21話 ICCC
「ねえ、九ヶ谷」
「はい」
月曜日。1時間目が終わるやいなや、大悟は隣の女子に廊下に呼び出されていた。ちなみに、目線だけで「話があるからこっちこい」という洋子の意図を読み取れた。
「春香なんか怒ってるんだけど」
洋子は教室のドアの向こう、鬼気迫る表情でノートに向かう春香を見ながら言った。
「あ、う、うん。そう見えるね……」
「それとなく土曜日のこと聞いたら「九ヶ谷君のことは言わないで」って言われた。遊園地で何があったの?」
「…………」
洋子は大悟が春香に何か不埒なことをしたと疑っているようだ。ホラーハウスで抱きつかれて、コーヒーショップでカップを取り違えたなんて間違っても言えない。
「なんとかするって言ったから、譲ったのに」
「頼んでない」という言葉を必死で飲み込んだ。結果的に彼女のおかげで事態が動いたのは間違いない。おずおずと土曜日の成果を主張する。
「えっと、なんとかしたというか、何とかしちゃったというか……」
「なんとかした!?」
「その、まだ確証はないんだけど、ね」
春香が今やっていることは大枠だけ解っている。彼女が最初に思いついたORZL。その電子のスピンに関する挙動をある条件で調べ直しているのだ。日曜日はずっとさららのラボで計算していたらしい。
そう、春香の仮説は息を吹き返したのだ。問題はそれが量子コンピュータではなく……。
「本当に……?」
洋子はもう一度教室の春香を見る。
「……確かに。怒ってるけど。なんか先週と違って前向きな感じはする。で、そのなんとかした内容は私には言えないのね」
洋子は少しほっとしたような、寂しそうな顔になった。
「言えない理由は僕も分かってないからなんだけど。ええっと、結城先輩に説明するときは、近藤さんにも参加してもらえないか考えてみるよ。それでいいかな」
「九ヶ谷がそういうこと仕切れるのは納得いかないけど、それでいい」
洋子はもう一度教室の春香を見て、渋々頷いた。
◇◇
「ルーシアさん。ちょっと教えて欲しいことがあるの」
放課後、インターンが始まる。秘密開発室で、春香がルーシアに慎重に話しかけた。大悟も少し緊張する。彼の、というか春香の仮説が正しければ、今回の流出事件に彼女が関わっている可能性は決して小さくない。
「また量子コンピュータの話?」
「違うの。PRISONが情報処理に異常がないかを熱で感知する仕組について、具体的に知りたい点がいくつかあって」
「ICCCの方ってこと?」
「そうなの。私も仕様書は見たけど、解らない部分が多くて。大丈夫かしら」
「いいけど……」
ルーシアは自分が向かっていたディスプレイに開いていた画面を閉じた。
「まずは、熱を感知するセンサーにこの素子が採用された理由を……」
春香は熱センサーについて質問していく。大悟は慎重にその表情の変化を観察する。ルーシアはなんでそんなことをと言う顔で聞いている。
「仕様書の通りだよ。この感度を実現できてるセンサーの中で条件に合うのがこれだけって話だよ」
「実際には熱と言うよりも光のセンサーに近いみたいだけど。この場合発生する熱は電磁波だから当然だけど、光子を拾ってるレベルじゃない」
「そりゃ、小型化すればそうなるでしょ。もしかして、熱に情報が含まれてると思ってる? あり得ないよ。見て、実際のサーモグラフはこの形……」
ルーシアがヘックス状のマップを表示した。青から赤までの色が細かく振動している。
「このパターンに情報は含まれないのね」
「もちろん、これを見て」
ルーシアがキーボードを叩くと釣り鐘型のグラフが見えた。ちなみに、あのブラックホール爆弾のパターンに似ている。究極的に平凡なパターンと言うことだ。情報理論で言えば、表と裏のコインが同じ程度ということ。人間で言えば彼の自認する彼に近い。
「理論値と、実際にセンサーが捉えた熱、つまり電磁波のパターンを重ねると……」
「完全に正規分布ね」
「情報の中身じゃなくて、情報つまりビットが生成、消去されることに対応しているから、当然」
春香は自分のノートパソコンを見る。
「このサーモグラフのデータだけど、センサーのスペックから獲得可能な精度以下になってるけど。それはどうしてかしら?」
「それは帯域の圧迫を避ける為に圧縮されてるだけ、だよ」
「直接の測定結果、センサーの生のデータを見ることは出来ないかしら」
「別に難しいことじゃないよ」
