22話:後半 レポート
「まってよ。スピンなんてそんな簡単にコントロールできるわけないよ」
ルーシアが反論した。
「そうですね。それも、普通ならもっともです。と言うわけで、ここで一つ要素を付け加えないといけません」
大悟は表示を切り替えた。おなじみの世界地図。まるで気圧図のようなLczの分布。そして世界各地の、といっても寒冷地に偏っているが、PRISONのコンピュータセンターが表示されている。
さらに、地図の横に平面を折りたたんだ、立体の折り紙が表示される。
「ORZL……」
ルーシアの口からその単語が漏れた。
「えっと、知ってるんですか?」
「前にS.I.S.が教えてくれた論文に載ってた。と言うか、DAIGOとHARUKAの名前も載ってたでしょ?」
「はっ!?」
大悟は間抜けな声を上げた。
「ああ、これのことかな」
さららがスクリーンにメッセージを送りつけてきた。リンクをクリックすると、英語の論文が表示される。タイトルの下に、確かに大悟達の名前があった。
いつの間にか論文の著者にされていたらしい。
「まだプレプリントだから」
さららは当たり前のように言った。物理学の論文には、こうやって正式発表前に閲覧できるようにするサイトがあるのだという。
ちなみに、一番前から順に偉いらしい。例外は一番後ろ。先頭がこの研究を主体となって実行した人間で、一番最後が指導者と言う順番なのだとか。当たり前だが、どれも知らないことだ。
そんなことはどうでも良いが、大悟の名前が春香の前にあるのがいたたまれない。
「でも、あくまで理論上の存在だったはず……」
大悟の困惑を余所にルーシアは言った。
「…………えっと、最終的には証明しますのでご心配なく。ここでは、ORZL理論を前提として話を進めます。えっと、PRISONのコンピュータセンターを覆っているLcz、情報重心によるORZLの形の変化、つまり物理法則の改変を考えれば虚数ビットが可能というのが我々の分析です」
大悟はそこで春香に目配せをした。春香は無言で立ち上がった。
「続きはこの図形の発案者の春日さんにお願いします」
スクリーン正面を譲る大悟。春香は黙ってマイクを受け取った。どう考えてもご機嫌斜めである。彼女にとって大悟は「仮説なんかない」と言っておきながら、実際には答えを出したいわば裏切り者なのだ。
それでも、頑として彼が主発表者であることを譲らなかったのは彼女らしい。それが大悟には余計重圧だとしてもだが。
「今回の情報重心から予想されるORZL。つまり、この宇宙の余剰空間構造の変化の可能性の”一つ”がこの形です」
春香は画面上に平面が折りたたまれた折り紙を表示した。以前、彼女が量子コンピュータを実現すると発表した形と全く同じもの。電子のスピンを安定させるという性質を持った形だ。
春香がキーを押すと、画面上で複数のORZLが並んで回転を始める。同時に、電子の挙動を示すシミュレーションが始まった。
「なるほど、普通はエネルギーポテンシャルから上下の組になるはずのスピンが揃うのね」
大場が言った。大悟がなんとか理解した所では、スピンは要するに磁石だ。普通は磁石のS極とN極が互い違いになっている。磁力を
S
△
N
とする。
△△△△
という並びよりも、
△▽△▽
という並びの方が安定するのだ。これはなんとなく形で解る。
そしてこの自然なスピンの配列の場合、外部にとって磁力はトータルでゼロだ。だが、強い磁場を掛けることで磁石の方向を強制的に揃えることが出来る。いわば烏合の衆の軍隊が指揮官の下で一方向に突撃を敢行するように、強力な磁石になるのだ。
ちなみに、磁石を近づけたら磁石ではない鉄まで磁力を帯びるのは同じ理由である。もともと、鉄は原子一つ一つで見たら磁石。だが、隣り合う磁石同士が正反対の方向を向いているので磁力がないように見えているだけ。
それを、外から磁石によってそろえてやれば”元々もっていた”磁力が目に見えるようになる。そして、一度揃った磁力は簡単には消えない。ちなみに、熱を掛けて配列にショックを与えると磁力を失うらしい。
(これもSを1でNを0とか考えたらビットだし。それに、宇宙開闢のコインの話とか全部繋がりそうなんだよな……)
大悟は思い浮かんだ深淵を振り払う。
「……九ヶ谷君が説明したように、注目すべきはこのスピンの安定化と電流の流れの関係です」
春香は画面上でシミュレーションを開始した。
