30話:前半 ゲームスタート
8月31日。ついに実験当日の朝がきた。
「良かった。シミュレーションにはっきり差が出てる」
地下室に入った春香はパソコンの画面を復帰させ、一晩中の計算の結果を確認してホッとしている。結局ぎりぎりになってしまったが、大丈夫なのだろうかと大悟は心配になり責任者の姿を探すが……。
(昨日と変わらずか……)
大悟達が入ってきても、さららはホワイトボードの前から動かない。昨日彼らが帰ったときのままの姿だ。
かすれたペンの跡が残るホワイトボードは、何度も書いては消してを繰り返したことを想像させるが、そのアナログ感は頼りない。
ノートパソコンを両手で持った春香がさららに近づき、結果を見せる。さららはパソコン画面を確認してウンウンとうなずく。だが、言葉短く春香に何かを指示したら、すぐに自分の理論に戻ってしまう。
大悟が見ると、その手の先にはゲーム項から伸びる数式の展開が有った。
「これは、何をしてるんですか?」
「んっ? ここまでのデータを使った理論の改良かな。具体的にはゲーム項の展開の仕方を改良」
「は!?」
この期に及んで迂遠なことに聞こえた。ゲームの発売延期の言い訳に、テーマの深化がとか言われた気分だ。大悟は思わず怒りを覚えたが、
「この項に関しては”向こう”が上を行ってる可能性が高いからね」
続くさららの言葉がそれを吹き飛ばした。背筋に悪寒が走る。天才よりもゲーム項において上を行く人間、それはつまり……。
「あの……、父さん……、向こうには父がいるんでしょうか」
大悟はついにこれまで抑えていた疑問を口にした。正直に言えば未だに全く現実感がない。情報重心のコントロールに必要な情報通信の支配力などを考えると、行方不明者である彼の父が出来ることではないはずだ。
いや、そういうことを差し引いても、その手の権力とは無縁の人間だった。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな」
さららは振り向きもせずに言う。
「ゲーム項は明らかに森羅万象を包括的に扱えるように設計されている。それはつまり、単純な意味での物理的な力と情報処理の統一における…………。つまり、情報の基本……」
言葉と同時に手が動いている。大悟の質問に答えているのではなく、ホワイトボードの数式と会話しているようだ。
「情報の?」
彼にとっては暗号そのものを見つめながら、言葉を止めてしまうさらら。じれた彼が先を促そうとした時、さららのスマホがなった。
「できたの? できたなら結果を教えなさい。もう直ぐ試運転が始まるじゃないの」
さららのポケットから取り出されたのは、野太い声。スマホから耳を離したさららは鳴り響く端末を指でつついた。
プロジェクターに一つの画面がかぶさった。巨大なパイプとそこに隣接するジャンボジェット機の操縦席のような機器類。それらが立てている重低音。それを背景に、白いスーツの男が怒鳴っている。
「と言うわけで、これが検証可能な実験のプロトコル」
ホワイトボードから離れたさららが画面の向こうに電子メールを送った。
大場は彼の手にあると薄くて小型に見えるノートパソコンを開いた。そのままキーボードを一回転させてタブレットの形状にすると、バインダーのように片手で持ってから、画面を読み始める。
「…………これがプロトコルですって。材料のメモだけでケーキを焼けって言われてるようなものよ」
読み終わった大場がため息を吐いた。
「そこはまあ、私は理論だからね。運用に関しては実験家に任せないと」
「味見もしてないレシピを人に作らせる。これだから理論は……」
大場に送られた文章を大悟も見たが、いくつかの数字が記されていただけだ。綾の前のパソコン画面の情報重心の深度を確認する。大場のパソコンにも同じものが送られているはずだ。
余剰次元の構造に決定的な変化を与えるラインまで、もう余裕はない。台風で決壊ラインギリギリの堤防を見ている気分だ。
「……要するに、炭素原子核の速度が0.76Cを超えたところで発生する電磁波のスペクトルが、通常考えられるよりも短波長側に遷移するって事ね」
「そういうこと、遷移が起こる速度帯は0.76ー0.775までの間だけ。特異的でいいでしょ」
「…………パンチを磁場で少し強めに曲げてやって、7番の窓から放出する電磁波を観測という感じかしら……。試運転の間に出来ることね。もっともそうじゃなきゃ付き合ってられないけど」
大場は少し考えてから頷いた。そして背後に居る白衣の女性に何か指示を出した。よく見ると大場のオフィスで見た船橋という女性だ。彼女は後ろの計器類の前にいる別の作業服の男性と話し始める。
KEKBの職員なのだろう男はいぶかしげに首を傾げる。だが、彼女の背後からウインクを飛ばす大場を見て、渋々頷いた。
