18話:後半 遊園地Ⅱ:コーヒーショップ談義
「つまり九ヶ谷君が言いたいのは、世界からだんだん珍しさが減っているのに、私たちの文明がどんどん珍しさを必要とするようになるのはおかしい、そういうことね」
春香はカプチーノを一口飲むと、言った。彼女の態度からは2種類の感情が垣間見えた。感心と、そして余裕だ。
「まずは九ヶ谷君の現状認識。つまり珍しさの減少は九ヶ谷君の思っているよりも遙かに深刻だって話をしましょう。これを触ってみて」
春香は口を離したカップを大悟の前に突き出した。大悟は恐る恐るカップに触れた。もちろん、カップの下の方だ。
「どう?」
「どうっていわれても……。暖かいとしか」
「そうね、このカップは暖かい。これは珍しい状態だってことは解るわよね」
「外気に比べて暖かい。つまりエネルギーの大きなコインが、カップの中だけに集まってるのが珍しいって話だね。えっと、このカップ自体がエンジン?」
恐らく顕微鏡レベルならカップと外気の間に空気の流れがあって、そこに風車をおけば回転する。
「正解。さて、このカップはこの後どうなる?」
「そりゃ、冷めていくよね。……つまり珍しい状態が消費されるってことかな」
大悟は答える。以前の話の復習の範囲だ。
「それであってるわ。じゃあ、これは?」
春香はカップを自分の前に置くと、再び大悟の前に手を差し出した。
「…………触れってってことなの」
大悟は思わず左右を確認してから小声で聞いた。春香は当たり前のように頷いた。大悟は恐る恐る手を伸ばして、春香の何も持っていない手に触れた。
「どう?」
「…………暖かいとしか」
自分の体温が上がることを自覚しながら大悟は言った。
「私の手はこの後どうなる?」
「…………暖かいまま?」
近くに座っていた男子高校生グループが、こちらに殺意を向けながらレジに向かう。
(違うんだ、これは実は物理学の講義で……)
「そう、私の手は珍しい状態を保ち続ける。その代りに起こることは?」
大悟が心の中で虚しい言い訳をしているのも知らず、春香は続ける。
「…………色々言いたいことあるけど、取りあえず質問に答えると、春日さんの体の中で珍しい配列。つまり、ブドウ糖が壊れて平凡な配列に変っていってる」
「正解。つまり、九ヶ谷君の言うように文明の進歩どころか、生命が自分の維持するだけで、珍しさを消費し続けるの」
「な、なるほど」
手を離すタイミングが解らない大悟はぎこちなく頷いた。まさか自分は手を離したくないのでは、などという危険な疑いが頭をもたげる。ちなみに、一応話にはついて行っている。生命というエンジンが燃料を消費し続ける、そういう話だ。
「生命を維持している珍しさの元は太陽で…………」
春香は窓の外に目を向けようとして、慌てて手を解いた。お母さんの隣にちょこんと腰掛けた小学生低学年くらいの女の子が、そのつぶらな瞳でこちらをじっと見ているのに気がついたらしい。
教育的に悪い教育をしていることに気がついたらしい。
「えっと、つまりね。九ヶ谷君の言ってることはあってるどころか、もっと深刻」
春香は自分の頬の珍しさを上昇させながら言った。
「なるほど、珍しさ20の状態を作るには100の珍しさが必要なんだよね。と言うことは20の珍しさを維持するだけでも延々と珍しさが消費される?」
「そういうこと。つまり、九ヶ谷君のいうもう一つも正しい。宇宙の珍しさは一方的に減少し続ける」
「じゃあやっぱり……」
「でも、それはおかしくはないの。宇宙全体の珍しさは減り続けてるけど。局所的に、つまり例えば地球上みたいに珍しい配置が維持、あるいは進むと言う状況はあり得るってこと。つまり、他の所の珍しさを消費して、自分の珍しさを保てば物理的に、つまり熱力学の第二法則を破ることなく珍しさの局所的な維持、増進は可能だってこと」
春香の言葉に大悟は首をかしげた。解らないわけじゃないのだが、それはやはりどこか不自然に聞こえたのだ。