「電流の量が多い場合と少ない場合で、余剰次元を叩く、つまりORZLに入力されるエネルギーが違います。微細な差ですが、今回はORZLの変化自体もわずかで効果もスピンに限られるので、シミュレーションで違いが生じることが示されました。その結果、電流が一定以上流れている場合はLczの影響を強くうけ電子のスピンが揃います。逆に低い電流の場合はLczの影響が小さく通常と同じくスピンがバラバラのまま。先ほどの九ヶ谷君の図では簡略化されてましたが実際には……」
0:↑↓↑↓↑↓
1:↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
「こういった形で流れる電流にスピンの統計的分布の違いが生じます。つまり、流れている普通のビットのデータが虚数ビットに写し取られるわけです。もちろん、どこでも起こるわけではありません。一定上のLcz存在下でかつ、チップの中で特徴的な場所です」
春香はスライドを切り替えた。公開されているICCCのモジュール構造だ。四角を組み合わせたようなコンピュータチップの一カ所が赤く光った。
「ここではパスワードで復号された裸のデータが流れています。つまり、虚数ビットつまり電子のスピンという別の形に写し取られるわけです」
春香の説明が終わった。大場は驚いた顔になっている。さららも感心したように頷いている。ちなみに、この説明を聞いたときは大悟もかなりびっくりした。
何しろ、彼が思いついたのは、春香の考えたORZLによる電子のスピンの安定化を使えば、コンピュータチップのビットに電流とスピンの二重の意味を込めれる、数直線ではなく複素数平面の一点のように、と言うことだけなのだ。
これで出し抜いたみたいに言われるのは納得できない。
「仮に、そのLczを信じたとしてだよ。ハードディスクみたいに固定された分子じゃないんだよ。流れてる電子だよ。一旦揃ったスピンなんて簡単に乱れるよ。もしもその電子の流に乗ったスピンをセンター外で検出できると考えてるなら、差なんて残ってるはずない」
ルーシアが反論した。つまり、全て表にそろえたコインであっても、シャッフルしたら半々に戻ると言っているのだ。
「もちろんそうです。もしこれが真空中を移動する光子のスピンなら何百キロと保たれるでしょうけど、これは金属あるいはシリコンの原子の間を流れる電子です。一旦揃ったスピンは、あっという間に失われます。このように」
春香は次のスライドを表示した。机の上でコインが表を向いて揃っている。アニメーションで机が倒れ、落下したコインは表裏バラバラの状態に戻った。だが、春香は落下するコインの時間を巻き戻すと、机から床の間に、赤外線センサーのラインのような線を表示した。
「でも、このチップにはその前に、そのビットを読み取れる場所が用意されています。それがここです」
春香は先ほど指差した復号チップの隣にあるモジュールを指した。
「熱を感知するセンサーです。普段は通信回線の都合という名目で、解像度を落として表示されていますが、見ようと思えば世界中の誰でも見ることが出来る。さて、この場所で電子のスピンは発生する熱にある違いを生み出します。実際に見てみましょう。これがLcz顕在化と非顕在化の熱の像です」
春香は二枚の変化する熱の画像を表示した。一見何の違いもない。熱の温度を表す数値は、小数点二桁まで一致している。その発生パターンにも、何の違いもない。
ちなみに、熱とは電子から発生する光子の事らしい。光子をボールだとすると、その持つエネルギーの違いが熱として感知される。
「なんの違いもないようだけど?」
グラフを見て達也が言った。そう、今回の場合は熱の量は全く一緒だ。
「はい。一見、どちらも全くランダムな熱の流れです。ここには読み取れる情報は一つもない。ちなみに、センサーの生データには存在する熱ではなく光、電磁波の波長の分布まで見ても全く同じです。でも……」
春香はそこで画像を切り替えた。フィルターを掛けたような感じだ。そのフィルターにより、左右の画像にほんの僅かな差が生じた。
「その電磁波の振動の方向、つまり偏光で見ると僅かな差が見られます」
春香がキーを押した。Lczの影響下にない熱のグラフは一つの山だ。だが、Lczの方は山が赤と青に分かれ、一致したりずれたりを繰り返している。それは単に目がかすんだだけじゃないかという程度の小さな違いだ。
