19話:後半 遊園地Ⅲ 【i】*【i】
目的地である【-1】の前、大悟と春香はあまり長くない列に並んだ。ちなみに、列は長くなくともカップル濃度が高い。目の前にはそびえる巨大な円。吊されたゴンドラが反時計回りにゆっくりと回転している。
絶好のパノラマの中、二人だけの空間を提供する。そう、観覧車だ。
「この観覧車をxyグラフ上に存在している半径1の円と考えるの。つまり……」
春香はアトラクションの中心を指差した。
「中心が原点で(0,0)」
「う、うん」
まさにカップルの為にあるようなアトラクションが、グラフ上の無味乾燥な円に変った。春香はそのまま指を水平に右へと動かした。
「つまり、ここが【1】になるわ」
ゴンドラがそこを通過した。観覧車が時計だとしたら、3時の位置だ。
「と言うことはその正反対側。時計なら9時の場所が【-1】ってこと?」
「そういうこと。つまり、この場合は【-1】を掛けるというのは観覧車の一番右から一番左への移動。あるいは逆。180度の回転に相当する操作になるの。これはいい?」
春香の指が一番右から上を通って半円を描く。
「了解。えっと、さっきの道、直線を円周に移した感じだ」
大悟は頷いた。丁度そのとき、大悟達の順番が来た。
「じゃあいよいよ本番ね。ちゃんと理解してくれないと2周するから」
ドアを開けた添乗員の前で、春香が言った。添乗員の女性の顔がほほえましい物を見るように変化した。
(今、どんだけラブラブなんだとか誤解されてないか)
ドアが閉まる。
「さてじゃあ、この観覧車を複素数平面上の円。つまり、x軸に実数、y軸に虚数を取ったものと考えましょう」
「ほら違うでしょ」
遊びの話をしていた大悟と春香を見て、勉強の話と勘違いして遊園地のチケットを渡した母。その結果として勉強の話なのに遊びと勘違いされている。これが因果応報というものだろうか。
「えっ、なに?」
「いや、何でもないです。複素数平面ね。えっと、じゃあ観覧車の中央は実数0、虚数0だから。普通のxyグラフと同じ(0,0)だね。三時の位置は実数1で虚数0だからこれもxyグラフとおなじで(1,0)。反対が(-1、0)ここまでは一緒だよね」
「そう、じゃあ今私たちが乗り込んだ場所。つまり時計なら6時の位置は?」
大悟は少しだけ考えて答える。夏休みの宿題を手伝ってくれた春香が、容量オーバーの彼に勝手に追加した内容だ。
「確か【ーi】だよね」
「正解。そして、一番上、つまり12時の位置が【i】ということになるわ」
「うん。多分大丈夫」
大悟は脳内で観覧車を改めてグラフに描く。
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+i
ー1 | 1
ー+ーー0ーー+ー
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-i+
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「じゃあ、いよいよ【i】を二乗したらどうしてマイナスかを説明するわ。まず、さっきの復習。1に【i】を掛けるというのはどう言う操作か」
春香が言った。
「【1】×【i】は【i】だった。と言うことは……」
大悟は外を見た。彼らのゴンドラは丁度観覧車の一番右、つまり3時に向かうところだ。あそこから【i】。つまり、頂上への移動は……。大悟はこれから自分たちが運ばれる軌道を頭に浮かべた。
「円の四分の一だから90度の移動かな?」
「そういうこと。それさえ解ればもう終わったようなものよ。じゃあ、この【i】に更に【i】を掛けたら?」
要するに1×【i】×【i】。つまり【i】の二乗だ。答えは簡単だった。なぜなら彼ですら知っているのだ。【i】の二乗は-1である。だが、そこで大悟は衝撃を受けた。
「…………そうか!! もう一回90度回転したら合計で180度の移動になる。ということは【-1】になるんだ」
突如として全てがはまった。知っていたはずの答えを、大悟は驚きと共に口にした。
「そういうこと。複素数平面。つまり二次元で考えると-1を掛けるというのは180度、つまり正反対の位置への移動。同様に、【i】を掛けるって言うのはその半分、90度の移動になるの。そう考えれば、【i】を二回掛けたら【-1】になるのは必然でしょ」
「なるほど」
全く意味が分からなかった【i】という存在が完全に視覚的にイメージ出来た。
「ということは、そっか。ここに来る前の道。つまり一次元の中では【i】が0の位置にあるってことか」
正確には【i】は0の上空にあったわけだ。道という一次元で考えていたら解らない。だけど、実は高さがあると考えると理解できる。
「次元を増やすと見えてくるのか……」
「そういうことなの。複素数は【a+bi】と表現されるでしょ。普通の数が数直線上の点。つまり一次元の……であるのに対して、複素数は二次元上の点。一つの数に見えて実は縦と横、二つの数値をもっているの。今九ヶ谷君は【i】が0にあることを理解できたみたいだけど。これは二次元の影として一次元を見た場合に相当するの。つまり、この観覧車を上空から見たら」
「一番上。つまり【i】は0と同じに見えるってことだね。でも横から見たら実は高さがある」
「【i】を掛けるという操作が90度の移動であることは。つまり、普通の数字と直交していることを意味するの。でも【a+bi】という表記であたかも一つの数のように扱える。代数と幾何学の関係を示す最も綺麗な例の一つ」
「えっと代数……」
「簡単に言えば方程式。【i】はx^2+1=0という方程式の答えでしょ。でも、この点は数直線上にはない」
「なるほど、グラフィックとか物理学とかに虚数が使われる理由がちょっとイメージ出来たよ。うん、何というかすごい解りやすかった」
大悟はすっかり感心して春香に礼を言った。こうなると観覧車を使ったのは必然である。
「ORZLも平面でしょ。だから虚数は当然使われるわ。だからこれは基本中の基本。ただ……」
春香はそこまで言って、何故か窓の外に顔を背けた。観覧車は丁度【i】つまり一番上に来ていた。窓の下には遊園地の全景が広がる。
「ただ?」
ORZLと言う言葉に、大悟は理解できた興奮を抑えて聞く体制になった。考えてみれば、ここに来た理由は本来はORZLとLczなのだ。つまり、こんな初歩の初歩ではなくて、これからが本番の可能性がある。
「お礼を言わなくちゃいけないのは私だと思う」
「えっ、なんで?」
突然の言葉に大悟は混乱した。遊園地のチケットのことだろうか。それなら彼ではなく、母のやったことだ。そう思って春香を見ると、心なしか頬が赤い。
「九ヶ谷君。私に合わせてくれてるよね。休日なのに数学の話。折角遊園地にきてこんな話、観覧車で虚数の説明とかおかしいでしょ。流石にそれくらい私にだって解るよ」
僅かに自嘲的な笑みを春香は浮かべた。
「それは…………。その、合せてないとは言わないけど……」
大悟としては観覧車は虚数を理解する為にあると錯覚しかけていたが、普通ここに男女で入れば語らう対象は【i】ではなく同音異義語であろう。
「今日だけじゃない。いつも私の言うことをちゃんと聞いてくれるし。慣れない話でも理解して付いてきてくれる。ねえ、九ヶ谷君」
春香は大悟をまっすぐ見て、
「なんで私なんかにここまで優しくしてくれるの?」
言った。その真剣な表情、蠱惑的な問いかけは大悟を焦らせるのに十分だった。




