30話:後半 ゲームオーバー
プロジェクターの光が地下室の壁を照らす。春香は自分の席でパソコンを操作し、綾はタブレットを見ている。綾の横で本来の席の主であるさららが、ノートパソコンでなにか操作した。
背中を向けて怒鳴っている大場の姿の上に、更に一つの画面が開いた。外側が緑で内側が赤の二重丸。シンプルな表示はこれまでに見たことがないものだ。
「そっちでも見えてるよね。ハル説明して?」
さららはそう言うと操作を続ける。
「外側の丸が現在値、内側が――」
「ポイント・オブ・ノーリターン。臨界値ってところね」
「――です」
春香の説明を瞬時に理解した大場。その顔にはさっきから引っ切り無しに細かなノイズが入っている。背後に見える装置の赤いランプは収まるどころか増えている。トンネルの奥の方から画面側に向かってせまってくる様だ。
二重丸の外側はじわじわと内側へと近づいていく。円周のあちこちが脈打ち始めている。ゾンビを倒すゲームで時折挟まるミニゲーム、ボタンの連打や決まった操作で回避する、を大悟は思い出した。
「じゃあミッションスタート。ハルはORZLモデルを、アヤは最大解像度で情報重心のモニターをして。ダイゴはちょっとこっちに来て」
さららは大悟を手招きした。
「電磁石の制御は手動のほうが優先だから、出力を落とすことは可能。それでもセーフティーがかかるから、急停止はできない」
「停止までの残り時間はどれくらいですか」
春香が画面の向こうに聞いた。
「徐々に出力を落としていくから、残り30分ってところみたい。今やっとイオンの注入が止まったところ」
大場が細いバンドの時計を巻いた手首を翻して言った。
「情報重心の位置だけど、KEKBを中心に小さく周回しながら張り付いてる」
綾がいった。画面には縮尺が拡大されて建物の案内図のようになった地図が表示されている。
「軌道はどうなってるのかしら」
「多分ですけど、螺旋状です……」
「なるほど、流石にセンチ単位での固定はできないってことね。二次元ファジーの要領かしら。加速器のパイプの本当に中心を目指してるわけね。となると……。制御が遠隔であることも考えて、螺旋の中心を超えたらまた遠ざかっていく可能性が高いわね。それまで凌げれば……。装填された弾丸の数が多すぎるわね」
顔をしかめた大場、その頬のところをノイズが線となって両断している。
「重力波計に固有波形を検知。小規模な重力崩壊が始まってます」
停止までのカウントダウンが1秒1秒進む中、外側の円からのたうつ点線が収縮していき、何点もの箇所で内側の赤い縁に接した。外円自体は反発するように戻るが、赤い円の内側にそこからくびれ取られたような小さな円が出来、そして一点に潰れた。
「高エネルギーのガンマ線が発生してるぞ」「どうしてだ、加速器の出力は低下しているのに」
背後で騒ぐ職員達の声のトーンが上がっている。警報音の頻度と赤いランプの数もさらに増えている。
「質量エネルギーを100パーセント解放と言っても、炭素原子核一つ一つの爆発はしれた物。少しずつマイクロブラックホール化させていって、運動エネルギーの低下で残りが閾値を下回るのを待つ。Lczの中心付近にパンチが集中しないように操作できるパラメータを使う。……普通はどれだけパンチを集中させるかに技術の粋を掛けるんだけど」
大場が皮肉げに言った。その笑いが画面の上で左右に拗じられるように歪んだ。停止までの残り時間は23分。
緊迫感が高まる地下室。春香と綾が画面の向こうと必死でやり取りする背後。大悟はさららを手伝って……。
「ここでいいですか」
「ありがと」
二つ目のホワイトボードを前に運んでいた。
「何をするんですか?」
「だから、仕上げだよ」
さららはスマホをボードの受け皿に立てた。2種類のORZLが表示された。最後まで残った折り紙だ。
その姿はまるでスマホに映し出したレシピで料理するように気楽だ。
残り10分。加速器の速度低下によるエネルギーの減少と、Lczによる重力の増加の綱引きが続いている。このまましのげば、速度を失った炭素原子核が重力崩壊の閾値に達しなくなるはずだ。だが……。
「マイクロブラックホールの数が加速度的に増加。一つ一つの質量も上昇してます」
「Lczの深度と範囲が拡大中、同時に最深部がチューブの中心に接近中……」
二人の女子高生の報告を聞く大場。その額にびっしりと汗が浮いている。
「パンチが勝手に細くなっていく。イオンの電磁的反発を重力が上回ってきてるのね」
警報の音は更に大きくなっている。よく見ると、画面のノイズの向こうで装置が振動している。その左右の重力波とORZLモデルの蛍光色のグラフは綺麗なのが対照的すぎて不気味だ。
(何だこれは……)
画面に向かって必死に状況を把握しようとしてる春香と綾。画面に背を向けて何も知らないとばかりにホワイトボードに向かっているさらら。その中間で大悟は唖然としていた。
安全圏に居る彼が見る画面の向こう。そこの現実が崩れていく。まるで最高品質のグラフィックを駆使したゲームを見てるようだ。
いや、見方を変えれば、こここそがこの現象を引き起こしている元凶に見えるだろう。
(というか、どこかにあるのか。ここと同じような場所が……)
これと似た光景が映っているスクリーンがどこかにある、恐らくこの部屋とは比べものにならないほど大きくて、先核研のコンピュータルームのような巨大な局面スクリーンなのかもしれない。
そして、その前には誰よりもゲーム項について知り尽くしているはずの人間が立っている……。
その瞳には何が見えているのだろう。少なくとも大悟には見えていないものが見えている。ただし、今大悟の目に飛び込んでいる惨状は映っていないのかもしれない。
(ゲームじゃないんだぞ……)
空間のプログラム、つまり世界の法則が人為的に操作されている。散々聞いたのに、目の前で実際にそれが引き起こす現実への浸食を見ても未だ現実感がない。
なぜなら大悟にはイメージできない。知らない情報が多すぎる。いや、知らないのは【情報】だ。普段何気なく使う単語の目の前の状況での意味が、彼にはどんどん解らなくなってきている。
(情報を物理学的に考える? 言い換えれば情報は物理的なにかなのか?? 物理的ってなんだ!? 空間、物質、エネルギー。いや、エネルギーと物質は同じものなんだよな……)
情報という言葉の範囲が広すぎる。例えば位置情報はいかにも物理的だ。だが、ある物体例えば炭素原子核がそこにあることを問題にしているのはそれが爆発したらこまる人間の都合だ。
物理学にとってはどこで爆発しようが関係ないだろう。
例えば株価は経済情報だ。抽象的すぎる。物理的に存在しているのかも怪しい。同じ大きさのビルを持つ二つの企業があって、片方が赤字で株価が低く、片方が黒字だったとして物理的には違いがあるのだろうか。ましてはその株価を巡る人間の感情、歓喜や絶望が物理学とつながるなど……。
(分けて考えれば良いのか? 客観的に情報が存在してることと、それを人間がどう解釈、受け止めるかということは別とすれば……。前者を物理的な意味での情報としたら……。でも、それなら情報と存在していることの違いってなんだ……)
大悟の頭脳が猛烈に回転している。だが、イメージは逆に曖昧になる。
(情報って何だよ!!)
