15話 情報収集
「…………はぁ」
隣の隣の席から小さなため息が聞こえた。さっきまでノートの上で動いていた手が止まっている。その手がもう一度動き始めようとして、わずか数センチで止まった。
春香はノートを閉じて、ペンを置いた。
「ねえ、春香。週末のことなんだけど……」
それを待ちかねたように、隣の女の子が春香に話しかけた。どうやら洋子と春香は日曜日に遊びに行くらしい。春香が誘ったようで、洋子は楽しそうだ。だが、春香はどこか心ここにあらずで応じている。
「ねえ、春香元気ないんだけど」
最後の授業の前、大悟は洋子に廊下で捕まった。
「そうみたいだね」
「九ヶ谷のせいじゃないの?」
「そんなわけないだろ」
仮説勝負に仮に二回戦が存在したとしても、大悟は一回戦があったことすら認めてないが、今回は思いつきもしなかった大悟の完敗だ。ただ、春香の性格上、部分点に価値を認めそうにないということ。
「じゃあなんで、あんなに落ち込んでるのよ。インターンのこととは関係あるんでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど。これって必ずしも……」
「悪い傾向じゃない気がする」という言葉を大悟は飲み込んだ。彼から見れば、自分の仮説を考えたことが進歩に見える。だが、春香にとって答えは正しいか、間違ってるかなのだ。
それはもう性格の問題であり、彼がどうこう言える物ではない。だいたい、それが春香らしいかと問われると、そうだと答えそうな自分がいる。
(ただ、春日さんがやってること自体は前回とは変らないよな……)
大悟は気がついた。仮説を思いついたのは大きな変化とはいえ、理論的計算とシミュレーションの繰り返しというのは。
(やっぱり周辺の空白の情報が必要なんじゃないかな)
「なんかいやだけど、理由分かってるならなんとかしなさいよ」
「解ってるよ」
大悟は思わずそう答えていた。気がつくと洋子が驚いた表情で彼を見ていた。
◇◇
「と言うわけで春日さんの視界に入らない情報を集めようと思うんだ」
「ふーん、そう」
学校帰りのラタンの店内で綾が気のない返事をした。
「なんだよ」
「別に。春日さんは部屋で、私はカウンターだなんて思ってないけど」
「いやいや、今日は店が閑古鳥鳴いてる――」
「どうぞ、綾ちゃん」
母が大悟を睨みながら綾にティーカップを出した。
「ありがとうございます」
「良いのよ、代金は大悟のお小遣いから引くから」
「ちょ、これって一番高い葉っぱの……」
カップの模様を見て大悟は悲鳴を上げた。
「お店が空いてるから売り上げに貢献してね」
息子の抗議をそう切り捨てて、母は去って行った。この時間空いているのは通常のことなのに理不尽だった。
「それで?」
これ見よがしにカップに口を付けてから綾が言った。
「そうだった、えっと。綾に聞きたいのは犯人の動機についてどう考えるかなんだ」
「まあ、そこら辺は春日さんは気にしてないよね。うーん、この一杯分くらいは協力してあげても良いけど、ケーキも付けてよ」
「それ、一杯だけって言わないぞ」
「いやいや、この一杯を最高に味わうためには必要でしょ」
「……解ったよ」
大悟は母に一番安いカテゴリーの中から、綾の好物のシフォンケーキを選んでオーダーした。綾は椅子を大悟の方に傾けた。
「仮に量子コンピュータで暗号が解けたと仮定するでしょ」
「解けないから困ってるんだけど」
「今重要なのは?」
「犯人の動機、だったな」
スタートから考える春香、ゴールから考える綾。どっちつかずの大悟としてはその両方の意見を聞いて整理するしか出来ない。ならはまずは聞くことだ。
「仮に犯人の手元に量子コンピュータ、春日さんが想定する高性能なのがあるとするよね。今回の事件に関して私の感想は一言。ショボすぎ」
「ショボすぎ?」
「そう、今回の流出事件は規模が小さすぎる」
「そうなのか? 外国のことなのに新聞にまで載ってたぞ」
