6話:前半 ゲーム項
父の書斎のホワイトボードにいつも書かれていた数式。まるでロボットの型番を覚えるように、あるいはその頃好きだったアニメの呪文を口ずさむように、ただ暗記しただけのギリシャ文字の並び。父がいなくなった後、そのまま残してある色あせたボードに今も書いてあるであろう意味不明な暗号。
それが、怪しい物理学者の怪しい地下研究室に書かれている。
大悟は混乱した。父は物理学者ではなかったはずだ。偶然か?
「ゲーム項に興味あるの?」
「いや、えっと、そのえっと………………。あの、それ一体何なんですか?」
自分が釘付けになっている記号に対して、それは何かと問う。間抜けな話だが、彼にはそうとしか言い様がなかった。
「繰り込み群に興味あるなんてあり得ません。算数以上の知識はないはずです」
春香が言った。繰り込み群? 聞いたこともない言葉が二つ目。大悟の混乱に拍車がかかる。
ゲーム項について父に質問したときも、父の説明はその度に変わったことを思い出す。おまわりさんが犯人を追い詰める方法、核戦争、リニアモーターカー、コンピュータによる勉強、そして氷の結晶。それぞれの内容も全くと言って良いほど理解できなかった。
唯一理解できたのが伝統的なゲームにまつわるお話。
「将棋で王が取られる前に、勝敗を決める方法……」
大悟は思わずそれを口にした。春香はキョトンとした顔になる。だが、さららはポンと手を叩いた。
「うん、だからゲーム項。もともとそっちの分野で発見された数式だからね」
「ゲーム項ってどういう意味ですか、僕は……」
「ゲームを研究している」という父の言葉。何かのアヤだとばかり思っていたが、何か関係するのだろうか。
「ほら理解してない。適当に指差しただけ。このレベルの人間に説明なんてどれだけ時間が掛るか。それよりも、さっき出たシミュレーションの結果を整理しないと。あの男がなんて文句を言ってくるか……」
春香が口早にまくし立てる。抱えている仕事に締め切りがあるようだ。当のさららはどこ吹く風という感じだが。
「小笠原さんも学食に行きたいなら急がないといけないんじゃない?」
綾が大悟の方を見た。任せるという意思表示だ。綾はもしそちらを優先すると決めたら自分で席を立つ。
春香の言葉に従って引き返すことは出来る。ちらっと時間を確認する。ここを出て、予定通り学食に寄って帰る。それで今回の件は終わりだ。なんなら、途中で研究所の写真を一枚撮ってもよい。
様子のおかしなクラスメイトのことも忘れてしまえば良い。二度とここに来ることなどないし、すぐに夏休みだ。
今回のイレギュラーなシナリオは彼の中でなかったことになる。ゲームじゃない現実では、イベントから逃げても先には進める。
大悟はもう一度、ホワイトボードを見た。
高尚な物理学や数学がクリア条件なら、これは解けないイベントだ。ゲームで言えばバグということになる。ここに至るまでに立てたあり得ないフラグの数々を考えると、恐らくこのバグは仕様であると思われる。例え運命の神でも、こんなルートまでデバッグはしてないだろう。
でなければ負け確定イベントだ。主人公ならこの手のイベントは飛躍の切っ掛けになるが、彼は自分を現実ゲームの中のモブと理解している。負けイベントに巻き込まれたパンピーの顛末など決まっている。
大悟が何も理解していないことが解れば――事実してないし出来ない可能性が絶望的に高い――せっかく晴れたストーカーの疑いが復活しかねない。
「数式が分からないと理解できない話ですか」
それでも彼には未練があった。
「数式無しで説明してあげても良いよ。イメージだけになるけど。物理学はイメージが大事だからね」
「その研究が春の事故の原因と関係してるんですよね」
「うーん。正確に言えば、事故の原因となる現象が私の研究対象。同じ現象によって起こった事故はコレまで幾つか存在している可能性があるんだけど。これだけデータが揃ってるケースは貴重なんだ。で、どうするの?」
原因不明の科学事故とゲーム、未だに何のことか分らない。だが、それらに繋がりがあるのだとしたら……。
「お願いします」
大悟は言った。対面の春香があからさまにため息をついた。
「決まりね。じゃあ講義を始める前にこれを見てもらおうかな。勿論、知ってると思うけど」
