1話:後編 情報の表と裏
情報とは状態の区別であり、状態の区別の最小単位はコインの表と裏であるという春香の説明。
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0101
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5番
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00 01 02 03
04【05】06 07
08 09 10 11
12 13 14 15
コインの表と裏というあまりに単純な『状態の区別』の単位と、イエス・ノークエスチョンというシンプルな情報取得のルール。それが最終的にマップ上のコマという状態を区別する。
文系の話なのか理系の話なのかその区別こそが曖昧だ。だが、目の前に思いも寄らない関係が定義されているのは確かだ。
そして、直感的に理解できる。スマホゲームでは”コンピュータは”おそらく”今のように”情報を扱っている。また深淵だ。架空と現実の境界が揺らぐ。
「1ビットの情報を私が獲得する、つまりコイン1枚の表と裏が確定するごとに、残った状態の可能性は半分に減っていく。これが情報の数学的性質って事になるわ。情報処理というのは要するに数学なの。そして物理学の基盤でもある」
春香が誇らしげに言った。まるで美しい美術品を自慢するように。
「物理学。つまり、今までの話はコンピュータに限らない。そういうこと?」
「もちろん」
「…………」
情報が状態の区別だというのは納得できる。何かについて情報を得るということは、それが他と比べてどう違うかを知ることだ。だから最小の区別、つまり表と裏、イエスとノーが単位となる。ビットとは単なる不便な数字ではなく、最小の区別なのだ。同時に数字である以上計算できる。
そのルールに従う限り対象が駆逐艦だろうが、戦艦だろうが、あるいは学生の席の場所だろうが、共通だ。位置に限らない、16の状態があるなら成績だろうと、あるいは美醜だろうと。すべてが共通した基準で扱われる。
(つまりすべての情報を網羅する単位と、それを扱う法則がある)
抽象的すぎて頭が痛くなるが、それは確かに衝撃的だと思う。
だが、それはなにか足りないのではないか。肝心な部分が今の話しには欠けている。空白。その空白は物理学、いや科学が扱う範囲ではない。そう感じられる。
今のゲームにおける春香のやり方。プレイヤーがどんな戦術を使おうと、必ず4手で詰む”処理”に変えてしまった。
「ボクには今の話が”人間”あってのものとしか思えない。ビットっていうのは人間がコンピュータを使って情報を扱う為に勝手に作ったルールじゃないの?」
実際には、彼は今の話にもうちょっと深い淵を覗いた気がしている。だが、敢えてそういった。大悟達の議論に、洋子は目を白黒させている。一体何の話が始まったのかと思っているだろう。
「なるほどコンピュータ、つまり電脳。そして人間の知能、つまり脳。そういう物があって初めて意味を持つ。そういいたいのね。人間が勝手に決めたルールであって自然法則じゃない」
「そういうこと。そもそも【情報】ってそういうものじゃない?」
情報という概念が人間なしに成り立つとは思えない。ビットがコンピュータの発明前にあるとは思えない。だからこそ、情報重心という人間が勝手に作り上げたネットワーク上のいわばCGが、その基盤にあるはずの物理法則に作用した夏休みの事件が理解できないのだ。
そして、だからこそ恐ろしいのだ。
「じゃあDNAは?」
春香はニコリと笑った。
「DNAって生物のDNA??」
コンピュータゲームとも数学とも物理学ともつかない話が、今度は生物学になった。
「そう、生物の情報システムであるDNA」
春香はノートに4つの文字を書く。
ATGC
「アデニン、チミン、グアニン、シトシン。この4つの塩基で綴られた”情報”。実はこれもあるものを区別している」
「区別……」
大悟は生物の知識をかき集める。DNAは遺伝子だ。遺伝子は人間の、いや生物の設計図だ。つまり、生物の状態を区別している。
例えばさっき出てきた背の高さは春香と彼のDNAの違いと言うことも出来る。でも、生物の状態なんて多彩すぎてどう考えれば良いのか分からない。
「そこまで難しく考えなくても良いわ。DNAが”区別”してるのは20種類のアミノ酸」
「あ、ああそう言われれば」
「じゃあ、考えてみましょう。まずは4種類の塩基、ATGCを区別するには、何ビット必要?」
「4種類だから2ビット?」
「そう」
A、T、G、C
「逆に言えば1塩基はコイン2枚分、4種類の情報を区別できる単位。ということは生物が用いる20種類のアミノ酸を区別するには塩基1つでは足りない。じゃあ、2塩基だったら?」
「2塩基は4ビット。えっと……16通り」
「そうこれでも足りない。20種類のアミノ酸を区別するには最低3塩基が必要。それがこれ」
「えっと確かコドンってやつだっけ」
春香がスマホの画面を示す。そこにはDNAをアミノ酸に変換するときの暗号表、教科書で見たコドン表が表示される。
「DNAは自分が20種類のアミノ酸を区別するには2塩基では足りなくて、3塩基必要だって知ってるってこと。この仕組は人間からバクテリアまで共通でしょ。バクテリアには脳はない。でも、情報のルールには従っている。じゃあ、やってみましょう。例えばACAはスレオニンというアミノ酸を示す」
