8話:後半 意味と珍しさ
「そう、その二つに物理的に違いはまったくないね。うん、そのとおりだよ」
ホワイトボードに並んだ二つのドット。縦棒である数字の『1』と横棒である漢字の『一』を前に、さららは大悟の言葉を肯定した。
「でも人間は勝手な基準で区別をつける。それは、ビットとは別のモノじゃないですか」
「と、ダイゴは言ってるけど。ハルの意見は?」
「今の話は隠れた情報を無視しています。それを付け加えれば、区別は付きます」
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春香はすっと立ち上がると二つの文字に2ビットを付け加えた。
「00が付加された場合は数字として扱う、01は漢字として扱う。こうすれば、右は漢字の『一』だと区別できます。こうすれば、九ヶ谷くんの言った二つは、同じではなく違うものです」
「なるほど、文字コードみたいなものだね」
綾が言った。
「ふむふむ。これでダイゴは納得する?」
「できません。だって00が数字で、01が漢字って決めてるのは人間ですから」
意味を与えるのはあくまで人間であるはずだ。結局の所そこに行き着く。
「だよね。実際、今の話はかなり難しい意味を含んでる。ただ、実を言うとこのビット列で作られた文字の”パターン”を、人間の脳を全く無視した形である物理的基準を与えることは可能なの。それがエントロピー」
「エントロピー?」
何度か出てきた言葉だ。理科の授業でちらっとだけ聞いたことがある、それは乱雑さの指標だったか。確か整理された部屋はエントロピーが低く、散らかっている部屋は……。
(この部屋のエントロピーはすぐに上がるんだよな)
大悟はちらっとエントロピーの発生源を見た。
「むっ、いまダイゴが失礼なことを考えた気がする。もっと簡単な言葉で言えば、珍しさ。次はこれを使って見せましょう」
さららはポケットから財布を取り出し、百円玉を1枚指に摘まむ。次の瞬間、弾かれた銀色の円盤が宙を舞った。落下するそれを、さららが手のひらで受ける。
その手が開くと、コインは表を出していた。するとさららは右のリバーシの最初の●をひっくり返して○にした。同じことが再度繰り返される。コインの表が出れば○、裏が出れば●。それが続いて……。
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「さて、この右と左は? 同じ様に見える?」
「そ、それは見えませんけど。でもそれは、人間の勝手な認識で物理的には……」
「それが違うんだな。右と左には明確な違いがある。今私がやったようにコインの裏表をランダムに発生させたら、左の様に”見える”状態の配置になる確率は小さいけど、右のように”見える”確率は小さくないの。つまり、左の方が珍しい配置、状態だってこと」
「珍しい……」
大悟は混乱する。彼にとっては『珍しさ』というのがそもそも人間的な感覚だ。だが、今の説明では、完全に感覚的なものから離れた珍しさが存在することになる。
「統計的な視点ですね」
綾が言った。さららがうなずく。
「もっと簡単にしようか。コインを6回投げたとして。表と裏は大体3:3になるでしょ。例えばこんな感じ……」
○○●○●●
「でも、32回に1回の確率でこうなる」
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「こうなったらダイゴは驚くでしょ。どうしてかって言えば、下のほうが”珍しい状態”だってことを知ってるから。本能的にね」
「もっと言えば、人間が左に数字の1、つまり文字という意味を与えたのは、それを珍しいと感じるから。珍しいから区別しやすい。だから文字に選んだ。仮に……」
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「左が1で右が2だったらどう。わかりにくくて仕方ないでしょ?」
大悟は思わずうなずいた。
「5✕5、コイン25枚。つまり25ビットの”世界”を想定してみて」
さららはホワイトボード上の正方形の世界を指した。大悟には突如それがリバーシ、あるいは囲碁という世界の状態に見えた。その延長線上に、あの海戦ゲームも見える。
またあの感覚、知らず背筋が震えた。
「この世界のあり得る状態の種類は2の25乗。つまり、約3千4百万通り。その中で、人間はアルファベットならたった26文字、記号や大文字も含めても100程度しか文字として選ばなかった。その元となっているのが”珍しさ”という純粋に統計的な定義。意味っていうのは、物理的には珍しさで定義されるの。ちなみにさっきのダイゴの『1』と『ー』は珍しさという意味でも一緒。だからハルの言うとおり、コードという新たなビットを付け加えて区別する」
「珍しさで定義…………」
大悟は考え込む。確かに、今の話は大悟が考えていた意味に近づいた。文字というのは人間が決める意味の最たるものだ。だが、それでもまだ納得できない。
「逆に、今の話が物理的に意味があるんですか? その宇宙にとっては珍しい配置だろうと、珍しくない配置だろうと気にしない気がするんですけど」
結局そこだ。意味とはなにか、なぜ目の前のゲームの盤面がそれにつながるのか。
「それが違うんだな。実はこの珍しさはエネルギーと密接に関係しているの。例えば、エンジンが力を生み出す仕組みは、今の話を基礎にしている」
「エ、エンジンですか。車の??」
「そう、もともとエントロピーっていうのは熱力学、エンジンの効率の研究から生まれた概念だからね。実はエンジンっていうのは情報処理機関なんだ。一種のコンピュータだね」
今度こそ本当に付いていけない。大悟はホワイトボードの文字を見る。これがエンジンと関わる? どこがどうなったら??
