だったのかよ。まあ、これって観賞用のモンだろうが、金属製で尖って投げられるんなら文句はねえ。

 オレは手斧の柄を口にくわえる。鉄さびが舌に溶けて、しびれるような渋みを味わうことになった。まずいが気にしている場合じゃない。オレはクロスする形に飾り付けられていた手槍を二本とも回収する。

 ……プランは出来た。さーて、今は気配を消せ。考えるな、呼吸もするな。

 ドラゴンが地面を揺らす。片脚の機能が破綻したドラゴンの動きは緩慢だ。脚を引きずるようにしての方向転換。そして、歩行……あいつ、こっちを見失ったな。ドラゴンが脅すように叫んだ。これにビビって動くのを狙っているわけか。それなら、乗ってやろうじゃないか。

 オレは手槍のひとつを明後日のほうに向けて投げていた。それは二十数メートルほど飛翔したあとで、向こうの瓦礫の山にぶつかって甲高い音を立てた。竜が反応した。ヤツが素早く歩きその瓦礫に近づいて、オレを見つけられないと、その瓦礫の山に向かって炎を浴びせやがった。

 オレは物陰からその動きを観察する。いいね。炎を吐くときは腕を持ち上げてやがる。肩甲骨とそれにくっつく筋肉の塊が、上にスライドしているのが分かった。どういうことかって?……狙えるんだよ。今このとき、この角度ならば。肩甲骨と筋肉の壁が薄くなった部分に槍を突き刺せれば……心臓に届くって話さ。

 もうオレは走り始めていた。三歩目の頃にはヤツはオレの気配に感づいていたかもしれない。まあ、いいすでに手槍は投げ込んでいる。ドラゴンの火吹きが止まる。だが、肩甲骨はまだ上がったままだ。槍の尖端が黒い鱗を突き破り、心臓目掛けてそのまま深く刺さっていた。

 ドラゴンが悲鳴と血を吐いた。いいぜ。心臓までは達しなかったかもしれないが、深手には違いない。左右の肺を斧と槍で潰されたんだ。ドラゴンとはいえ呼吸が苦しいのさ。ヤツめ頭を空に向けて酸素を吸おうとしている?……いや、炎を溜めているのか。クソ、しぶといじゃねえかよ。

 だが、こっちも畳みかけるだけさ。ドラゴンがオレの方を向く。にらみつけているのか?いいぜ、こっちはヤケクソの笑みで答えてやろう!口にくわえていた手斧を持ち直すと、ヤツに向かって走る。さて、炎と手斧と、どっちが速いかね?早撃ち勝負と行こうじゃないか!

 オレはもうこの一撃に全力を捧げるしか手がねえ。体中が痛いし疲労困憊。おそらく向こうも瀕死じゃあるんだよ。さて、どっちが死ぬか、生きるか、勝負だ!ヤツが大きく口を開くのと同時に、オレはダッシュの勢いを乗せるようにして手斧を思い切り投げつけていた!

 ごぎり!

 鈍い音がする。手斧はドラゴンののど元に命中していた。その辺りにある分厚く固い鱗を貫き、その刃は首の肉に包まれていた頸動脈を切り裂いていたのさ。叫びは上がらなかった。叫ぶための場所が破壊されたせいだろう。

 叫びの代わりに、竜は多量の血を吐いた。口からと、切り裂かれたノド元からも。

 炎みたいな真紅が夜空を埋め尽くす―――いや、それには炎も混じっていやがる。焦げた鉄の臭いが、雪を溶かしながら空を漂い、赤々と彩っていた。まるで、それは炎の雪のようだった。幻想的で血なまぐさく、うつくしいが、恐ろしく不気味。

 漆黒のドラゴンの最期だった。最強のモンスターとはいえ、あれほど血を失えば死ぬしかない。炎と全ての血を吐き終わった竜は、ゆっくりと地面にその巨体を沈めてくる。地響きがして、オレの眼前にヤツの巨大な頭が横たわった。

「……ナイフ、突き刺さったままだったのかよ」

 ヤツの眉間にはオレのナイフが刺さったままだ。オレはそのナイフに手を伸ばして、それをやさしく引き抜いてやる。これはリスペクトや同情から来た行動ではない。たんに、このナイフが気に入っているからで―――。

 ぎょろり。

 ドラゴンの瞳が動いた。死んだふりだと!?……ちくしょう!なんていう間抜けだ!巨獣の死を確かめもせず、近づいてしまった!……オレが自分の浅はかさを呪ったそのとき、『祝福』は授けられた。

 カチリ。

 オレの首が聞き慣れない音を立てた。そして、次の瞬間には『魔銀の首かせ』がオレの足下に落ちていた。ヴァルガロフの囚人たちの首に必ずつけられてきた、あの忌々しい首絞め装置が解除されていたのだ。オレはこのことでさらに混乱する。

「な、なんで?なんで、こいつが外れやがったんだ?」

 唐突な事態にうろたえるオレの目の前で、竜は再び瞳を閉じる。その閉じられていく瞳が、今ではなぜか赤くないことにオレはそのとき気づいた。

 あの瞳の色を知っている。この土地では珍しい、やさしいブラウンだから。

 ああ、あの色には見覚えがあるじゃねえか。そうさ、まだオレが彼よりずっと背が低かった頃、彼は今この手のなかにあるナイフをくれたんだよ。

 ……オレは膝からその場に崩れ落ちていた。

 両手で抱え込むように、クロードの兄貴がくれたナイフを握りしめる。柄にからまった指が震えていた。涙があふれて、のどの奥からゼエゼエという死にかけのじいさんみたいな吐息がこぼれてくる。ボロボロと、熱い涙がほほを伝い、冷たく凍り付いたヴァルガロフの大地に落ちていった。

