20話 遊園地Ⅳ 答え
「なんで私なんかにここまで優しくしてくれるの?」
【i】ではなく同音異義語の方に言ってしまいそうな展開。先ほど容易に出た答えが、今度はとてつもなく難しい。
「もう一度言うけど。今日のことは、話題を春日さんに合せてないとは言わない」
大悟は繰り返した。今日、いきなり春香とのこのお出かけに放り込まれて、彼が彼女相手に出せたのがこの手の話だけだったのは確かだ。
もちろん、洋子からの暗黙の圧迫や父親のゲーム項との絡みもある。でも、誓ってそれだけではないと彼は思っている。いや、気がついてしまっていた。
(ぶっちゃけ春日さんと楽しく過ごしたいって意識はあったんだろうな)
だからこそ、彼女が先ほど浮かべた自嘲的な表情に文句がある。
「春日さんの話は面白いよ。それに、前にいったよね。サイエンスモードの時の方が魅力……キャラが立ってるって」
大悟は慌てて言い変えた。いくら何でも二人きりの観覧車の中で言える台詞ではない。それでも、大悟の言葉で春香の横顔に朱が差した。なんとも言えない空気がゴンドラを包む。この空気は不味いのだが、ここまで来たら言い切るしかない。
「春日さんとこういう話をするの、僕も楽しいって思ってるから……」
「本当に? 世界の全てが情報に過ぎないとか、そんな冷たい見方をする女子なんて、普通引くでしょ」
春香は赤らめた頬を背けた。
「そ、それに関しては、世界の全てが情報かどうかは答えは保留中だから」
「さっき論破してあげたのに?」
春香は勝ち気な表情に戻った。頬の赤さはまだ残っている。
「それでも。まだ、何かあるはずなんだ。なんかもうちょっとでイメージ出来そうな何かが」
大悟は言った。宇宙の開闢から全てが情報だと言われても、彼の空白はそれで全て埋まったわけじゃないのだ。ごく僅かな空白が残っている。
「だ、だから、保留する」
そう簡単に目の前の女の子の世界に取り込まれるわけには行かない。大体、もしこれを簡単に認めたら、今このとき感じている”何か”を否定することになる。そんな気がするのだ。もっとも……。
「ま、まあ、僕自身それが何か解ってないんだけどね」
大悟の中にあるのはあくまで空白。春香がどれだけ彼の世界を情報で埋め尽くそうと、僅かに残っている空白だ。
「変なの。自分でも確信がないのに、何かがあるって思ってるんだ」
「ま、まあね。だから、それが何か解るまで。春日さんにはこれからも色々教えて貰わなくちゃ」
「そ、そうね。私もこのままじゃ中途半端だし。次はもっとちゃんと納得させてあげないと」
「そう簡単にはいかないぞ」
口調がちょっとおかしくなっていることを自覚しながら、大悟は【i】側に方向転換出来たことに少しほっとしていた。
「でも、私だけって言うのは不公平かもしれないわね……」
春香は再び口ごもった。今の話のどこに不公平があったのか、大悟は首をかしげた。一方的に知識をくださいと要求してるからだろうか。
「じゃあ……。もし、逆にね。えっと、つまり世界の全てが情報じゃないって、九ヶ谷君が私を納得させたら。その時は……」
観覧車が【-1】を通り過ぎた。【i】と【i】が掛け合わされた。
「そ、その時は?」
話題は【i】の側のはずだ。なのに、大悟は思わずつばを飲み込んだ。
「そうね、今の話の構造上だけど。例えば、九ヶ谷君が普通の女の子に望むようなこと、私がかなえてあげられるように努力してみてもいい、そう言ったら?」
少し頬を赤らめてそんなことを言う。形式なら間違いなくサイエンス的な勝負を挑まれているはずなのだ。だが、同時に目の前の女の子が理系モードに見えないのはどうしてだろうか。
まるで前回の勝負の後、彼女の部屋で言われたことと同じ。しかし、前回は春香は明らかにやけっぱちだったのに、今は……。
(そうだ、こういう時は素数を数えるんだ。いや,むしろ素数って何だっけって聞くのはどうだ?)
