13話:後半 春香の仮説
「つまり……」
さららは白黒のリバーシのコマをホワイトボードに5枚貼り付けた。
「5ビットは潜在的に2の5乗の状態。つまり32の状態を表せるけど、実際に表れるのはその中の特定の一つだけ。例えばこの配列は数字なら」
○●●○●=01101=13
それは解る。00000つまり0から11111つまり32いや0からだから31か、のうちの一つの数字だ。
「これがパスワードとしましょう。5ビットのありえるパスワードを全部表示するには、5掛ける32。つまり、160ビットが必要だって事。大まかに言えば、これがパスワードを総当たりで解くために必要な計算量」
それも解る。5桁の数字を32個書くには、それだけのマス目が必要だということだ。総当たりというのは、自転車のチェーンキーの数字を0000から9999まで全て試して解くイメージだろう。
「だけどもしこれがQビットなら」
さららは灰色のコマを五つ取り出した。
◎◎◎◎◎
「これだけで、32通りの数字全てを表現しているの」
白でも黒でもない、灰色のビットを並べてさららはいった。もちろん大悟には解らない。逆に何も表していないのではないかとすら思える。
「それと、暗号が解けるのとはどういう関係があるんですか?」
綾が聞いた。最初から原理の部分を理解することはあきらめているという点で彼女は強い。
「組み合わせ問題を解くときの効率に大きな影響があるの。例えば通常のビットだと、情報が一ビット長くなるごとに、つまり二進数の桁一つ増えるごとにあり得る答え、つまり計算しなくちゃいけない量は二倍ずつ増えていくでしょ」
さららの言葉に大悟は海戦ゲームを思い出す。それに、あのコインのエンジンもだ。例えば空気分子8個なら256通りだったのが、16個なら2倍の2倍のと続き、6万5千通りになる。倍々ゲームのすごさだ。理科の授業の挿話として聞いたことがある。確か紙を42回折りたたんだら月まで届くのだ。
「でもQビットは情報が一桁増えるごとに、1Qビットしか増えないの」
要するに8から16に増えても8から16になるだけだ。なるほど256が6万5千になることに比べたら大違いだ。桁が増えれば増えるほどその差は巨大になる。あっという間に天文学的数字の差になるだろう。
「一般的なブロックチェーンで解かなければいけない暗号は、ブロック一つあたり256ビット。もし、臨床試験の結果をねつ造しようと思ったらとんでもなく大変。だけど、隠されている情報、つまり臨床試験で副作用が報告されているよりもずっと多いということを見つけるだけなら。ユーザーのパスワードが分かれば良い。ただし、二重認識つまり生体認証と一般的なパスワードを両方だから。普通のコンピューターなら何百年って時間がかかる。だけど、量子コンピュータなら、ずっと早く解けるというわけ」
「なんで量子コンピュータなら解けるんですか?」
綾のように割り切れない大悟は尋ねた。
「Qビットはそのビット数であり得る全ての可能性を同時に存在させている、つまり。同時に計算できると言うことでもあるの。例えば……」
2x=
「って式があるとするよね。xが2ビット以内としたら、この式のあり得る答えは何通り?」
「4通りですか?」
大悟は答えた。
「正解。もし普通のコンピュータでこれを計算しようとしたら、メモリーに……」
00、01、10、11
「この4つの数字を記録して、その一つ一つを数式に入れて計算していくことになる。だけどもしこれが量子コンピュータだったら」
◎◎=00,01,10,00
「こうなる。つまり、0の場合の答え0と、1の場合の答え2と、2の場合の答え4と、3の場合の答え6が同時に出るって事」
2ビットの数字のありうる可能性が全て入っている。不思議な箱。それがQビットらしい。全くイメージ出来ない話だ。
「もうちょっと視覚的に説明すると。パスワードって要するにカギでしょ。仮に正しいパスワードが01010とすると、これはこういうカギだと考えられる」
パスワード:01010
カギ :_□_□_
「総当たりで調べるなら32通りの鍵を作って、一つ一つ差し込んでみるって事ね。でもQビットはカギに同じ長さの柔らかい粘土を押し付けるようなものなの。形をそのまま写し取る。そんなイメージね。確率が絡むから数学的にはちょっと違うけど」
つまり、どれだけ難しいパスワードであろうと、Qビットを使えば簡単に解けると言うことだ。それこそ複数のパスワードが必要でも。
「なら、なんで今も普通のパスワードが使われてるんですか?」
