14話 量子耐性
「つまり、量子コンピュータがあるって仮定してみるってこと?」
フェリックスの秘密の開発室で、ルーシアが首をかしげた。彼女の目はHMDに覆われたまま。目の部分に光のラインが行き来しているのが少し不気味だ。
「そうなの、そういった仮定によって、今回の流出事件はどう解釈出来るかなって思って」
春香の声にはわずかに緊張がある。本質的にと言うか、こういう話題に関しては本当に本心を隠すのが下手だ。
「あくまで思考実験として、ルーシアさんの意見を聞きたいの」
思考実験というところでちらっと大悟を見た。ゲームのシナリオ、あるいはフローチャートを作ってるつもりの大悟は一緒にして欲しくない。主に彼の精神安定のために。
「うーん。確かにその条件ならPRISONも絶対安全とは言い切れないかも。でも……」
ルーシアはあくまで仮定と思っているらしい、あっさりPRISONの破れる可能性を認めた。
「二つ問題があるかな」
ルーシアはHMDを額に上げると、ディスプレイに文字のリストを呼び出した。
「リリースノート?」
「そう、情報流出が起こったのはこの日だよね。その前のアップデートで組み込まれた機能がこれ」
「格子理論を使った暗号処理……」
「そう、JAPANで開発されたやつだね。というわけで実装された暗号アルゴリズムには量子耐性があるの。ベクトル計算で必然的にコンピュータの計算速度が遅くなっちゃうから、PRISONでもパブリックチェーン型では採用されてないオプションだけど……。えっと、あった、これだ」
ルーシアがキーボードを叩くと、前に見た製薬企業の名前が書かれたページが出る。
「臨床試験のこの案件はプライベートネットワークでしょ。組み込まれてるね」
「そ、そうなんだ。でも、量子アルゴリズムの進歩は著しいし、例えばQビットの数を2の10乗つまり1Kまで増やせたとしたら?」
春香が焦りを浮かべながら言った。
「……かなり無茶な設定になってきたね。うーん、でも、まともにやろうとしたら……。あっ、ちょっと待って。S.I.S.が久しぶりにインしてるみたいだから聞いてみる」
ルーシアは再びHMDをかぶると、英語で話し始めた。しばらく大悟には解らないやり取りが続いた後、
「はい。これ」
ルーシアが再びその瞳を見せたとき、ディスプレイには複雑な回路図が広がった。円に十字をはめ込んだような記号があちこちに見える。
「アダマールゲートがこれだけの並列処理を……」
「新しく実装された格子暗号を量子コンピュータで解こうと思ったら、最低でも2Kキュービットを扱える量子メモリーが必要って感じだって」
「2K……」
確か大悟のスマホのメモリーが3ギガだった。つまり個人の手の中にある小型機器の千分の一の更に千分の一のメモリー。だが、春香の言葉が明らかに勢いを失った。
「後、こういった量子変換をするゲートが必要になる。まだ理論上にしか存在しないやつだって」
ルーシアは今度は小文字のhの入った円にカーソルを合わせた。
「これ、調べていい?」
「どうぞ」
ルーシアが頷く。春香は記号から拡大された訳の解らない数式を自分のノートパソコンに打ち込み始めた。ルーシアはそんな春香の様子をしばらく見ていたが、自分の作業に戻った。
春香のパソコン上で、僅かに形の違う二つのORZLが回転している。隣り合ったその二つは尖った一カ所で衝突しては、揺れて離れるを繰り返す。春香がいくつかのパラメータを操作するが、二つのポリゴンの衝突は止まらない。
「だめ、どうしても干渉しちゃう」
春香がため息をついた。
「干渉って?」
「普通の空間と相互作用しちゃうってこと。解りやすく言えば回転するコインが無視し得ない確率で勝手に倒れるってこと」
「つまり量子コンピュータは無理だってこと?」
「無理じゃない。それを考慮してもこのORZLの空間なら最新の量子コンピュータと比較しても桁違いのQビット数を実現できる。出来るんだけど…………さっきの計算を実行するには全く足りない。誤り訂正も考えると絶望的」
「誤り訂正?」
「簡単に言えば、突発的なアクシデントでビットが反転、つまり0が1になったり逆が起こった時、それが起こったことを検知する方法。普通のコンピュータでも用いられていて有名なのはハッシュ関数」
春香が液晶にアルファベットと数字の羅列を呼び出した。パソコンで大きなファイルをダウンロードするようなときに付いているのを見たことがある。ダウンロード中にノイズや通信障害によってデータが一部でも変更されたら検出出来るらしい。
「Qビットは古典ビットよりもずっと不安定。もちろんLczを使えば突発的エラーも大幅に低減するけど、それでも必要となるメモリー、つまりQビット数が増えれば増えるだけエラーの確率も上がる。増えれば増えるほど、加速度的に……」
量子コンピュータではなく、春香の表情が絶望的だ。自信の仮説が否定されて完全に元気を失っている。
「えっと、解決すべき条件が解ったってことは、一歩前進じゃないの?」
「解ったようなこと言わないで。量子コンピュータのこと何にも……。ごめんなさい」
「いや、まあ、解ってないのは確かだからいいんだけど……」
大悟なら解らないことが見えたら、空白の周りを覆う霧が少し晴れたように感じる。だが、それは彼が曖昧なイメージで考えているからだ。
春香は恐らく最初から空白を直接狙い撃つことを考える。これまで彼女から散々この手の話を聞いたり、前回の彼女の失敗をみていると解るのだ。
「やあ、調子はどうかな」
突然ドアが開いて、達也が顔を出した。表情に疲労がある。春香が口を噤んだ。もちろん大悟も沈黙だ。彼にはそもそも最初から言うべき内容がない。
「僕にも解る説明、楽しみにしてるよ」
達也は大悟にそう言ってドアを閉めた。皮肉と言うよりも、向こうもいっぱいいっぱいに見える。
(説明って言われてもな)
彼は春香の仮説を説明すれば良いとばかり思っていたのだ。インターン終了まで後一週間と少ししかない。もちろん春香のさらなる一歩前進に期待したいところだ。だが、それを待つだけというのは流石に情けない。
それに今回春香が一歩前進したというのは、彼の偽らざる気持ちだ。
(だけど、僕に何が出来る?)
改めて開発室を見た。ルーシアがキーボードで打ち込んでいるプログラム。春香がパソコン上でシミュレーションを繰り返すORZL。言うまでもなく、どちらも解読不可能な暗号だ。
この暗号で処理されているさらなる暗号など、彼の手に届くわけがない。
(本丸攻略は春日さんに任せるとして。こっちはいつも通り周辺の空白を埋めていくしかないんだけど……)
脳内に攻略チャートの片鱗を描こうとした大悟、だが彼はその時あまりに基本的なことに気がついた。春香のレクチャーで超高度な情報の概念を知ったように錯覚していた。だが、考えてみれば量子はおろか普通のコンピュータすら、どうやって動いているかなど知らないではないか。
2018/06/24:
来週の投稿は木、日の予定です。




