19話:前半 遊園地Ⅲ 【i】*【i】
「と言うわけで、九ヶ谷君の反論は成り立たない」
「無限大は卑怯じゃない?」
「卑怯じゃないわ。だってトータルだと0だったでしょ。これは量子力学の基本なの。それに、九ヶ谷君のブラックホールの蒸発の理由」
両手を組んだ上に細い顎をのせて聞いてくる春香。上機嫌だ。ここに来てから、いやこれまででも一番くらいかも知れない。
「ぐっ」
まさか、彼の奇跡的まぐれがここに来て彼に牙をむくとは……。春香にサイエンスのことでやり込められても全くもって悔しさを感じる必要などないはずなのだが。
「さあ、どう?」
春香はそう言うと、大悟の側に寄せていたカップや皿を自分の前に戻した。まるで、無から宇宙が生じると言わんばかりだ。
「と、取りあえず、話は解ったよ。まあ、完全に納得できたわけじゃないけど」
春香の言っていることは解った。所詮生命は、いや人間が作り出したゲームなど文明社会も含めて、最終的な宇宙の死までの泡沫だったとしても。その泡沫が頑張れば頑張るだけ、むしろ宇宙の寿命を縮めるとしても。宇宙の最後が無味乾燥な情報の砂漠だったとしても。
(いや、だからこそ何かがあるはずだ。その一時的なもがきの理由が……)
大悟は心を落ち着かせようと、コーヒーを口にした。さっきとげとげしく感じたコーヒーの酸味がマイルドになっている。
(冷めたからか? いや、普通は冷めたら……)
大悟は春香を見た。余裕の表情で彼と同じようにカップに口を付けた春香。彼女も首をかしげた。大悟は自分のカップを見た。黒ではなく、褐色の液体が入っている。と言うことは、春香のカップの中身は漆黒に違いない。
情報理論からそうなるのだ。つまり二人の飲み物の●と○がさっきのシャッフルで入れ替わったのだ。これも情報理論的に計算できる。
二人は同時に、カップを下ろした。
「…………ほ、他に聞きたいことはないの?」
「あ、ああ、ええっと、な、何でも良いのかな」
二人は揃って曖昧な笑みを浮かべた。流石に高校生になってカップの取り違えくらいで動揺するのは情けない。二人揃ってなかったことにすると決めたのだ。
「そ、そうだな、強いて言えば……」
大悟は必死に頭の中を探し回る。昨夜というか早朝の最後の記憶が思い出された。あの時彼はアンドも出てくるその数に、仕方なく数学の教科書を……。
「虚数についてかな」
「虚数?」
「うん、今回の件に関わるいろんな場所に虚数が出てくるんだよ」
大場の言っていたGPUコンピューティング。そして量子コンピュータ。電子のスピン。日常生活では全く役割がない様に見える、二乗したら-1になるおかしな数、【i】は専門分野では大活躍なのだ。
「それはそうよ。虚数は物理学の重要な道具だもの。ありとあらゆる所に出てくるわよ」
「そうなのか、いや、二乗したら-1になるだけの変な数だって認識しかなかったから」
「複素平面を使って複素数の計算方法は教えたじゃない」
「いや、後で調べたら複素平面って高校二年の範囲じゃなかったね……」
「…………ルーシアさんから虚数を使った座標移動についても聞いてたし」
「う、うん。えっと、本当に基本的なことを聞いていい? なんで【i】と【i】を掛け合わせたらマイナスになるの?」
「そこからなの!?」
春香が驚愕の表情を浮かべた。驚かれても大悟としては困る。何故なら彼の居場所は本来”そこ”なのだから。
「そんなに難しい話じゃないんだけど、そうね実際説明するとなると……」
高校数学の範囲をぶっちぎっておいて、春香はそんなことをつぶやきながら思考に沈んだ。困惑の春香の泳いだ視線が窓に向いて止まった。大悟はそちらを見る。ごく普通の遊園地の光景だ。
「春日さん?」
「最後のアトラクションが決まったわね」
彼女の視線の先にはゆっくりゆっくりと回転する巨大なアトラクションがあった。
