23話:後半 ハッキング競争
S.I.S.が大悟達の前に示した論文からの図表。訳の解らない化学反応式や、人物あるいは組織間の相互作用のような模式図だ。
もちろん大悟には内容はさっぱりだ。
タイトルの下にある著者の名前や所属する国がばらばらであること。発表された年代もばらばらであることくらいだろうか。ちなみに、一番新しいのでも3年前だ。
「どう思うオーバ」
反応したのは大学教官組だ。
「私が工学なのを忘れないでよね。ちょっと待ちなさいよ……。この遺伝子はいわゆる癌遺伝子よね。p53はかなり大物で…………。いいえ、違うわね。これ全部MAPK絡みね」
「MAPKですか?」
春香が驚きの声を上げた。さっきまでコンピュータ技術に翻弄されているのに、いきなり生物学あるいは医学になったのだろうか。
「癌化を含んだ細胞分裂。ストレス反応。胚発生時の細胞分化。他にもありとあらゆる作用に関わる。遺伝子の大規模な働きを切り替えるとき必ずといって良いほど働いているシグナル系よ」
「遺伝子ネットワークのハブってわけか」
さららが言った。どうやらすごく重要な遺伝子の働きと、例の薬が関わるらしい。ORZLに関係していると、教科の境界が存在しないかのような事態に巻き込まれる。
ーTrue。呼吸器の副作用は一例に過ぎない。この薬は体内で多くの作用を引き起こす。秩序だって流れるべきMAPK、主にERK1/2の経路だが、に突発的な変動を引き起こすー
S.I.S.が画面に回路図のようなものを表示した。中心に幾つもの線が束ねられていて、そこからいろいろな方向に線が延びている。どうやら中央道路に例の薬剤が作用するらしい。
「…………分かる、春日さん?」
「セルサイクル、免疫反応の調節、解糖系に……そこから延びる低酸素反応かしら、とにかく複雑すぎるわ。ただ、どれも間接的な作用……」
それだけ分かるなら大したものだ。大悟には新たな暗号の話が始まっているのだから。
ー特に、使用者の身体の弱った部分、あるいは遺伝的にもつ弱点を攻撃することになる。犠牲者の推定は全世界でー
一つの数値が表示された。訳が解らなくても数字は分かる。その桁に、大悟は思わず息をのんだ。
ー百数十万人。被害は多彩でそれが現れるまでの時間もばらばらだ。この薬が原因と解るまで何年もの期間が掛かるだろう。必然的に、分かったときには多くの被害者の身体には不可逆的なダメージが蓄積しているー
つまり、臨床試験の不正により患者が受ける被害は、世間が認識しているより何百倍も大きいと言うことだ。
ー私は小さな事ではないと付け加えさせてもらうー
大悟は綾の言った「犯人の動機は正義の為」という言葉を思い出した。だが、このような話信用できるのか。
ーこの解析結果は数日中に世界中の研究機関に送られる。学会の方でもある程度解析の準備が整っているだろうからね。すぐに世界中で論争が始まるだろうー
「どうしてそんなことが分かるんだ? ハッキングか?」
大悟は思わず不信を漏らした。
ーいいや、現時点で分かっているこの薬剤の副作用は製薬会社にとっても未知のものだった。これはセンスの良い科学者に対するメッセージに等しいー
「…………つまり、そこに何か空白、未知の問題が隠れているってことなのか」
大悟は反射的にそう考えた。さららが頷いた。
ーTrue。君は科学者の才能がありそうだねー
「いや、微塵もないから」と言う言葉を大悟は飲み込んだ。それよりも疑いの心の方が強い、そんなに重要な作用なら世界に存在する多くの”科学者”が気がつくのではないか。
何しろ一番新しいデータでも、3年前なのだ。
「つまり、現時点では判別不可能ってことか。でも、こっちの状況的に猫さんはそれを待てないってことか。さららさんと大場先生はどうですか?」
「……ここまでこんがらがった生化学回路なんて理解できる専門家がいるのかしら」
大場が画面に映った論文を見た。
「生物学の分野はかなり細分化されてるから、難しいんじゃない? 貴方はそもそも生物学じゃないでしょうし」
さららが言った。
ーTrue。この分析は私の行なったものではないー
うさんくさい猫はあっさり認めた。となると、この分析は猫の前にいた組織の行った物と言うことだろうか。ならばますます…………。
「ただ、これがホントならS.I.S.が追い出された理由は解るね」
「ええ。S.I.S.がその組織の一員だったとしたら、これを公開することは背信と言えるでしょう」
「だね。じゃあ、協力してみますか」