綾が聞いた。大悟だってスマホに複数のパスワードを持っているし、銀行口座の暗証番号だってある。それが簡単に破られては堪らない。
「そこからがハルの仮説の肝だね。と言うわけで説明は任せましょう」
大悟と綾の視線を受けて、さららは弟子を指名した。どうやら、ここからがLczと量子コンピュータの関係になるのだろう。
「解りました。今の説明で出てきたQビットは古典ビットと比べて比較にならないほど繊細で脆いの。それも、ビット数が増えれば増えるほどに。まず、普通のコンピュータは1ビットを表現するために100個くらいの原子を使ってるんだけど、Qビットは原子一つ。あるいはその原子の中の電子一個というレベルになる。つぎに、0であり1であるというQビットの特徴を使うには……」
春香はコインをはじいて独楽にした。
「この状態を保たなければいけないの」
「それは確かに頼りなさそうだけど……」
コインが表か裏かで机の上に置かれているなら、それは積極的に変えようとしない限り安定している。だが、目の前の回転しているコインはちょっとしたショックで倒れてしまう。そうしたら、表でも裏でもない状態は終わり、どちらかに確定する。
なるほど、それは彼のよく知る普通のビットだ。
「それだけじゃないの。さっきの説明で解るのだけど複数のQビットはビット一つ一つが独立していない。例えば5Qビットあるなら、五個のQビットが全て繋がっているの。量子力学的に言えば絡み合ってるっていうんだけど」
春香がコインを指ではじいた。机の上に二枚のコインの独楽が回転して並ぶ。
「このQビットの性質上、計算中はこの状態が保たれなければいけない。でも……」
春香がその一つに軽く指先で触れた。コインはあらぬ方向に飛び、そして倒れた。
「Qビットは計算が終わる前に簡単に壊れてしまう。大きくても原子1つだから、ほんの小さな刺激、それこそ原子の振動でもこれが起こるの。だから量子コンピュータはそういう刺激を除くために超低温で動かされる」
細かいことは全く解らないが、聞いてるだけでその繊細さは解る。要するに少なくとも原子一個レベルの精密機械で、しかもそれが複数繋がっている状態を維持し続けなければならない。
電子顕微鏡で原子が珠のそろばんをはじくような物ではないか。いや、連動と言うことを考えればさらに困難だ。
「外部からの刺激で、Qビットが壊れることをデコヒーレンスと言って、量子コンピュータを実現する上で一番大きな問題なの。Qビットはビット数が大きくなればなるだけ、その計算力が普通のビットを超えていくでしょ。でも、連動するQビットが多くなればなるほど、Qビットは壊れやすくなる。現在の技術では後者の影響の方がずっと大きい。だから、実用的なレベルの量子コンピュータはまだ存在しないとされているわ。量子コンピュータがあれば簡単に破られるパスワードが使われているのはそれが理由。でも、この制限を解決する方法がある」
春香は壁のディスプレイに先ほどのORZLを映し出した。なるほど、Lczは物理法則自体を変えるのだ。
「このORZLが作るLczは電子のスピンに影響するの。えっと、スピンって言うのは電子の自転だって考えて。例えば右回転か左回転かこれがビットの0と1に対応する。電子のスピンはこれを量子的に保持できるからQビットとして使える。このスピンもさっきの説明通り壊れやすいのは一緒。だけど、このLczの空間では電子のスピンがデコヒーレンスから保護される。つまり安定に存在できるの。正確にはスピンに対する相互作用を空間の軸をずらすことで押さえるって感じかな」
つまり、Lczによって作られた空間では量子コンピュータは実用レベルで存在できると言うことだ。
「いま世界のあちこちで発生している弱いLczはまさしくこういったORZLを発生させうることがシミュレーションで確認できたわ。つまり、私の仮説はLczによって作られた量子コンピュータによるパスワードの解析が、今回の流出事件の原因だってこと。これならヒューマンエラーじゃなくても複数のパスワードが破られる」
春香はそう説明を締めくると、大悟を見た。
「どうかな?」
さあ、反論はないの? とばかりに挑戦的な光が大悟を射る。無茶を言わないで欲しい、彼には今の説明を理解するだけでも精一杯だ。と言うか、そういうことはさららに聞くべきだ。
もしも、彼に言えることがあるとしたら……。
(春日さんが楽しそうで何よりです)
そう、少なくとも今回、春香は独自の仮説にたどり着いたのだ。それは評価されるべき前進だと彼は思った。ただし、これを口にしよう物なら春香の怒りを買うことは確実なので思うだけだが。




