16話:前半 普通のビット
薄暗い開発室にキーボード音が二重に響いていた。無機質な音の並びがあざなえる縄のごとく重なっては離れる。正気を削られそうなBGMを奏でている。
奏者は和洋の美少女だ。部屋にいる唯一の男子である大悟は、本来ならもっと良い気分でも良いはずなのに、と非生産的なことを考えていた。
もっとも、隣のオフィスで一人関係各所に電話をかけたり、表計算ソフトのマスを必死に埋めてる達也に比べれば恵まれてるだろう。と言うか、彼はまともに仕事をしていない。
やってることがインターンかと言われると絶対に違うと断言できるが、二人の女子は己の専門に打ち込んでいる。春香は自分のノートパソコンで必死に折り紙を繰り返し、ルーシアは延々とプログラミングをしている。
(もしかして、僕だけタダメシぐらい?)
いや、彼には最終日までに例の説明を完成させる仕事がある。このプロジェクトの命運を左右しかねない、インターンとしては別方向に間違った任務だ。
つまり、それさえ出来ればオッケーでそれが出来なければ全て駄目。一種の成果主義だろうか。
「……とにかくやれることをしますか。えっと、ルーシアさんちょっと質問があるんだけど……」
今から金髪ハッカーに聞く内容のショボさに気後れしながら、大悟は留学生に声をかけた。
「コンピュータの基本? 量子コンピュータとかじゃなくて普通の? 何で今更、DAIGOはHARUKAのパートナーでしょ??」
大悟の質問にルーシアは驚いた顔になる。
「パートナーっていうか……一応そうだけど。僕の知識は彼女の足下にも及ばないんだ」
英語でパートナーというのはどういう意味だろうと少し悩みながら、大悟は己の無知をぶっちゃけた。今から聞くことを考えれば隠す意味がないのだ。
春香のせいで彼を知らない誰もが、過大評価してくる。本当の彼など、こんなものだというのに。
「具体的には普通のコンピュータ上で情報、ビットがどういう形で存在しているのかを知りたいんだ」
「半導体チップ上の0と1の物理的状態ってこと?」
「うん、多分そう」
気がついたら春香が二人の方を見ていて、大悟の答えに眉間に皺を寄せた。そんな基本的なこと教えたでしょと言わんばかりだ。ちなみに聞いていない。
「半導体には基本的にP型とN型があって、それぞれエレクトロンの余剰と、不足の……」
「ごめん。もうちょっとだけ、基本からお願いします」
春香の表情の気圧が更に低くなるのを見ながら、大悟はルーシアに頭を下げた。
「うーん、じゃあ。えっとね、コンピュータ回路のビットって言うのは要するにスイッチのオンとオフなのね」
「オンとオフ」
大悟は繰り返した。確かに春香の説明あるいはさららの説明にも出てきた気がする。要するに二つの状態があればそれがビットなのだ。つまり、オンがコインの表、オフがコインの裏みたいな感じだろう。
ようやくコンピュータと抽象的な情報が繋がった。大悟はほっとしながら続きを聞く。
「そのオンとオフって言うのは結局はどういう物理的状態の違いなの」
「オンっていうのは電流が流れるってことで、オフは電流が流れない。でも、この流れる流れないって言うのはあくまで決めた基準以下、以上ってこと。だから、実際にはオフでも電流は流れる。と言うわけで、単純に言えば電子が多ければオン、少なければオフって感じかな」
「えっと、電流の流れって言うのは……」
これは多分教科書の内容だよなと思いながらも、大悟は聞かざるを得ない。春香は自分の作業に戻っている。ただ、大悟の質問の度に、心なしか奏でるキーの音程が上がるのだが、それは聞かないことにする。
「回路って言うのは要するに何かが流れる通路と、その流れを制御しているゲートで出来てるのね。電子回路の場合は流れてるのは電子。例えばコンピュータに情報を入力するときは……」
ルーシアはディスプレイに長方形の身体に8本の足が付いた図を出した。
「例えばこういうチップなら足の一本一本に電流、電子を流すか流さないかで入力する」
「えっと……、例えば一本目に電流を流して二本目には流さない、三本目には流す。だったら101ってこと?」
「そんな感じ。このチップは一度に8ビットの情報を受け取れる。あるいは発信できるって感じだよ」
「なるほど、つまり256通りの状態の中の一つ、あるいは0から255までの数字の一つを入力、あるいは出力するって感じか」
「なんていうか、DAIGOの知識って偏ってるね。シャノンのエントロピーのこと解ってるみたいなのに」
ルーシアはなんでこんな基本的なことを説明しているのかという顔で続ける。それは大悟の責任ではないのだ。
「いや、その情報の抽象的な性質とかは今は良くて……。えっと、つまり、電子が沢山流れてたら1で少なかったら0だね」
結局は電子の問題か、と大悟は彼の理解に合わせて単純化した。そう言えば、春香の仮説は電子の性質がLczでアレンジされているって感じだった。
(何か、関係あるのか……)
大悟の脳裏に微かなイメージが浮びそうになって、消えた。気がつくとルーシアがこちらを見ている。
「ありがとう大分解ったよ」
大悟は礼を言った。今度母のクッキーあたりで形にしなければならないだろう。ルーシアの好みを聞いておこうかと考えた時、彼は綾の言葉を思い出した。
「そう言えばルーシアさんはどうしてPRISONにそこまで熱心なの?」
ほんの軽い気持でそう尋ねた。
「私にもしコンピュータ技術がなかったら、私は今頃娼婦をやってたかも知れないから、かな」
「えっ、しょ、娼婦」
突然出てきたドラスティックな単語に大悟は戸惑った。ノートパソコンとにらめっこしてた春香がばっと顔を上げた。大悟に視線が突き刺さる。欧米ではセクハラの基準が高いと聞くが、今のは大悟の責任ではないのに。
「えっと、そう言うのって年齢的に無理じゃ……」
日和ってるなと思いながら、大悟は苦し紛れにそう返した。
「スラムにそんなルール意味あるの? ちなみに、私のママはメキシコ移民で17で私を産んだ。パパは誰か知らない。ママともここ五年は連絡取れないけど」
ルーシアの口調には冗談はもちろん、何か強い色はない。まるで事実を淡々と言っているようだ。大悟は頬が引き攣るのを感じた。
「私が生まれたのは世界最大の経済力と軍事力を持った国家だよ。でも私を守ってるのは私の技術。そういうことかな」
つまり、国家が頼れないから自分の技術を重視していると言うことだろう。日本にも「手に職を付ける」と言う言葉はある。そして、ニュースなどを見ていれば日本という国家に対して悲観的な情報には不足しない。
だが基本海に囲まれた平和な国に生きているせいだろうか。こういった強烈な国への不信は、彼には分からない感覚だった。ある意味で空気のように当たり前にあると考えているからだろう。
前に綾が「日本人の大部分は自分が日本人だと意識しても、日本国籍は意識しない」と言っていたのを大悟は思い出した。
その考え方の是非はともかく、ルーシアが自分の技術で世界を股に掛けているのは凄いと思う。そして、そういうことなら確かに繋がる。
「なるほど。それで中央の管理。えっと、つまり国家がなくても成り立つブロックチェーンって仕組みなんだ」
世間話のつもりで、思ったより深い何かを掘り当ててしまったが、彼は目的のルートに到達した。
2018/07/01:
来週は週末前後が忙しくなりそうなので、投稿は木曜日の一回の予定です。