ルーシアは手早くキーを叩く。さっきと全く同じ形の釣り鐘型のグラフが表示された。僅かになめらかかも知れないけど、大悟には全く差が見られない。
「この情報を入手できるリンクを教えてもらえるかしら。えっと……」
春香は手元のノートを見た、ちなみに地球規模の情報の天気予報が表示されている。
「ここと、ここのコンピュータセンターの」
「どうしてその二カ所? いいけど、はい」
ルーシアは首をかしげながら、もう一度キーを叩く。春香は自分のノートパソコンを確認して頷いた。
◇◇
春香が話を聞き終わると、ルーシアはすぐ画面に戻った。画面の端に国際ニュースらしき動画が流れていた。アフリカ関係のNPOが会合を行なうというニュースが流れている。何かトラブルがあってメンバーの到着が遅れているらしい。
ルーシアの手がキーボード上に止まっているのは珍しい。
「九ヶ谷君」
「あっ、うん」
春香に誘われて大悟は隣、つまり達也のオフィスに移動した。オフィスに達也はいない。春香は先ほどルーシアから受け取ったデータを解析する。その横に、春香が最初に立てた仮説のORZLが回転している。
「ど、どう」
「もうちょっと待って、ノートの計算能力じゃ時間が掛かるの……」
春香の手元で、先ほどの釣り鐘型のグラフが山の高さを変化させていく。そのグラフが僅かにぶれた。春香はそのぶれと、データが取られたチップのあるセンターの情報重心の発生パターンを重ねていく。
ガチャリ
「ああ、君たちか」
そのときドアが開いて、書類を抱えた達也が入ってきた。
「今週でインターンも終わりだけど、調査の方はどうなっているのかな?」
達也が聞いた。どう考えてもインターンの上司としての義務で一応聞いた感じだ。ある意味当たり前と言える、いくら春香が出来ると主張したとは言え大悟達は高校生である。まあ、このインターンの上司も高校生なのだが……。ちなみに、高校生とは思えない疲れた顔だ。受験勉強本番だろうに大丈夫なのだろうか……。
「えっと……」
大悟は春香に視線で確認する。春香はパソコン画面を確認して、頷いた。
「た、多分大丈夫かと……」
「本当かい!? じゃあ、説明を」
達也は驚いた顔で腰を上げた。机に重ねていた書類が何枚か舞い落ちた。
「実際にPRISONが破られるところを実演したいと思うんですけど。その準備でもう少しください」
大悟は事前に春香と相談した通りに答えた。
「……説明じゃなくて解決する。そう言っているのかな?」
達也が大悟と春香を交互に見た。
「そうできると考えています。ただ、説明の場所と時間はもう少し調整が必要ですけど」
春香が答えた。
「…………解った。楽しみにしてるよ」
達也は期待と疑いが半分半分という顔だ。
◇◇
「と言うわけで、問題は発表する為の場所なんだ。ほら、何しろボクたちは高校生なわけで」
「実証すると言っても、私たちじゃPRISONに対応したデータセンターと契約することも出来ないわね。フェリクスは……彼女の手が入ってる可能性があるし」
大悟と春香はラタンで綾に相談していた。
「ふーん。彼女は怪しいの」
「いや、協力的だったし、表情も別におかしな所はなかったかな」
大悟は言葉を濁した。彼の感覚から言えばルーシアに怪しいところはなかった。ただ、彼女はPRISONのハード規格ICCCにも知り合いがいるみたいだった。
「大悟に女の子の表情が解るかなんて怪しいしねえ……。あと、仮に検証できたとしても結城先輩が大悟の、ううん春日さんの言葉でも納得するかな」
「それも問題なんだよな」
「だよね。大事なのは内容よりも信用だったりする。特にあの手の人には権威の裏付けが必要。だって、更に現場から遠い上に説明しないといけないんだから」
自分の言葉に春香が顔をしかめるのを見ながら、綾は続ける。
「となると、場所は決まりでしょ」
綾はラタンの窓の外、山の方を指差した。
「そうするしかないわね」
春香が頷いた。またもコネの発動である。まあ、実際かの大先生はフェリクスと共同研究しているわけだから問題はないだろう。後は……。
「あの春日さん。一つ相談があって。参加者だけど、あと一人増やしちゃダメかな……」
大悟は恐る恐るゲストの追加を提案した。彼女の機密保持に関わるので、彼の独断というわけにはいかないのだ。もっとも、そのセキュリティーはほぼ崩れているのではないかと思うが……。