ジワジワと高まっていくゲージ。その横で液晶バインダーと化したノートで何度も数値を確認する大場の映像がある。彼の周囲の白衣の研究者達も、その横にいる作業着の職員達も困惑顔だ。
大場の顔が真剣そのものであることを考えると、こちらの仮説を否定するような結果は出ていないのだろう。
ただ、屋上での春香の説明なら、例え予想通りの結果でも観測される数値はバラける。曖昧さの残る結果をどう判断するかは大場達次第だ。大悟は高まっていく情報重心とそれに伴って変形していくORZLのポリゴンを見ながら大場の決断を待つ。
「はあ……。いいわ解った。与太話と言うにはあり得なさすぎるから。でもこれを言い訳に実験を縮小するとして。具体的にはどこまで落とせば良いのかしら?」
決断が下ったようだ。大悟は胸をなでおろした。春香も綾もホッとした顔になっている。
「こちらの計算なら、粒子の量を予定の4分の1まで絞って、速度も予定よりも落として……」
こんな時でも変わらない口調で、さららが告げる。
「せっかくここを借りれたのに……。まあ、その決断をするために私自身が足を運んだんだから仕方ないわ」
大場はそういうと周囲に指示した。周囲の人間が戸惑いながらも、背後の計器のパネルを操作し始める。春香がちょっと驚いたような表情で画面の向こうの大男を見ている。
「今のどういうことだ?」
大悟が綾に聞いた。そういえば、大場は自身が筑波に行くとは一度も言っていなかった。
「よそ様の施設を借りて、大きな費用をかけて行われる実験でしょ。その大部分を没にする。責任者がいないと決断できないでしょ」
「そういうことか……。まあ、何にしても何とかなったってことだよな」
未だ現実感のない危機だが、それでも幻のまま終わってくれるならそれに越したことはない。大悟がそう思った時、
ビービービッ! ビービービービッ!!
施設内に突然アラームが鳴った。背後の巨大機器の一角に赤いランプが点灯した。画面の向こうで作業服の職員達がざわつき始めた。
「これはいったいどうしたこと?」
大場がその一人を捕まえた。
「それがですね。イオンを注入中の線形ユニットのコントロールが外れて。本来の予定より大量の炭素原子核が注入されてます。多分コンピュータの方でエラーが……」
面目なさそうに言う職員。
「コンピュータ……。手動で装置を切って。いいえ、すぐに装置を落とすのよ!」
「そんな、いくら大場先生でもそんな権限はありませんよ。ここまで温まった段階で急停止なんてしたら装置にダメージが生じます。重々ご承知と思いますが、こういう時はゆっくり徐々に止めていくんです。大体、この程度の速度なら大きな問題にはなりませんよ。十分装置のマージンに収まってます」
職員は渋い顔で計器を指さしていった。
「そんなこと…………。いえ、せめて手動でできることの確認だけでもして頂戴」
大場が言った。職員は渋々という体で指示に従う。その表情、動作に焦りの欠片もない。ちょっとしたアクシデントという感じだ。
だが、大悟にとってはゾッとするような事態だ。何が起こっているのか完全に理解出来ない彼でも一つだけわかることがある。何者かが”実験”を強行しようとしていることと、質量爆弾の種が大量に撒かれたことだ。
「どうなるとおもう?」
画面の向こうの自信家が表情を青ざめさせている。
「加速器のソフトウェアって独自のプログラムの塊だよね。それがコントロールされてるって事は相手はすでに中に入り込んでたって事だね。となると……」
二人の会話の間、背後で混乱が大きくなっていく。「こっちの装置も言うことを聞かない」「さっきの試運転では装置自体は正常に……」マイクが拾う声には先ほどまでの余裕がない。
カメラの映像に細かいノイズが見える。さっきまでは気がつかなかったものだ。
「Lczに打ち込まれるエネルギーの量が増えて、影響が大きくなってるみたいだね」
さららは春香の示したシミュレーション結果を見ていった。
「向こうの思惑どおりって事じゃない。これは私達の実験なのよ。出来ることは?」
「オーバの言うことを聞く人間だけで逃げ出す?」
さららはしれっと言った。
「予測されるよりもマイクロブラックホールの蒸発の規模が大きくても、施設を抜ければ危険なレベルの放射からは逃れられると思うけど」
「出来るわけないでしょ、プランBを要求するわ」
大場は即座に却下した。
「じゃあ、KAGURAでリアルタイムの重力の状況を把握しつつ、できる限り手動で重力崩壊の進行を抑える。こっちで計算するから。オーバは――」
「手動で掌握可能な装置のパラメータを確認、そして操作ね。いいわ、それで行きましょう」
大場がそういったとき、はっきりとしたノイズの線が彼の顔に走った。




