12話:前編 コインとエンジン
「えっとつまり。春日さんの頭の中でブドウ糖という珍しい分子が、水と二酸化炭素って言う珍しくない分子に変化した。その代りに机の上の珍しくないコインの並びが、珍しいコインの並びに変ったって話だね」
「理解してくれて良かった。まあ、この程度ならあんまり心配してなかったけど」
そこは心配して欲しい。
大悟は机の上を見た。この程度で彼の頭の中は大混乱だ。進化論と地動説を同時に聞かされても、ここまでではないだろう。まさか人間が脳を使ってコインの裏表を入れ替えるのが、原子配列とコイン配列の珍しさのトレードを意味するなんて誰が想像しよう。
これまで春香から驚天動地の話を散々聞かされていなければ、そして情報重心が実際に世界を揺るがそうとするあの光景を見ていなければ到底信じられない。
(こっちは、いまだにこれが物理学、いや科学の話に聞こえないんだけど……)
コインの配列というのは単純化しているだけ。数を増やして平面に並べれば文字に。更に複雑にしたら、あの海戦ゲームのコマの配置になる。いや、その海戦ゲームをプレイすること自体が含まれかねない。
それは彼に一つの問題を突きつける。つまり、世界は全て情報という春香の考えを認めるということだ。箱の番号のことだけ、中身のことは言ってないと拒否した問題だ。
「じゃあ次はいよいよエンジンとの関係ね。まず最初にエンジンって何だと思う?」
大悟の悩みも知らず、春香が質問をしてきた。女の子がにこやかな表情でエンジンの話をするのは違和感ばりばりだが、彼女に関してはエンジンどころか加速器とか原発とか、さらには重力波計の話を振る女子なのでそれはいい。
と言うよりも、どうせまともなエンジンの話のはずがないと確信している。
「ガソリンを燃やして、車を走らせるもの?」
だからこそ、大悟は敢ておおざっぱな答えを返す。せめてもの抵抗だった。
「蒸気機関は?」
「…………それも……エンジンかな」
考えてから大悟は頷いた。基本的に燃料を燃やしてものを動かすのがエンジンだ。
「説明を単純にするために、もうちょっと抽象化するわ。エンジンは三つの基本的な部分から出来ているの」
春香はさらさらとノートにペンを動かす。
【高温部 風車 低温部】
「つまり、熱い空気の箱と冷たい空気の箱、その間に置いた風車。そういうイメージ。ガソリンエンジンとは方向が違うけど、このお部屋と外との関係もかな。もしも私が……」
春香が窓際に行くと小さく窓を開けた。大悟は窓から流れてきた熱気を頬で感じた。九ヶ谷さん家の冴えない長男の部屋に美少女が監禁されてるという噂がご近所に流れませんように。
「ここに軽い風車を置けば回転するでしょ。高温の外の空気とクーラーで低温にした部屋の空気の間に風がながれる。そういう意味ではこれもエンジン」
「じゃあ普通のエンジンの場合は……」
大悟は春香のノートをじっと見て、同時に技術の教科書に載っていたエンジンの構造を思い出す。
「高温部が燃料を爆発させて暖まった筒の中。低温部が外気、エンジンの外の空気。風車がピストンとクランクって感じかな」
「それであってるわ。ちなみに車を動かすにはエネルギーが必要よね。そのエネルギーはガソリンの中にある」
「ああ。そのエネルギーで空気を暖めて、それが風車で動力にというエネルギーの流れだ」
そこまでは自然に考えられる。なのに、さっきの春香の例えに違和感を感じるのだ。今説明したばかりの、彼の部屋という名のエンジンはどうなる?
春香はさっき確かに正反対と言った、そしてエンジンだとも。彼は、上昇した部屋の温度に対抗してがんばり始めたクーラーを見た。
「エアコンの場合は電気のエネルギーで空気を冷やすよね…………」
車のエンジンがエネルギーで空気を暖め、その高温の空気を風車に吹き付けるのは解る。それはエネルギーを歯車を通じて車の動力に変えるだけの話だ。
「もしかして、太陽のエネルギーで外の空気が暖められてって考えるのかな?」
「良いところに気がついたわね。実はどちらでも良いわ。丁度良いからエアコンの場合は電気をガソリンの変わりのエネルギー源として考えましょう。この部屋という名のエンジンは電気エネルギーを使って空気を冷やし。高温の外気との間で風車を回す」
イメージは出来る。空気の流れは暑い外から、冷たい内に向かい、その風で風車は回る。風車の回転はエンジンの場合はエネルギーを加えた部分から、エネルギーを加えてない部分に。エアコンの場合は回転は逆になるだろう。
「重要なのは二つの部分の温度の差なの。考えてみて。ここに二組の箱の組み合わせがあるとする。AとBとしましょうか」
春香はノートに四角を書く。
A:[100℃]*[100℃]
B:[ 60℃]*[ 0 ℃]
「AとB、二つの箱の合計エネルギーはどちらが大きい?」
「それはAだね。…………あっ、でも歯車が回るのはBだ!?」
「そういうこと。エンジンとして動くのはB。これを覚えておいてね。ここからコインに戻るから」
春香はリバーシの駒を二枚取り出しノートの上に置く。二枚の駒の間に、鞄から取り出した六角形のコンパクトミラーを置いた。恐らく風車のつもりだ。
「単純に空気の分子が2種類のエネルギー状態しかないとしましょう。つまり、熱い空気と冷たい空気。あくまでイメージだけど熱い空気は60℃、冷たい空気は0℃とするわ」
空気の分子 ○ ●
60℃ 0℃
「とすると現在の外気である30℃はどうやって作られる?」
「………………熱い空気分子と冷たい空気分子が1:1で混ざってる」
絶対繋がらないと思った、コインの裏表とエンジンがなんか繋がり始めた。良いように誘導されている、そんな気がする。
「そういうこと。つまり、コインの裏表で言えばありふれた状態ね。仮に空気の分子8個ずつ入る箱とその間の極小の風車を考えましょう。適当に空気を掬えばこうなる」
箱A 箱B
[○●○●○●●○ * ○●○●○●○●]
「Aが30℃、Bが30℃だからエンジンは動かない」
「う、うん」
「じゃあもし、こうなったら?」
A B
[●●●●●●●● * ○○○○○○○○]
「Aが0℃の空気、Bが60℃の空気だからエンジンは動くね。この部屋と外気の関係と同じ……」
「その通り。じゃあ、この空気の分子コインの裏表が完全にランダムとして、もし偶然にこうなるとしたら、その確率は?」
「えっと、Aの確率が256分の1だから。512分の1とか?」
「Aの確率が256分の1、Bの可能性が256分の1だから、その両方が同時に発生する確率は256×256分の1。65536の1。約6万5千分の1ね。ちなみに、空気分子が10個と考えたら1024分の1の二乗で約100万分の一の確率」
大悟の頭の中にガンガン警告音が響く。わけ分からないというのが半分。そして、空気分子一つごとに可能性が二倍になっていくこのパターンが、あの海戦ゲームのマップの情報量と同じというのがもう半分だ。
熱いか冷たいか、単純化された空気がコインの裏表、つまりビットになっていく。
どうしてこうも簡単に、おおよそ関係ないものが繋がるイメージが出来るのか。まるで、宇宙のルールが春香に味方しているように……。