「このように、Lcz存在下に限り電子から生じた光子の回転方向の分布にパターンが生じます。実際の差は確かにごく僅かです。具体的には2から3パーセントの違いに過ぎない。つまり、Lcz非影響下では2万個の電子のスピンがほぼ1:1。つまり1万個の縦偏光と1万個の横偏光に分かれ。誤差はあったとしても数個。でも、Lcz存在化ではこれが1万と1万の場合と。9900と10100に分かれます。それがこのグラフに現れている差です。言うまでもなく、これだけの差が偶然出る確率は極めて低い。つまり、Lczによって写し取られた情報の痕跡です」
ちなみに、通常の空気の中に突然台風が発生するレベルの異常らしい。
「つまり、電子のスピンに写し取られたデータが0なら光子の偏光に違いはなく、1なら違いがある。こうして、スピンの偏りが失われる前に外部に情報を伝えているわけです。これで私の説明は終わりです」
春香はそう言うと大悟にマイクを戻した。もうこのまま最後までやってくれれば良いのにと思った大悟だが、聴衆の中の達也の困ったような顔を見てあきらめて口を開いた。
「実際に大場教授にPRISONのサンプルアカウントをとって頂いて実証の準備をしています」
大悟が言うと、大場がウインクをすると片手でノートパソコンを開いた。アカウント二つの間を意味のないデータが行き来する。ただそれだけの実験だ。パスワードは単純に『000000000011111111』。
大悟は春香の準備したとおり、アイスランドのLcz影響下のコンピュータチップのサーモグラフを表示した。
通常のデータではなんの違いも見えないが、それを偏光で見ると。光は明滅を繰り返している。その結果が偏光差という形でグラフ化される。勿論、
_________ーーーーーーーーーー
のような理想的な結果にはならない。実際のグラフは曖昧な波を打つ。だが、それを繰り返し重ね合わせれば……。
「実際に完全に000000000011111111を読み取ることは出来ませんが。このように、入力されたデータを反映するパターンが積み重なれば……」
繰り返す明滅が周波数に分解されていく。ちなみに、あの重力波計の時にやった波形成分の分析方法の応用らしい。やがて画面上に答えが出た。
0000*00000111111*1
「アスタリスクは判別不可能なビットですが、このようにかなりの精度で読み取れます。この場合、本来20ビット。つまり2の20乗だから約10万通りを試さないと解けないパスワードが、アスタリスクの2ビット。つまり4通りを試せば解読できる所まで見えたことになります」
「つまり、パスワードを始めデータは事実上のぞき放題と言うことか。それも全世界中のどこからでも……」
達也がやっと理解を示した。大悟としては正直大した物だと思う。かなり勉強していたに違いない。ちなみにルーシアは唖然としている。
「そうです。そこで問題なのは……」
大悟はスライドをICCCの模式図に戻した。
「センサーの精度、位置。そして、チップを流れる電流、それら全てのパラメーターが…………まるでこのLczを前提としたように調節されていると言うことです。これらがほんのわずかでもずれているだけで、情報の読み取りは不可能になります」
「もう最初っからそのために作られてるってことだね。PRISONには設計段階からLczを用いた誰にも解らない裏口が組み込まれていた」
綾の言葉に、全員の視線がルーシアに向いた。彼女は肩をふるわせている。
「…………S.I.S。どうして……」
金髪の天才ハッカーの口から革新的なコンピュータチップの設計者の名前が出た。しかも、先ほど彼女は言った、ORZLのことをその人物から聞いたと。
つまり、全てが繋がっているのだ。そして彼女は大きな目的と、信頼していた人間を同時に失ったことになる。
「えっと、ルーシアさん」
大悟がルーシアに声を掛けようとした時。
ブッ…………
同時に画面が真っ暗に切り替わった。大悟が慌てて足下を確認した。コンセントでも踏みつけたのかと思ったのだ。勿論足下には何もない。そして、画面は唐突に光を回復させた。
表れたのは元の画面ではなかった。正確に言えば、画面が消える前には居なかった何かが写っている。擬人化された猫のポリゴンだ。ICCCの模式図の上に腰掛けるように表示されてる。
大悟には何が起こったのか全く解らない。そのキャラクターは、画面の上で立ち上がると肉球のある両手で拍手をした。
ー見事だったよー
同時に、スピーカーから音声が発せられた。
「S.I.S!!」
ルーシアの叫びがコンピュータセンターに響いた。それは今まさに暴いた流出事件の犯人の名前だ。