ACA = 001100 =スレオニン
「コドンは2ビット《塩基》3つ分で6ビット。つまり64の状態を区別できるから、アミノ酸20酒類の状態のうち一つを指定できる」
DNAがコインの裏表に変換される。
「お、多すぎるじゃないか」
「そうね、生物はまだまだ非効率だわ。でもよく見て」
春香は再びコドン表を指さした。
「スレオニンはACの後はATGCどれが来てもスレオニン。つまり2塩基でほぼ決まっているの。DNAは2塩基、つまり4ビットで16まで区別できるから、3塩基目は重複が許されることを知っているとも言えるわね」
大悟は混乱する。確かにバクテリアには脳はない。DNAは単なる分子だ。知能がなくても情報は扱われている。まさか自分の主張が自分自身に裏切られるとは。
「生命が誕生するときに、材料として20種類のアミノ酸を使うことを決めた。そしてそれを記述する情報システムとしてDNAを選んだ。これ自体は偶然の要素が絡むでしょうね。アミノ酸は21種類でも良かったかもしれないし、遺伝情報は四種類の塩基じゃなくても良かったかもしれない。でも、その遺伝”情報”が処理される性質は今説明した情報のルールに従う。生物が重力に縛られているのと同じようにね。DNAが分子コンピュータだって言葉は聞いたことあるでしょ」
「…………うん」
渋々頷いた。生物の教師が口にしたときは単なる比喩と聞き逃していた言葉。今はまるで真実そのもの様に聞こえる。
情報は知性とは関係なく存在し、コンピュータすら40億年以上前にすでに存在していた。その仕組は情報の法則に縛られる。それはまさしく深淵、新しい世界の見方だ。
大悟は再び背筋に冷たいものが流れる。否定したいという感情、そしてまだ空白があるという感覚。その空白を必死で探る。例によって空白そのものは目に見えない。ならば、その空白の周りを取り囲む物を認識することで、その空白を浮き上がらせるのだ。
「いや、まだ納得できない。今の話には”意味”がない」
そう答えたのはほとんど反射だった。
「どういう意味かしら」
春香が挑戦的な瞳を大悟に向ける。どういう意味か、自分はなぜそう感じたのか、大悟は言葉を探す。
「えっと、今の話はあくまで”箱”の話なんだ。0から15、あるいは19の番号を振った箱の”どの箱”に入っているかだけを問題にしてる。箱の中に”何が入っているか”は関係ない。それが駆逐艦でもアミノ酸でも」
大悟はそう言うと駆逐艦が居ない区画を指した。
「ここには確かに駆逐艦は居ないけど、例えば魚は居るかも知れない。人工物だとしてもビンとか木材が浮いてるかもしれない。駆逐艦の有無だけを問題にしているのはあくまで人間がそう決めてるから、そうじゃない?」
当たり前だ、物理学は意味を決めることは出来ない。それは人間の仕事だ。その意味が、例えばゲームの面白さみたいに幻想だとしてもだ。
彼の疑問はやっと明確になった。
「箱の中身には意味、情報はないの?」
もし春香の言う【情報】が箱の中に干渉しないのなら、彼はそれでいい。彼にとって大事なものはそれで守られるからだ。
だが、大悟の視線を受けて春香は
「箱の中にも情報があるだけよ。そもそも意味なんてないわ」
その疑問そのものを。大悟が感じた空白そのものを肯定し、否定した。
「それはおかしい」
だから大悟も春香の言葉を否定する、せざるを得ない。
「何がおかしいの」
「何がって…………」
仮に、仮にだ。人間なんて原子の集合に過ぎないと春香が言っても、大悟は現代文明の一員として受け入れてもいい。お前なんか分子機械にすぎないと言われても我慢しよう。
その分子機械が作り出す勝手な幻想例えばゲームには価値があると思えるからだ。ゲームが、特にコンピュータゲームがビットの並びで作られていても、それは単なる材料。
「物理学には”意味”がない」
”物理的”には幻想でもいいのだ。だが、物理的な幻想であることは許せない。
「物理学には意味なんて不要よ。すべてが美しく数学で記述されればいい」
今の話は違う。その一番大事な幻想まで冷徹な数学で分割、支配しようとしている。だから彼はぞっとしたのだ。
暇をもてあました神々の遊びで作られた世界の上だとしても、人間の遊びは存在する。そこまで神々の遊びにされてたまるか。それは侵害だ、人間の価値に対する許しがたい侵害。
「例えばゲーム上なら物理法則は無視できる。それは物質の存在じゃないから」
彼は声を大にして言いたかった。現実とゲームをごっちゃにするなと。
「いいえ。情報が物質に記録されていて、それを処理する人間の脳も物質である以上、今の情報の法則に縛られるわ」
春香も否定し返す。大悟と春香は睨み合った。
「…………あの、二人とも何を話してるの」
「「なにってゲームの話」」
ハモってから大悟と春香はハッとなった顔を見合わせた。気がつくと、洋子が二人の前でオロオロしている。
「と、図書館だからもうちょっと静かに、また噂になったら……」
洋子が不安そうな顔で言った時
ヴヴヴッ……ヴヴヴッ……
春香のスマホが震えた。
画面に彼女の師匠の名前が出た瞬間、春香の手がそれを取った。電話に出るため、春香が図書館のベランダに向かった。
春香の背中が窓越しに見える図書館の片隅で、大悟は洋子と二人だけになった。洋子が大きく息を吸って、吐いた。
そして彼をきっと睨む。
「今の話、何?」
2018/04/12:
説明パートやっと終わりました。
次の投稿は日曜日です。