達也が疲れていた顔をしていた日の朝刊だ。アメリカの大手製薬会社が、集団訴訟だか行政指導だかで潰れるんじゃないかって話になってた。
「それでも。いい、犯人がこの流出から経済的利益を得ようと思ったら……」
綾は株価のグラフをスマホに出した。
「一番単純にはスキャンダルで暴落する事が確実な製薬メーカーの株をあらかじめ空売りすることだね」
「空売り?」
「そう、例えばこのラタンで実は食中ど…………、違います晴恵さん。今のは例えを間違えて」
クリームを添えたシフォンケーキの皿を持った大悟の母がくるりと背を向けた。綾が慌てて呼び止めた。
「ええっとつまり、暴落前に株価が100円の時に株を借りて、その株を売って100円を得ておく。そして、暴落後十分の一になった株を10円で買い戻して返すことで、90円の儲けって事か」
甘いケーキをインプットした口から、えげつない投機の説明を出力した綾。大悟はなんとか理解した内容をまとめた。
「ほうゆーことね」
唇に白いクリームを付けて綾が言った。口の中の水分が足りていない。なるほど、”シフォンケーキを”味わうためには紅茶は必須だよなと大悟は思った。
それはともかく、暴落を知っていれば確かに儲けれる。
「今回の暴落で失われた複数の製薬企業の時価総額は40億ドル。つまり4000億円って言われてる。でも、証券売買を監視している機関だってある。流出のスケジュールを考えると、デリバティブなんかを組み合わせて誤魔化すのも限界があるんじゃない。今回のスキャンダルはタイミングを犯人がコントロールできないしね」
確かに副作用の発生そのものはいわば偶然だ。それも、千人に一人とかそういうレベル。医療的には大問題でも、それが臨床試験のデータに表れるまでは、時間も掛かるしタイミングも計れない。
「そもそも、仮に暴落で消えた時価総額の10パーセント、つまり400億円を獲得したとしても、本来出来ることの価値に比べれば全然ショボいでしょ。下手したら世界中の全ての情報を盗み見れるかも知れない方法だよ。この手のことは一度やってしまえば次からは警戒される。ほぼ無限の富と同等の手札をこんなショボい勝負で切るのは不思議ってこと」
「なるほど。確かに……」
春香の仮説は高性能の量子コンピュータの実現だ。ターゲットはPRISONだけである必要もない。
「と言うことは、犯人が取った方法にはPRISONじゃないと駄目な点があったってことか」
「可能性の一つだね。まあ、正直それでもショボいと思うけどね。PRISONはこれからって技術でしょ。もう少し待てばもっと大規模な事件に出来たんじゃないかな」
「他の可能性は?」
「流出事件を引き起こすこと自体とか、動機で言えば例えば……」
綾はクリームの付いたフォークを大悟に向けた。
「個人的恨み。あるいは……」
綾はフォークの先をケーキに向けた。
「正義のため、とか?」
甘いものは正義らしい。こっちは冗談だなと大悟は思った。
「で、今後はどうするの」
「今更だけどさ、次は普通のコンピュータの仕組についてちょっと調べてみようと思う。ほら、考えてみればコンピュータについて全く知らないんだよ。明日のインターンでルーシアさんにそこら辺のことを聞いてみるつもりだ」
「また別の女のところに行くのね」
「変な言い方するなよ」
「ルーシアさんが転校してきたこと、PRISONに関与してること。いろいろタイミングが良すぎるって話じゃなかった?」
「いや、まあそうなんだけど、彼女のこと見てる限り全然そんな感じじゃないんだよな。大体、僕らから情報収集なんてそれこそショボいだろ。さららさんとかならともかく」
「まあね。ちなみに、彼女はなんでPRISONにそんなに熱心なのかしらね。そりゃ、技術的に面白いって言うのはあるんだろうけど」
綾が首をかしげた。転校生のことも何も知らないということに、大悟は気がつかされた。




