6話:後半 折り紙と宇宙
グラスの中で氷がカランと音を立てた。
宇宙の始まりでは一つだった力が、どうして四つに分かれたのか。氷水の入ったグラスを掲げるさららに、大悟は思わず頷いた。理解できないのはそこなのだ。実体のない力、しかも今話題になっているのはその種類だ。方程式がどうやって分かれるというのか。
「ビックバン後、宇宙が広がっていくにつれて宇宙の温度が下がっていくの。宇宙が冷えていくに従って、ある現象が三回起こった。一回目で重力が、二回目で強い力が、三回目で弱い力が分かれた。残った電磁力を含めて全部で四つに分かれたというわけ」
さららはまるで生物の系統樹のような図をホワイトボードに書く。
「それを引き起こした現象を私たち物理学者は【空間の相転移】と呼んでる。簡単に言えば空間の構造が劇的に変わるってことだね」
空間の構造、ますます意味が分からない。空間というのは空っぽの箱ではないのか。大悟の困惑を予測していたように、さららは自分のグラスを指差した。
「身近にある相転移の代表はこれ」
さららの指はまずグラスの上、何もない場所を差した。
「同じ”水”でも温度が高ければ気体、つまり水蒸気の形で存在する。ここら辺に舞ってるもの。そして、もう少し温度が下がれば液体、水になる。更に温度が下がれば固体になる。ここに浮いてる氷がそうだね」
さららの指は空中からグラスの中、そして氷へと移動する。
「水蒸気も水も氷も全て水分子から出来ているのに、その性質には大きな違いがある。もしこのグラスが宇宙なら、その宇宙の性質は温度によって変化する。温度は連続的に変化するけど、その温度によって引き起こされる変化は断続的。0℃で凍ったり、100℃で蒸発したりね。それが相転移。ビックバンの後、宇宙の温度が下がっていく過程で同じ事が宇宙空間それ自体に起こった。これが空間の相転移」
空間の構造が温度によって変っていく。水と氷のように。解るような解らないような話だ。さららはグラスを指ではじいた。カンッ!という音がして、水面が揺れた。
「水分子の間をエネルギーが行き来するとき、水蒸気と水、氷じゃそれぞれ経路が違うでしょ。一番わかりやすいのが水と氷の違いかな。水の分子同士の繋がりは自由に変化しうる。つまり、エネルギーが伝わる経路は自由に近い。でも、氷の場合は違う。結晶の方向に大きく制約される。つまり、同じ水分子から構成されていて、同じようにエネルギーを伝えようとしても、その有り様は大きく違うものになるってこと。もし、この宇宙の中の物理学者が水と氷でエネルギーの伝わり方を方程式で表現すれば違うものになる」
言っていることはなんとなくイメージ出来る。ゲームでも、駒の動きは舞台と関係する。例えば将棋は駒をマスの中に置くが、囲碁は交点に置く。将棋の駒を戦術シミュレーションにあるような6角形のマスに置けば、駒の動きは全く変わるだろう。
「でも、最初は一つだった。それに、エネルギーはエネルギーでしょ。例えば水力発電なら重力が電磁力に変換されるし、エレベーターは電磁力を重力に変換する。だから、それを統一しようっていうのがいわゆる統一理論、狭義の万物理論ってわけ。宇宙の歴史を過去へと遡る試みってことになるかな。後ろ向きだね」
さららは微笑を浮かべた。統一理論という言葉は聞いたことがあるし、物理学上の大問題であることも知識としては知っている。だが、目の前の若すぎる物理学者は、それを後ろ向きと言った。では……。
「さて、ここまでは理解できたかな?」
さららは言った。大悟は綾を見た。綾はどうしたものかという表情だ。恐らく自分と同レベルの理解だと思う。本当に解らなければ、彼女なら質問する。一方、春香はすました顔だ。とっくに知っている事をわざわざ聞かされたという感じだ。その瞳は冷気をはらんでいる。
(せっかく忠告したのにって感じだな)
大悟は自問する。自分は理解しているのか。理解できないわけではない。正直言えば覚悟していたよりはわかりやすい説明だった。同時に隔絶も感じる。同じ世界を見ているのに、とらえ方が全く違うと感じるのだ。
「いま、一般的な意味での万物理論って言いましたよね。つまり、今までの説明はこれから話す一般的じゃない万物理論の前提ってことですよね」
大悟は言った。さららが頷く。となると、世界観の違いを無視できない。なにしろ、ゴールが見えない状況だ。春の事故、5年前の事故、そして父のゲームの研究。今のあまりに抽象的な世界観との繋がりがどこへいくのか……。