「そうね、地球のエネルギー問題と同じだって考えるの。例えば珍しさを有限のエネルギー資源。石油としましょう。地球上の石油の量は減り続けてる。でも、石油の使用量はどんどん増えてる。そして、石油の消費によって動くエンジン、人類の文明は進歩し続けている。それも、石油を掘るため、石油を運ぶためなどに大量の石油を消費しながらね」
「なるほど。確か石油って言うのは大昔の生物だよね。つまり、昔に蓄えられた珍しさを今消費してるって感じかな」
なるほど、石油は有限だが石油を使って作り出される文明は進歩しうる。さっきより少しだけイメージ出来た。
「でも、結局それって一時的な話じゃない?」
だが、最後には石油は枯渇するのだ。
「そう。部分的なだけじゃなくて、一時的な逆転にすぎない。宇宙の珍しさは減り続けるから、最後は珍しさが全て珍しくない配置に変ってしまう。つまり、どこからも珍しさを持ってこれない。宇宙のあらゆる場所がおなじ温度になるわけね」
「宇宙のどこでも風車、つまりエンジンを回すことが出来なくなる……」
「物理学ではそれを宇宙の熱的死と言うの。私たちがこうやって生きているのも、ゲームのグラフィックを作り出しているのも、やればやるだけその最後の日を近づけているだけ」
春香はあまりに不吉な宇宙の最後を示した。今の人類の進歩そのものも、宇宙が不可逆的につまらない物になる過程で踊っているに過ぎない。その踊りすらも、宇宙の意味の寿命を縮めるだけ。
「珍しい配列、例えば表だけにそろえたコインは容易にランダムな配列になるけど、逆は滅多に起こらない。言い方を変えれば、珍しい配列が珍しくない配列になるためには、理由は必要ないの。珍しさだけはリサイクルできない。だから、この結末は不可避」
大悟の疑問に対する春香の答えは、とてもじゃないが休日の遊園地でする話じゃない、宇宙の死に帰結した。だが、大悟はうなずけなかった。今の話は大悟の疑問にある根本的な問題を解決していない。
「待ってよ。それはやっぱりおかしい。逆に、つまり時間を遡ればってことだけど。誰も、何もやってないのに、珍しい配置が宇宙の最初に大量に存在しているってことじゃないか。最初の珍しさはどこから来るのさ」
珍しい配置はエネルギー、つまり元々あった珍しさを浪費して”作り出される”のなら、最初になければいけない。石油だって、遙か昔に珍しさを大量に消費して作られたのだ。だが、宇宙の場合はどうだ。
誰も作っていないのに”珍しい”という状態が必要だ。それは大いなる、根本的な矛盾のはずだ。そう思って春香を見る。だが、彼女の余裕の表情は、さっき別の要因で崩れていた時と違い、揺るがなかった。
「ふふっ、九ヶ谷君は自分の仮説を忘れてるわ。今の矛盾、実はコインの裏と表で説明可能なの。ブラックホールの蒸発とおなじ原理でね」
そして何とコインの話とブラックホールの蒸発を宇宙開闢に繋げると言ってのけた。
「いい、宇宙が始まる前にも空間はあったと考えるの」
春香が言った。眉につばを付ける暇もない怒濤の展開だが、大悟はうなずけない。
「空間はあった?」
「そう、広さ無限大の空間。宇宙という区切りがないんだから、無限大の広さというのはおかしくないでしょ」
「おかしいような気がするけど。だって、そこにエネルギーとか珍しさとかがあるんじゃインチキでしょ」
宇宙の前に珍しさがありましたでは、じゃあその珍しさはどこから来るのと言う問いが繰り返されるだけだ。それこそ、神様をもってくるしかない。
「心配しなくても良いわ。その空間は九ヶ谷君がイメージしている意味でのエネルギーも珍しさもゼロ。そうね、空のテーブルみたいな物だと思って良いの」
春香は自分の前にあったグラスや皿を大悟の方に移動させて、自分の前を何もない状態にした。
「私の前のテーブルが宇宙が生まれる前の何もない空間。九ヶ谷君の前にはいろいろな物が存在する生まれた後の宇宙。そんな感じに考えて」