大悟は混乱の中で考える。彼の中のS春香は「なに、そんな基本的なことを知らないの」とノリノリで素数の話を始めそうだ。だが、なぜか彼の中にいる別の春香はその話題では満足しない気がした。
春日春香という一人の女の子が発している全く異なる二つのシグナル。それはまるで今聞いた複素数のような……。回転するコインのどちら側なのか考えても解らないような。そんな混乱が彼を襲う。
「ま、まあ私の勝ちは解ってるけど。熱力学の第二法則が破れるわけないから、永久機関を作れっていってるようなもので――」
春香が完全に横を向き、その形の良い耳を染めている。
何か言わなければいけない。その答えを見つけようと彼の思考が脳内をぐるぐると駆け回る。春香に関わるあらゆる情報が次から次へと脳裏に映し出されては消える。
数直線上なら引くか進むかの二択なのに、平面上では進路は無限だ。そんな説明されてもないことに気がつく。
さっきまでサイエンスモードだった春香は、一体どこにこれほどの情報を隠していたのか。いや、自分は彼女のどっちの情報を求めているのか……。【i】なのか、それとも…………。
(あ、あれ?)
そして、それがスイッチだった。
(一人の人間の二つの側面。……一つの点に二つの情報……)
大悟の脳内で勝手にピースが揃い始めた。ルーシアの言ったコンピュータチップのビット、そして大場から聞いた新技術。
そして、目の前の女の子が導き出した弱いLczによる物理学の改変……。
(そうだよ、もしもビットが……)
そして、一番中心のピースを除いてイメージが形を作った。
「私なんでこんな話してるんだろ。も、元々はインターンのことについてだったわよね。そういえばあれも私が先走って…………。えっと、九ヶ谷君?」
気がつけば春香が彼を見て首をかしげていた。彼女も混乱していたことに彼もやっと気がついた。そんな彼女に対して、彼は定まった空白の形を口にする。そう、インターンの話だ。これもある意味『i』である。
「春日さん、ちょっと思いついたことがあるんだけど……。仮に、あくまで仮になんだけどさ。コンピュータの中に流れるビット。えっと、普通のビットのことだけど。その電子が例えばこうなってるとして……」
大悟は指で凸凹を描いた。
「それに対して、もう一つ……」
そして彼の指がその情報の列を縦に横切った。女の子と二人、観覧車でする話題ではない。だけどしかたがないのだ、なぜなら【i】と【i】を掛け合わせれば-1。それは正反対への移動を意味するのだから。
ガシャンッ
観覧車が一番下に着き、ドアが開かれた。そこから春香が飛び出すように外に出た。
「ま、まってよ春日さん」
大悟は慌てて観覧車から降りた。彼の呼びかけに春香は身体半分だけ振り返った。
「私、今からやらなくちゃいけないことが出来たから帰るね。九ヶ谷君のせいだからしかたないよね」
そう言って後は振り返りもせずに歩いて行く。行き先は恐らくあの地下室だ。虚しく手を伸ばした大悟は、その時初めて周囲の視線に気がついた。
添乗員を始め、多くの男女が冷たい目を大悟に向けている。密室を良いことに何をやらかしたのかこの男、と考えているのだろう。
とてつもなく理不尽だ。元はと言えば、彼は春香が仮説を考えるのを助けたかっただけなのだ。というか、それこそが本来の目的だったのだ。
そして彼はそれを成した。密室は破れた。いや最初から破れていたのかも知れない。それも、彼女の仮説に沿った形で。その可能性をうっかり思いついてしまっただけではないか。
2018/07/29:
来週の投稿は木、日の予定です。