「理解できてるかどうか解らないんで、今の話を別の物に例えてみて良いですか? 力の種類って、現実に存在しないものでも良いんですか」
「オッケーだよ」
大悟は科学的ではないイメージで今の話を代替してやろうと、挑発的に言った。さららは頷いた。
「……この世界とは違う、異世界があったとしてそこには神力と魔力があるとします」
「九ヶ谷君ふざけないで」
「面白いね。続けて」
「さららさん……」
春香が怒った。科学の話を魔法や宗教の話にされたのが気に入らないのだろう。だが、さららの言葉で口を噤んだ。
「神力は神に、魔力は悪魔に由来する力とします。それぞれ力の性質は正反対。例えば、神力は人を癒やすけど、魔力は人を傷つける」
大悟は典型的なファンタジーRPGの世界観を口にする。
「でも、神も悪魔も元々は、それこそその世界創造の瞬間は一体で、神力も魔力も全く同じ物だった。それが神話の時代に二種類に分かれて、神力と魔力になった。それを人間が使っている。そんな感じの話ですか」
さららはにんまりと笑った。
「そのイメージで間違ってはいないかな。キリスト教で悪魔とされているのも、元々は天使だったり別の宗教の神だったりするし。そういう意味でも合致するかな」
さららは頷いた。
「なら、その神と悪魔が住んでいる、天界あるいは魔界みたいな物があるはずですよね」
大悟が聞いた。空間構造の変化という抽象的な話だが、力を支配する神の世界が統括していると考えれば解りやすい。
大悟はさららの言葉を待つ。ガタっという音がした。春香が立ち上がってスチール机の方に行った。聞いてられないということだろうか。
「なるほど、じゃあ今ダイゴが言った天界あるいは魔界に当たる物はそこにある。私たちの言葉で言えば余剰次元」
さららは折り鶴を指差した。
大悟は折り鶴を見た。これが天界。力の元が住まう場所だというのか。意味が分からない。余剰次元とはなんだ? それに、大悟の解釈が当たらずとも遠からずとしても……。
「いよいよ私の理論に移りたいんだけど。その前にもう一つ説明しておかないとね。今の話がどうして春の事故に繋がるのか、疑問に思ってるでしょ」
さららは大悟の心を見透かすように言った。
「ビックバンの高温から温度が下がるにつれ、水蒸気が水に、水が氷になるように、空間の相転移が起こって力が分かれていった。コレは過去の話。じゃあ、もう一度空間の相転移が起こったら?」
さららは言った。今の説明通りなら、これまで何度か起こっていることがもう一度起こるなら。
ファンタジー世界で、新しい神あるいは悪魔が生まれたら。天界の再編、それによる地上への影響。それこそ幻想ならあり得ることだ。
だけど、それが現実とするとあまりに荒唐無稽だ。なにしろ…………。
「物理法則が変化する、ってことですか」
大悟が躊躇した言葉を、綾が口に出した。さららは頷いた。
「正解」
「待ってください。じゃあ、春の事故の原因って……」
大悟は思わず身体を前に乗り出した。
「多分ダイゴ達の想像通り。その現象を私は、局所的空間改変――Local constructed zone――って呼んでる。つまり、あの事故が原因不明である理由は物理法則が変更されたからってことになる」
目の前の女性科学者は事故の原因が”物理学の変化”だと言っている。それはゲームのルールをいきなり変えるような物だ。それなら……。
「それ、何でもありになりませんか?」
大悟は言った。さららはにやりと笑った。
「そう、可能性は無限。つまり、何が起こるか解らない。それじゃあ科学にならない。でもね」
さららはいったん認めた。そして、彼女の指が大悟の前にある紙細工をもう一度指した。
「折り紙が作る形だって、実質的には無限。ただし、折るという作業とその回数を制限すれば、可能な形は有限になる。無限の可能性を実現するためには”折る”という操作が必要になる。操作が必要になる以上、エネルギーという制約条件が課される。そのエネルギーの範囲内で何が起こるか。それを規定するのが私のORZLってわけ」
この講義が始まる前に作られた折り鶴。宇宙開闢まで遡った話が、やっと戻ってきた。折り紙の折り方と、物理法則の繋がりとして。
そして、春に起こった謎の科学事故の原因と繋がるというのだ。もしかしたら父の理論やその事故とも……。
「じゃあ、いよいよ折り鶴の出番だね。私の理論では空間の相転移は現在も限定的に生じうる。その原因は――」
「さららさん。電話です。あの男から」
大悟が固唾をのんで続きを聞こうとしたとき、突然春香が戻ってきた。彼女はさららにスマートフォンを差し出した。