「……ご、ごめん…………ごめんよう、あにきぃ……ごめんよお……ッ」

 オレは、かつてクロードの兄貴であったドラゴンの頭に触れたまま夜通し泣いたんだ。



 ―――朝が来て、少しだけ眠った。それから昼前に起きて、崩れた倉庫の下から食料を回収する。火を起こした。瓦礫だらけだから薪には困らなかった。その火で調理した。歪んだ鍋で豆を煮て、ベーコンを直火で炙っただけだが、味より量がうれしい。孤独な食事だ。ライバルはいない。王さまだな、オレは。

 この惨状におけるただ一つのありがたいことは、食料はすべてこのオレが独占できるということだろう。飢えるのが当たり前のヴァルガロフでは、野生の獣や大ナマズでも捕まえたときにしか手にできない『満腹』が、こんな簡単に手に入るんだぜ?

 ああ。こんな豪勢なランチは久しぶりじゃないか。

 ……なのに。

 まったく笑えなかった。

 兄貴や囚人たち……いや、もしかしたら看守でさえもリザードマンになっていたかもしれねえな。とにかく、ヴァルガロフ監獄の住人たちで造られた怪物どもの返り血で汚れたオレがそこにいた。

 オレだけがいたんだよ。

 たき火の前にいるというのに、なんだか胸の奥が冷たくて仕方がねえや。こいつが、『罪悪感』というものか?ああ……きっと、そうなのだろう。なにせ、クロードの兄貴を殺したようなもんだからなァ、このオレがよぉ。オレが、あのクロードの兄貴をだぜ?……ほんと、笑えねえよな、こんなことは……。

 よく晴れた空だ。

 だが、寒い。どこまでも、冷えるぜ……。

 ―――この天候はオレにとって危険だ。ヴァルガロフにいつもより数週間は早く本格的な冬が訪れようとしている。

 今年はかなりの厳冬になるだろう。そして、その寒さを防いでくれるはずの獄舎はもう存在しない。この地に留まれば、確実に死ぬ。いまだ瓦礫の下でくすぶっている火が完全に消えてしまえば、モンスターよりも怖いオオカミの群れが食料や死体のにおいを嗅ぎつけて夜襲をしかけてもくるだろう。オレがすべきことは、ここに留まることじゃない。

 ―――『呪い』。

 ラントのオッサンはそう言った。オッサンが間違っているという可能性も否定しきれないが、たしかにそんなものでもなければヒトがモンスターになど変わりはしないだろう。では、この事態は人為的なものなのか?……そうだとすれば……『誰』が?

「…………クロードの兄貴に『客』が来ていたな」

 冬前のヴァルガロフに立ち寄る人間はそう多くない。看守の交替とか僧侶……他には捜査官ぐらいのものだろう。いや、クロードの兄貴の『家族』もだな。しかし、兄貴の家族が彼を呪うだろうか?

 ……いや、オレだってクロードの兄貴を殺したんだ。可能性はある。

 ……かまわないさ。

 『誰』であれ、オレのすべきことは一つ。

「そいつを見つけ出して……殺す」

 復讐しなければなるまい。落とし前ってやつはつけさせてもらうぜ。それに、どんな『呪い』だったのかも解明しなければならん。もしも、その『呪い』がオレにかかったままだとすれば、オレがいつトカゲや竜になっちまうか分かったもんじゃない。

「……オレ、死にたくねえんだ。だからよう、クロードの兄貴……オレは、行くぞ」



 その日の夕方、オレは兄貴たちを火葬にした。できるだけ死体を集めて、オリーブ油をかけて燃やしてやったのさ。これで動物どもに食い散らかされることもないだろう。ヤツらだって乾いて焦げた骨まではしゃぶらない。

 ……埋葬までは時間的に難しいんだ、そこは勘弁してくれよ。代わりに、赤く焼けた骨にウイスキーをぶっかけてやった。冥府で酒盛りでもしやがれ、オッサンどもは酒が好きだろうよ?

 ―――食料に、服に、武器に……とにかく使えそうなものを拾い集めてソリに乗せる。オレは冬のヴァルガロフを越える覚悟を決めていた。獣とモンスターと自然が驚異となって襲いかかってくるだろう。400年間、ヴァルガロフから逃げおおせた囚人は一人もいなかった。オレはその400年という記録を破らなければならない。

 復讐のために。生きるために。

 ……翌朝、オレはロープでソリを引きずって、生まれ育ったヴァルガロフ監獄を後にする。もとより、いつかはここから脱出してやると誓っていた。だから、さみしくはない。そもそも、そこにはもう誰もいないのだから。

 一歩、また一歩。真っ白な雪にオレは自分の足跡を刻みつけていく。朝陽を背中に浴びながら、オレはひたすらに西を目指した。よくわからねえが……朝陽に照らされる背中が温かいことが嬉しくなる。なんでだろうな、ちょっとだけ笑顔になれたのさ。

 よくわからねえ。わからねえけど……なんとなくだが、クロードの兄貴やオッサンや、他の連中たちに見守られているような気になれていたのさ!オレは追いかける。やがて背中を追い越し、東の果てに沈むあの赤い太陽を。

 太陽よ、凍えた大地よ、覚えておけ。オレの名はソル・ヴァルガロフ。竜すら殺す、しぶとくて恐ろしい復讐者だ。




ワイルドな男がモンスターと闘いますぜ。あんまり深く考えることもなく、バトル重視で書いていきます。モンスターとの血なまぐさいバトルをお楽しみください。

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