◇◇
「まず基本からいきましょう。1×1は?」
コーヒーショップを出て、石畳の道に立った春香が言った。
「1だよね」
春香の後に続いた大悟は答えた。九九を知らなくても答えれるレベルだ。
「-1×-1は?」
「それも1」
「理由は?」
「理由って言われても、……そう決まってるんじゃないの?」
大悟は戸惑う。正の数と正の数を掛けたら正、正の数と負の数を掛けたら負。そして、負の数同士を掛けたら正。これがルールだと教わったのだ。そして、そのルールから外れる虚数が意味不明という話なのだから。
「仕方ないわね。いい、計算というのは幾何学的には点の移動として考えられるの」
「点の移動…………。ああ、だからグラフィックなんだよね」
大悟は虚数、実際には虚数と実数の組み合わせである複素数で、グラフィックを拡大縮小、移動変形されたルーシアの説明を思い出した。ポリゴンというのは極端に言えばその立体の頂点の移動なのだ。
「…………そういうこと。1を掛けるというのはおなじって事なの」
「1×1は1で、2×1は2……。なるほど、何に掛けても答えは掛けた相手とおなじか。変化無し」
「そういうこと。じゃあ次は-1を掛ける操作。まずは-1×-1という数式を(1×-1)×-1と変換するわ」
「えっと、うん。おなじだね。それで?」
「ここからが幾何学。向こうにあるあのアトラクションまでのまっすぐの道を数直線と考えて。そして、今私たちがいるこのカフェが数直線上の【1】とする」
春香は道の向こうの回転するアトラクションと、今立っている地面を指差した。その二つはまっすぐな石畳の道で繋がっている。
「半分の所にあるあの立木が原点【0】とする。すると目的地は【-1】。ここまでは良い?」
春香はノートにさらさらと図を書いた。
-1×-1=(1×-1)×-1
カフェ 木 アトラクション
+1 ー1
道 ー+ーーーーーーーーー0ーーーーーーーーーー+ー
「う、うん」
「じゃあ、まず1×-1を計算する。答えは?」
「-1」
「そう、この数直線上の位置の移動として考えたら?」
「1が-1だから。反対側に移動する。えっと、つまり-1を掛ける操作は、反対側に移すって事なんだね」
1に-1を掛ければ-1、2に掛ければ-2。確かに、0を挟んで正反対に飛ばされる。
「じゃあ、この答え【-1】にもう一度【-1】を掛けたら?」
-1×-1は1だ。つまり……。
「マイナスを掛けるのは反対側への移動なんだから。-1が今度は1になる。…………そうか、0を挟んで反対に飛ばされるって意味じゃ同じなんだ。マイナスとマイナスを掛けたらプラスって言うのはそういうことなのか」
大悟は驚いた。初めてイメージとして理解したのだ。
「そう、幾何学的にはそうなるの。じゃあいよいよ虚数ね。同じ要領で1×【i】は?」
「えっと【i】?」
「じゃあ【i】はどういう移動?」
「えっ、さっきと同じで現在の点【1】を【i】を掛けることで移動させるって考えるんだよね。えっと、答えは【i】なんだから【i】がどこにあるか解れば……あれ?」
大悟は困った。【i】×【i】が-1だと言うことは。【i】は1あるいは-1に近い数だと思われる。だが、数直線上に【i】などという点はない。
というか、さっきの話を理解したからこそ、ますます掛け合わせてマイナスになるのはおかしい。
「【i】はあそこにあるわ」
春香は立木を指差した。
「えっ、でも、あそこは0っていったじゃん。0と【i】は違うだろ。もし【i】が0なら【i】×【i】は0になるんじゃない」
「そうね【i】は0じゃない。でも【i】の位置はあそこなの。今度はそれを証明してみましょう。あのアトラクションで」
春香は道の向こう、自らが-1と定義したアトラクションを指差した。
2018/07/22:
来週の投稿は木、日の予定です。




