13話:前半 春香の仮説
まるでどこかのご令嬢がピアノでも演奏しているように、細くて白い指先がリズミカルに踊る。奏者の気分を反映しているようで、見ている分には悪くない。もちろん、ここがコンサート会場ではなく怪しい地下室である以上、彼女の指の下にあるのはノートパソコンである。
奏でているのも、音楽《DTM》ではなく数式だ。もっとも、音符も数式だといいかねないのが彼女、春日春香だが。
「春日さんえらくご機嫌じゃん。何か良いことでもあったの?」
綾がいった。心なしか大悟に向ける視線が鋭い。春香が大悟の部屋に来たことは、妹越しに間違いなく伝わっているだろう。
「なんか今回の弱いLczの仮説? を思いついたらしいぞ」
大悟は言外に無関係をアピールした。
「ふうん。ちなみに大悟の仮説は?」
「……あると思うか?」
ちなみに、春香から受けた情報のレクチャーの衝撃が未だ抜けていない。気晴らしにゲームをやろうとしても、そのゲームもゲーム機が映し出す画面も、何か別のもの、例えばコインの裏表、に見えそうで手が止まるのだ。
「そもそも、今回の情報流出が何が問題なのかも解ってないよ」
大悟は白状した。臨床試験の結果が漏れたという恐らく一般的には重要な事件だ。だが、大悟はゲームの開発中止の方が気になるくらいだ。
「大悟らしい。そうだね、今回の流出を引き起こした臨床試験はちょっと特殊みたいだね。化学物質を作ってるベンチャー企業が見つけた有望な製薬候補を、複数の製薬メーカーが共同でテストするって形式。ブロックチェーンが採用されたのはそういう理由」
「まった、ブロックチェーンって公開されてるんじゃないのか?」
「それはパブリックブロックチェーンって仕組。誰でも見れるし、誰でも参加できる。だけど今回は特定の決まった数の参加者だけが参加する。プライベートチェーンって方式」
ルーシアは国家が必要なくなるなんて大げさなことも言っていた。だが、大悟のイメージはもっと単純だ。中心組織がなくても同じ種類の台帳、要するにデータベースだ、を持った複数のコンピュータが監視し合う。
「なるほど、特定の一社が情報をコントロール出来たらまずいのか」
複数の潜在的ライバルの共同研究にはぴったりなのだろう。
「複数の製薬企業がそれぞれサーバーを立てて、実際にはPRISON採用のコンピューターセンターを借りて、データベースに提携した医療機関から薬の効果や副作用に関するデータを記録していく。そんな感じみたいね」
「中身を見ることが出来るのは、パスワードを持つ参加者だけというわけか」
「そのはずだった。でも、そのデータが丸見えにされたわけ。そして、一番の問題はそこに想定を上回る副作用の発生が記録されてた。夢の新薬に大きな問題があった。しかも、それが公開されなかった。これで大騒ぎって訳」
騒ぎはともかく、それならルーシアの言ってることも解る。普通に考えたらユーザーのミスだ。
「データの蓄積や処理は殆ど自動で行なわれてて、コンピュータチップの中で完結する。チップの中でおかしな事が行なわれていないことを保証しているのがPRISONみたいだからね。で、そのデータ全体を見るためには参加者の全員のパスワードがいる」
なるほど、今度はあの生徒会長の疑いが解る。全員がミスをするわけがない。
「解ったけど解らないな」
「まあね、私もおんなじ」
大悟と綾が揃って肩をすくめた。だが、春香にはこの難問を解く仮説があるのだ。
「さららさん出来ました」
春香がシミュレーション結果を壁の液晶に映し出す。複雑な平面折り紙の形状。ただ、1カ所だけ赤く染められている。どうやら、真っ当な空間と違う弱いLczの特徴的な形状らしい。
予想されていたとおり、ほんのわずかな違いのようだ。それにしても候補が一つというのは……。
「むむっ、ずいぶん乱暴に絞り込んだね。荷電粒子のスピン絡みかな。その心は?」
さららも興味深そうに言った。
「心じゃなくて根拠ですけど。私の仮説によるものです」
「その仮説とは?」
「量子コンピュータです」
「おお、そう来たか」
師弟二人は残りの二人を放って盛り上がっている。科学者と言うよりも落語家師弟にみえるのは、主に師匠のせいだ。そして、観客二人には残念ながらネタが理解出来ない。
「なあ綾。量子コンピュータって何だ?」
「大悟の質問の意味でいう量子コンピュータなら、私に解るわけないでしょ」
「僕の質問の意味じゃないのだったら?」
「今回の情報流出って観点からしたら、破られたのは暗号ってことだね」
綾はいった。確かルーシアが説明したハッキング経路。そのユーザーからサーバーへ、サーバーからユーザーへ情報が伝達されるとき、盗み見られてもいいように守っているものだ。
「量子コンピュータって言えば暗号解読だからね。でも……」
綾が首をかしげた。「でも、なんだよ」大悟がそう聞こうとした時だった。
「ハルの仮説は良いとして、ダイゴは?」
さららが聞いてきた。
「量子コンピュータが何かを知りません」
大悟は両手を挙げた。大体、普通のコンピュータですら、物理学者にとってはアレだったのだ。下手したらこうやって両手を挙げるのも、コンピュータの計算なのだ。
「あっ、そうなんだ」
「あの、まだ古典ビットまでしか教えれてなくて」
春香が気まずそうに言った。どうやら大悟にまだ教えてない部分で出し抜いたという、余計な罪悪感を感じているらしい。それは間違いだ、彼女と彼の知識の差は一生レクチャーされ続けても埋まらないのだから。
今問題なのは、ビットに古典と言う不穏な修飾が付いたことだ。
「じゃあ、量子コンピュータについて簡単に説明しよっか。普通のビット、コンピュータについてハルからどう教わった?」
さららはホワイトボードの前に立った。
「えっとエネルギーを使ってビット配列の珍しさを操作するとかなんとか。そうだ、コインの裏表でエンジンが動いてました」
春香が一転して大悟を睨む。もっとちゃんと教えたはずだと言いたげだ。
「なるほど。じゃあやっぱりコインを使うのが良いかな……」
さららはポケットからコインを一枚取り出した。すでにアレがビットに見える。どちら向きでもお金の価値は変わらないのに、表か裏かが気になるのだ。
さららはそれを指で支えて机に立てると、空いた指ではじいた。コインが独楽のように回転する。当然大悟の首もねじれた。
「量子コンピュータっていうのはね、ビットではなくQビットを使って計算するの」
くるくる回るコインを前にさららは言った。
「そのコインってビットの説明のときつかったやつに見えますけど。何か違うんですか?」
大悟が聞いた。
「おんなじものだよ。でもダイゴ。このコインは今、表? それとも裏?」
「え? そりゃ、どっちでもないですけど」
「そう、このコインは表でも裏でもない。そして、表でも裏でもある。そして、ほら」
さららは手の平でコインを叩いた。
「これでコインは表か裏になった。コイン版のシュレディンガーの猫」
そう言って猫のような笑みを浮かべると、手を上に上げた。
「ビットは表か裏かの一方しか表現出来ない」
さららの掌の下に、表になったコインが見える。
「でも、Qビットは同時に表と裏の二つの状態を取れるの。回転するコインみたいね」
2018/06/17:
来週の投稿は木、日の予定です。