だが、そんな大悟を尻目に大場とさららは何かを納得してしまったようだ。謎のハッカーにLczの情報を渡すことが決まった。
曲面スクリーンに伸びていく二つのチェーン。それはまるで二本の列車の競争だった。上の列車が本来の取引記録。下が不正な、ルーシア達の主張によればだが、取引記録ということになる。
ただしコンピュータ、というよりもブロックチェーンにとってそんな区別はない。プログラムはあくまで0と1の羅列であるデータなのだ。どちらも単にコインの裏表の羅列に過ぎない。それは、悪人も善人も同じように原子で出来ているのに似た冷酷な事実に見えた。
どちらが本物になるのか、ルールは単純だ。単なる競争。世界中から提供される情報を鎖として編み込む速度のレースだ。
下の方がブロックが長い。紛争鉱物の取引監視をしているNPOのメンバーが複数誘拐され、パスワードが奪われたことでアカウントが乗っ取られているのだ。
綾が言うには、恐らく裏切り者として紛れ込んでいるメンバーもいたのだろうと言うことだった。「ネットの繋がりは早くて広いけど、直接顔を合せていないという事実を変えることは出来ないんだよ。優れた技術を持っていることと、その人間が信用できることの間の相関なんてたかがしれてるし」と言うのがルーシアを横目に見ながらの綾の台詞だ。
大悟としては目の前の猫がその生きた証拠なのだが、同時に綾が最初から目的が正義の告発である可能性を上げていた事を考える。
CG猫は信用できなくても、綾の判断は信用できる。
とにかく目の前の競争だ。相手は、事前に計算されたブロックを隠し持っておき、これらのアカウントを使って一気にそれをチェーン上にロードする。ブロックチェーンの最も長い鎖が正しい物と認められるというルールを使って、不正な記録をロンダリングしてしまう。
このままでは、不正な取引記録がなかったことにされてしまう。
多くの人間の地道な協力の下に構築された違法な資源売買の監視システムが、一気にその信用を失う。その結果として紛争地域の武装組織に資金が流れ、さらにその鉱山が争奪目標としての価値を高めてしまう。泥沼の争いが続く。そういう危機だ。
だが、順調に伸びていた不正なチェーンはすでに勢いを失っている。何しろ……。
「ナンバー9、6、2に有効なLcz発生。11番は有効なLczの強度を失います」
こちらは逆に相手が今まさに使っているパスワードを盗み見れるのだ。相手はすぐにパスワードの変更をしてるようだが、当然それもすぐに解かれる。もちろん、先ほどの例のように、ICCCの偏光情報から読み取れるのは曖昧な情報なのだが、それがルーシアとそして猫の手に掛かればあっという間に正しい情報に解読される。
さららと大場、そして春香が手伝っていることは、単にLczの発生をリアルタイムに追いその天気図予報を提要するだけ。口頭で伝えているのは、ハッキング対策だ。
ルーシアが手伝っていることには少し引っかかるが、綾の質問とさららと大場の分析で彼女が納得したなら仕方がない。
そうこうしているうちに、それはあっさりと成された。不正なチェーンは誘拐により奪い取ったアカウントの全ての制御を取り戻され、チェーンの長さも過去に遡って改ざんが不可能とされる長さ分だけ追い越された。
不正を成そうとした組織はパニックだろう。何しろ、どうして自分たちのアカウントが簡単に見つけられるのか解らないのだから。物理的に強奪した金庫のカギは、不可視の手によって書き換えられてしまったのだ。
二つのチェーンの取引記録が照会される。不正で利益を上げることが出来る複数の取引先の企業の名前が、S.I.S.により世界中に公表される。
今のうちに、明白な事実との整合をとらせなければいけないのだ。なぜなら、PRISONというプロジェクトも終わりだ。
誰も独占できないはずのメカニズムであるブロックチェーンが、特定の誰かによって誰かがコントロールできること、が明らかになったのだ。
もちろん、誰もどうしてそれが出来るのか分からないのだが、ここに居るメンバー達と一匹の猫。そして、その猫の元の仲間を除いて。
ーでは、約束どおり。君たちの質問に答えよう。ただし、こちらにも制約がある。僕の答えは一人当たり1ビットで合計3ビットとさせてもらうよー
画面上のポリゴン猫が言った。本来なら意味不明の言葉だが、大悟にはそれがイエスかノーで答えられる質問のみを受け付けるということだと解る。コイン3枚分の報酬、それが金貨になるか銅貨になるかは、質問次第ということになる。