彼の知らない世界の深淵がある。それだけの、極当たり前のことだけが心に重くのしかかる。脳の思考空間をゆがめるブラックホールだ。
情報という空白は、それ自体がすべてを覆っている。疑問そのものが答え全体なら解けるわけがない。
大悟は救いを求めるように振り返った。彼にはイメージできないそれを、当たり前に一つの数式にしている女性。さららは白い平面に向かっている。
「うーん、これは面白いかも。やっぱり手強いな……」
まるで手強いゲームの攻略を楽しんでいるようなその姿。その有り様はあまりに場違いに見える。
眼の前の破滅が見えないのかと、大悟に怒りの感情が湧く。まるで理解できない自分に対する怒りが、向けるべき矛先を見つけたように。
「こんな時に何を――」
「つまり、クガヤはこうしたって事かな」
突然飛び出した自分の名字に”ダイゴ”が言葉を切られた。次の瞬間さららの手が動き始めた。まるで譜面に向かう作曲家のように、ペンが指揮棒になり虚空のオーケストラを指揮するように振られる。
一瞬で彼女の周りの空気が変わった。
まるでさららとの間に見えない境界があって、リアルは彼女とホワイトボードしかないような感覚。自分はスクリーン内で振り返る役。そんな錯覚だ。
延々と白地を黒く染めていくペンの軌跡は、大悟が運んだ新しいホワイトボードに移っても止まらない。その黒い線がかすれ始める。インク切れの譜面には不明瞭な掠れがのこるだけ。それでもさららは手を止めない。
そして、ホワイトボードを一周するようにしてさららの手が最初の位置に戻った。手首が翻り、ORZLの方程式、ゲーム項と余剰次元の間に、何かを書き込む。当然なにも見えない。もちろん見えてもわからないだろうが。
さららの手がやっと止まった。そして不思議そうに何も書かれていない空白を見た。とっくに寿命が尽きたペンを受け板にポンと投げ入れると、振り返った。
「ハル。今から言う項をシミュレーションに代入して」
呪文にしか聞こえないギリシャ文字がさららの口から飛び出す。
「さららさん、これって。せっかくの対称性が……。パラメーターが恣意的すぎて、方程式の自立性が崩れてしまいます」
春香が悲鳴のような声を上げた。
「せっかく現実に実験できてるんだから、そりゃ使うでしょ。理論はまあ、あとで整うよ。大丈夫、まだ特異点には到達してない」
さららはそう言ってにこりと笑った。
「一致した……」
画面上でさっきまで喧嘩していた二つの図形、双子のように似ていた二つが全く異なる姿になった。なのに、その二つが接触した瞬間、まるで最初から一つだったようにするっと融合してしまった。
「えっ、どういうこと?」
大悟は呆然としている春香に聞いた。驚愕に染まった顔がゆっくりと大悟に振り向いた。
「この二つの図形は最初から1つだった。正確には、1つの図形を違う角度から見ていたものだってこと。次元を一つ上に上げて、双対の――」
「どうなってるの。早く現状の把握と対策を頂戴。もう間に合わないわ」
ブッ、ブッ!……ブッ、ブツ……
大場を映す画面がとぎれとぎれに消え始めた。音声には酷い雑音が混じっている。二重丸を見ると、それはもう1つの円のようになっている。大量の物質が一気にその本来の姿に戻ろうとしている。
「今から言う新しいパラメーターに、えっと、この形なら……、ニュートリノとして逃げ出していたエネルギーが電弱相互作用のパウリの排他律を支えて……」
春香が弾かれたようにコンピュータを操作した。画面の向こうはもう目で見て解るほどに振動している。
「……の振動が一定値を……停止……エンス……開始……」
飛び飛びの機械の音声が施設に響き始めた。
「……遅いわよ」
大場がつぶやくようにいった、そして……。
ブッ……ッ……ッ…………
………………
…………
中央の画面が真っ黒になった。
ゲームは人間にプレイされてこそ価値があり。世界の意味は人間が決めるのだ。なのに……。
彼の父が作ったゲームは彼が攻略の糸口にもたどり着けないまま、終わった。