さららはテーブルの上に小さな紙を置いた。綺麗な錦の模様が描かれた正方形の紙。先ほどホワイトボードの前で探していたものだろう。講義という言葉に身を固めた大悟は目の前に置かれた紙切れに、首をかしげた。
「折り紙?」
綾がつぶやいた。さららはにやりと笑うと手早くそれを折り始めた。正方形が三角形になり、やがて菱形になる。最後に空気が吹き込まれた。
確かに知っている。手順を覚えているかと言われれば自信がないが、大悟もやったことがある。
さららの手から離れたそれが、テーブルの上で羽を広げた。平面から立ち上がった鳥の姿。
「Organic Reconstructed Zone Lenmma。これが私の理論の名前。日本語に訳すなら、有機的改変空間定理。ややこしいから略してORZLって覚えて」
小学校低学年の遊戯のようなふざけた名前、それがこれから聞かされる物理学の名前らしい。
さららは「ハル、あれをお願い」というと鶴を置いて、ホワイトボードに向かう。春香は大悟を睨むと、立ち上がりシンクに向かった。
春香から氷が一つ浮んだ透明なグラスを受け取ると、さららはホワイトボードの前に立つ。
「さて、どこから始めようかな。やっぱり宇宙開闢からかな」
不安を感じさせるようなことを言いながら、さららはにわか受講生達を見る。
「さて、宇宙の始まりって何だと思う。はい、ダイゴ」
いきなりの質問に大悟は慌てた。答えの候補はある。だが、その陳腐な単語の響きが彼を躊躇させた。
彼を後押ししたのは戻ってきた春香の目だった。勘違いでなければ、足し算の授業に付き合わされる高校生の顔だ。
「……ビッグバン…………とかですか」
「正解」
大悟がおっかなびっくり答えると、さららは頷いた。
「ビックバンっていうのは、宇宙の全てが一点から始まったって理論だよね。じゃあ次の質問。宇宙の全てっていうのは何だと思う? アヤ」
「……物質とか……、えっと空間とか、ですか」
「その答えだと百点満点中40点。残り三つあるってことね。一つはエネルギー。まあ、物質とエネルギーは等価だけど。もう一つは時間。空間と一体だけどね。正確にはエネルギーと時空と、そして最後にもう一つ。その一つが今回の事故と関わる」
空間、時間、エネルギー、物質。全て網羅しているように見える。他に何があるというのだろうか。
「それは力の種類、言い換えれば物理法則なの」
意味が分からない。物質はもとより、エネルギーも空間も存在するものだ。物理法則が実体ではないことは大悟にだって解る。
「現在の宇宙には四種類の力がある。電磁力、強い力、弱い力。そして重力の四つ。ちなみに、物理学者はダイエットに成功する一番簡単な方法は重力を変えることだって信じてる」
さららの冗談に、春香と綾がちょっといやな顔をした。二人ともそんな心配は全くないと思ったが、大悟はもちろん黙っている。
「力ってエネルギーと違うんですか?」
綾が質問した。
「力の法則って言うのはエネルギーが働く形式みたいなイメージかな。例えば……」
さららはホワイトボードに二つの方程式を書いた。数式は使わないのではなかったのか。
「あっ、これ理解しなくても良いよ。右が電磁力、左が重力の方程式なんだけど。形が違うでしょ。方程式の形が違うと言うことは、力の働き方がちがうってこと」
ちょっとだけイメージ出来た。
「レシピが違うと同じ材料でも出来上がるケーキが違うみたいなものですか」
大悟は言ってからしまったと思った。春香がまたため息をついた。
「なかなか上手い例えだね。大体それであってるよ」
だが、さららは感心したようににこりと笑った。
「さて、いろんな調理法があることが食事を豊かにするように、異なる力が存在することは重要なの。私たちが存在できるのは太陽という恒星からのエネルギーがあるから。太陽のエネルギー源は強い力。それが重力により着火された核融合反応で解放されて電磁力、光という形で地球に注ぐ。力の分離が私たちが今見ている世界を支えて、そしてそこに住む私たちを作ってるわけ」
さららは一気にそう言うとグラスを取り、一口飲んだ。
「でも、宇宙の始まりでは力もまた一種類だった。じゃあ、一つだった力の法則がどうやって分かれたか。それを説明するのがこれってわけ」
さららは口から離したグラスを目の前に掲げた。グラスの中で氷がカランと音を立てた。