「解った。でも……、えっとこういうグラスが出来るのも、珍しさを消費してるんだよね。グラスは宇宙で出来たものだから。その空のテーブルからこの状態にするのは難しいんじゃない?」
色々言いたいことはあるが、大悟は一応前提を受け入れた。いくら無限大の広さがあっても、そこに何もなければ意味がない。0はどれだけ有ってもゼロ。この例えなら彼の疑問は維持される。
「ところがそうじゃないの。そこでブラックホールの境界の話。あそこでは何が起こってた?」
「えっと、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが同じだけ出てきて、マイナスのエネルギーがブラックホールに吸い込まれて、プラスのエネルギーが出ていく」
「そう。九ヶ谷君。1-1は?」
「……0だけど」
その数式は確かに彼があの仮説発表会で書いた物だった。
「ええ、じゃあ始めましょう」
春香は財布を取り出すと、テーブルの上に硬貨を並べた。
「いい、表のコインをプラス1のエネルギー、裏のコインをマイナス1のエネルギーと考えるの。つまり、」
○●○●○●○●○● =0
「この配列はトータルでエネルギー0と言うわけ。これが宇宙誕生前の空間で起こっているとするわね。さて、こうやって半分の確率で+1と-1が発生し続けると……」
春香はコインをくるくると裏返す。
○○○○○○○○○○ =+10
「1024回に一回の確率でこうなる。つまり+10が生まれるわけ。+20のエネルギーを生み出そうとすれば100万分の1、+30なら10億分の1。エネルギーを十増やす度に必要な確率は千倍づつ増えていく。けど……」
春香は大悟に答えを促した。
「宇宙が出来る前の空間は無限……」
インチキと言いたいが、インチキではない。何故なら同じ確率で-10や-20という状態が生じているから、つじつまは合っているのだ。プレ宇宙のエネルギーはトータル0。彼の敗北は、春香の前提を受け入れ、ブラックホールの蒸発を認めた段階で決まっていたらしい。
「そういうこと。何時か必ずそれは出来る。ううん、無限大の空間があればそう言った局所的な偏りはどれだけ大きくても無限大個発生する」
春香は天文学的な確率を天文学的スケール、いやそれ以上の無限大で無理矢理解決したのだ。というか、いつの間にか宇宙誕生が、情報処理の…………。
大悟は思わずつばを飲み込んだ。天文学的な大きさの深淵が目の前に見える。
「じゃあもう一つ面白いメタファーを教えてあげる。例えば宇宙が出来る前の空間にこういった……」
○●○○●○●●○●
「なんてことのない珍しくない配列があったとするよね。ここに、この配列の全てを知って、表のコインつまり+1だけを集めることが出来るような存在。つまり、マクスウェルの悪魔が居たら、なんて言われるかしら」
春香はノートにさらさらと図を書いて、それを大悟の前にさっと出して見せた。
○
○○○
○
M ↑
● ● ●● ●
「それ悪魔じゃない……」
大悟は額に手を当てて、首を振った。目の前の女の子は罰当たりにも創造主を悪魔に例えたのだ。ゲーム世界ではその手の悪い神様はむしろ定番だが、リアルがそうだと言われても嬉しくない。というか……。
「でも、実際にはマクスウェルの悪魔は必要ない。宇宙の始まる前に統計的エネルギーゼロの空間が無限大の広さあれば、100パーセントの確率で局所的に巨大なエネルギーが発生するから。さて、これで九ヶ谷君のいった宇宙の始めに珍しさが必要だという問題は解決したわね」
「……そ、そうかもしれないね」
大悟はぎこちなく頷いた。
「私たちは今そうやって全くの偶然の結果生じた珍しさの塊の中で、その珍しさを一瞬一瞬浪費しながら、こうやって生きてるってこと」
大悟は提示された深淵に圧倒される。情報理論、ビットとコインの裏表。それは極言すれば、単にコインを投げたら表と裏が半々に出るという、法則と言うもおこがましい単純で当たり前のことを基盤においている。
なのに、そこから宇宙が誕生してしまった。




