無題
そこは、相変わらずの、白い原でした。
その白は恐ろしく冷たくて、そして柔らかい。
私はそのことを、知っていました。
私の一番大きな葉が、柔らかくも重たい白を揺すり落としました。
朝日が昇ると、その白は銀へと色を変えました。
きらきらと輝いて、この世で最も美しいものになりました。
私はその銀が、とても好きでした。
身体に残った銀は、アクセサリーのように私を飾りました。
でも、広い白の中で、あるいはいっときの銀の中で、私は一人でした。
遠くで微かに、鳥の囁きや獣の唸りが聞こえました。
それは、舞う白が鮮やかな日のことでした。
相変わらず遠くで、甲高いような音が聞こえました。
特に興味はありませんでした。
私はただただ、空を見ていました。
きゅっ。きゅっ。
音は随分と近くで聞こえました。
風が冷たくて、私は顔を伏せて目を閉じていました。
横で、気配を感じました。
それが、貴方でした。
貴方の指が、私の頭を撫でました。
それは、とてもくすぐったくて。そして、暖かくて。
顔を上げて、貴方を見ました。
貴方は柔らかな笑みを浮かべていました。
貴方が私の身体を優しく撫でるのが、とても恥ずかしかった。
でも、貴方が嬉しそうで、指から伝わる熱が新鮮で。
笑みが零れたのです。
貴方はよく笑っていました。そして、よく泣きました。
白が一瞬だけ朱になるとき、貴方はいつも泣いていました。
大丈夫だよ。泣かないで。私はここにいるから。
「また、明日ね」
貴方に届けばいいな。
貴方は次の日も、その次の日も、楽しそうに私の元へ来ました。
私は、貴方が来るのを心待ちにするようになりました。
貴方がいる時間はとても幸せです。
貴方も同じ気持ちだったら。どれだけいいでしょうか。
私は聞くことができませんでした。
朱に染まる貴方は、寂しげに微笑んでいて、私も微笑み返しました。
そして貴方は、朱の中に消えていく。
いつしかその瞬間を、恐れるようになっていました。
明日も来てくれる確証はありませんでした。
期待外れの真実を考えると身体が震えました。
貴方がいない黒の世界は、前よりも独りでした。
胸に穴が空いたようでした。
周りの白で埋めようとしても、どこかへ流れていってしまう。
白はまるで、心を殺す死神のようでした。
黒が漆黒に変わる頃、鋭さを秘めた風が吹き付けてきました。
貴方は、暖かいところにいるのでしょうか。
風が当たらないところにいるのでしょうか。
貴方を思うと、心の底が暖かい。
身を斬るような風なんかなんてことない。
私は、ゆっくりと目を閉じました。
貴方の声が聞こえた気がした。長い長い時を越えて。
目を開けた。相変わらずの白の原。
前よりも感覚が増えた気がする。冷たい匂いが鼻腔の先を突き抜けていく。
葉を揺らすように動かしたそれは、腕?
重たい。複雑に動くそれ。
しばらく考えてみた。
私は貴方と同じ姿になっていた。
いつもなら来ている時間なのに、まだ貴方は来ない。
私がこの場を離れていた間に何かあったのだろうか。
胸が締め付けられるように痛む。
そんな私の耳に、甲高い音が飛び込んできた。
きゅっ。きゅっ。
いつもよりゆっくりした音。元気がない。なんでだろう。
きゅっ。きゅっ。
貴方は元気だっただろうか。
きゅっ。きゅっ。
音はどんどん近付いてくる。
私は立ち上がった。
銀の中から貴方は現れる。
早く。早く。堪えきれず跳び跳ねて手招きをして。
貴方は気付いたようだ。
朱にはまだ早いのに、涙を溢している。
初めて全身で感じるぬくもり。
「ただいまっ」
今度はちゃんと伝わるだろう。この想いも。
私の口から嗚咽が漏れた。
頬を伝う雫は、暖かい。
貴方に連れられて、沢山の場所を訪れた。
暖かい場所。芳しい場所。騒がしい場所。
どこも楽しかったけれど、
貴方の家が一番だった。
貴方はよく、私を抱き締めてくれる。
私はそれがまるで、運命を噛み締めているように思えて。
柔らかい。暖かい。確かな物がある。
「神様は時に願いを、叶えてくれるのです」
その言葉は、私の胸の中にすとんと落ちた。
「んっ……」
目が覚めた。眠っていたようだった。
懐かしい夢だなぁ。色褪せることのない想い出。
「もうこんな時間っ!」
もうすぐ貴方が帰ってくる。
暖かなこの家に。