「っと、これ以上私が話しちゃうとハルに怒られちゃうかな。ダイゴをかまう時間が減っちゃうからね」
「さららさん、私は別にそんなことは……」
「でも、大悟と少しでも長く一緒に居たいからインターン先まで一緒にしたんでしょ。アヤから聞いたけど」
「違います。それはあくまでゲームとして考える九ヶ谷君の思考方法を知るためで……」
「要するに大悟のことをもっと知りたいってことじゃん」
「…………違う。私はあくまで、えっとそう、次は負けたくないから……」
「まあまあ、いいからいいから。本題に戻ろうか。あの事故の後、情報重心がどうなったかだね」
さららは春香の不満の声を無視して、そしてホワイトボードに釘付けになる大悟を放って、ノートパソコンに戻った。
といっても話は簡単だった。夏休みの最終日を最後に、目立つ情報重心は発生していない。向こうは、おそらく重力という最も解りやすい情報重心の解析を終えて、次のステップに移っているのではないかということだ。
ただし弱いLcz――ORZLのモデルの改良により検出されるようになった――がスポット状に発生していることがわかったらしい。画面上に示されたそれは長方形の地図の中にバラバラに発生しているようにしか見えない。
ちなみに、その性質については重力のように体積という大まかな基準がないのと、あまりに弱いのでノイズに埋もれて決定できない。
おそらく、普通の空間のものとわずかに違うのだろうということだった。つまり、わずかに物理法則が違う空間が発生しては消えている。そういうことなのだろう。仮に人体を横切っても何の支障もないだろうと言うことだった。
少なくとも、自分の身体の一部が突然重力崩壊して自分ごと吹き飛ぶようなことはないようだ。
◇◇
「なあ綾。さっきの話どう思った?」
「さっきの話って、情報重心じゃなくて情報の話だよね」
「ああ、そっちだ」
春香がラボのエントロピーを下げる、つまり掃除をすると言うので、大悟と綾は二人で帰路についた。
「わかるようなわからないような、そんな話だね」
「うん。だよな」
大悟にとってもそうだ。
「でも、私にとってはどっちでもいいよ」
「えっ!? そ、そうか」
「例えば私達は原子で出来てるとして、今日、原子に関する学説っていうの、それが大きく変わったとするでしょ」
「あ、ああ」
「本来なら大問題だよね。でも、今日私がやることは変わらない」
「なるほど」
綾らしいと言えば綾らしい、ちょっと哲学的に聞こえるが、彼女はいつでも現実を生きている。
「他に聞きたいことあるんじゃない」
「ああ、実はインターンのことでいろいろと……。守秘義務みたいなのがあるからあんまり直接的なことは聞けないけど」
何を聞いても目の前の少女には裏を見抜かれてまずい気がする。もちろん、綾が不用意に広めたりもしないという信頼もあるが。
「ブロックチェーンのこと? それとも結城先輩のことかな?」
「……ブロックチェーンとかいうの」
なんで知ってるんだ、大悟が視線で聞く。
「大悟のクラスの転校生の金髪美少女さん。彼女が面白いことをやってるのは調査済み。PRISONだよね。確かにちょっとネットで話題になってる。さて、なにか引っかかるか……」
綾がスマホを取り出した。情報の検索をしている。そして目をパチクリさせた。
「なんか、今朝から検索ワードで急上昇してるね。何か有ったみたい、えっと……」
綾がスマホに指を走らせる、すごい速度で内容を確認していく。その指がピタリと止まった。
「これだね。アメリカの製薬コンソーシアムで情報流出。臨床試験で隠していた稀だけど深刻な副作用があって、そのデータがリークサイトで暴露された」
「PRISONと何の関係があるんだ?」
「そのコンソーシアムで情報プラットフォームとして使われていたのが『PRISON』みたい」
綾がスマホを大悟に見せた。表示されているのは折れ線グラフ。
「世界有数の製薬企業の株価が大暴落中」
「ま、自業自得だね」と綾は笑った。
2018/05/19:
来週の投稿は木、日の予定です。




