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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第一部『物理学の爆弾』

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29話:前半 向こう側

 コンピュータは24時間365日働ける。夏休みもいらない。だが、人間はそうは行かない。将来コンピュータと仕事を争うと言われる世代でもそれは変わらない。


 文系志望者の中でもトップの成績優秀者で、実は理系のほうが遥かに得意というちょっと壊れたスペックの美少女であってもそれは変わらない。


 つまり、いま指先でコンピュータを酷使している春香も、生身である以上は休息が必要である。


 パイプ椅子で夏休みの課題図書としてなら絶対に選択しない『世界を織りなすもの(下)』を読みながら、大悟は彼女の背中を気にしていた。今日も早朝からここに来ていたらしい。門限があるので、朝に時間を稼ぐしかないのだ。


 ちなみに、彼の読書ははかどっていない。例のブラックホールを扱った章の後半、情報とブラックホールの関係というわけのわからない部分だ。


 言い訳させてもらえば、ブラックホールが蒸発することを見抜いた車椅子の天才科学者ホーキングも間違ったところらしいので仕方ない。もちろん、彼にはかの天才がどう間違ったのかすら理解できないのだが。


 春香に聞けば教えてくれるだろうが、彼女にそんな余裕はない。


 大悟は時計を確認した。午後五時四十五分。外はそろそろ日が沈み始める。休憩を提案したほうがいいかと彼が考えていると、春香がふらっと席を立った。


 人工の光に疲れた目をこする春香は、おぼつかない足取りで近づいてきた。彼が声をかけようとしたタイミングで隣りのパイプ椅子に座った。この状態でもほとんど音を立てないのは流石の立ち居振る舞いだ。


 せめて糖分の補給をと、彼が差し入れ(マカロン)を取るためカバンに手を伸ばした時だった。


 ふわっという石鹸の香りと同時に肩に小さな重さが加わった。大悟はアルミケースを引き上げかけた姿勢で体を硬直させた。


 混乱する彼の耳に、スー、スーという小さな寝息が聞こえてきた。


 大悟はゆっくり慎重にケースをテーブルに置いた。そして、恐る恐る部屋を見渡した。さららは柏木の研究室。綾はさっき部屋を出ていった。二人きりということすら気が付かなかったことに気が付く。


 春香の横顔を見ると閉じた瞼のまつげの長さがはっきり見える。小さな吐息のような呼吸が彼の胸を撫でる。そして、髪の毛から香るシンプルで清潔な香り。


 五感のうち四つを占拠された彼が思わずつばを飲み込んだ。その時、ガチャッとドアが開いた。ハンカチを持った綾が戻ってきたのだ。綾はパソコン画面が光る空席を見たあと、ゆっくりと視線を横に向けた。春香を肩に載せた大悟と目が合う。


 ゆっくりとドアを閉めると。二人の方に近づいてくる。春香に動きを封じられている大悟は逃げ出すこともできない。綾は春香の寝顔をじっと見た。そして、彼女の枕である彼に目を移した。手にとったスマホに指を走らせる。


『ずいぶんとなつかれてるようで』


 わずかに口を尖らせて、それでもどこか優しげな表情で、綾はスマホに手書きした文字を見せた。


『疲れてるから、きっと無意識だよ』


 大悟も不自由な左手で、同じようにして返事をした。


『むいしきに心許してるっていいたい』

『ちがうから』


「まあいいわ。後でちょっと聞きたいことあるから、前のことで」


 綾は少し離れてから、小声でそう言うと自分の席に戻った。残された大悟は春香の枕としての役目を続ける。幸いというか残念というか、春香のパソコンが計算終了を告げる電子音を出した。


「……ぅぅんっ」


 聞きようによっては艶めかしい声を出して、春香が目覚めた。ぼっとした目で自分の隣りにいる大悟を見て、目をこすった。そしてハッと目を見張った。


 まるで朝起きたら隣に見知らぬ男がいたみたいな反応はいささか傷つく。悪いことに、綾が椅子の背に反対側に腰掛けてこちらを見ている。


 がたんと音を立てて春香が立ち上がった。疲れ果てていても維持されていた品行方正も吹き飛んでいる。春香は大悟と綾を交互に何度も見て、何か言おうとパクパクと口を空転させた。その後、諦めて足早に自分の席に戻った。


 ことさら前のめりの姿勢で計算結果を確認する春香。机においていたスマホの振動がそれを邪魔した。春香はスマホをひっくり返して、慌ててそれを伏せて、綾を睨んだ。一体何を言われているのだろうか。


◇◇


 8月29日午前11時。


 画面上で二つの折り紙がぶつかっては離れてを繰り返す。二つの形は、中心そしてそれを取り囲む上と下は似ている。右の図形の左と、左の図形の右もほとんど同じだ。鏡に写ったような二つの図形の違いは互いの右手だけ。


 まるで、他の装備は同じだけど武器だけは違うゲームキャラのようだ。その違いが戦い方全てに影響するのだろう。ちなみに同じような戦いが後3試合繰り広げられている。


 重力波のデータをもとに重力の範囲が上限下限共に決まった結果、選択は大幅に進行していた。4本あった根本の大枝が一本に絞られたことで、折り紙の折り方はついに8通りに絞られたのだ。


 だが、ベストエイトの闘技場を見ながら、さららと春香は立ち止まっていた。大悟たちが来てからずっとこの状態だから、もう三時間以上だ。春香は椅子に根を張ったようにして、目の前の計算結果を眺めるだけ。さららは黒いホワイトボードの白い残り少ない部分を前に、彫像の様に停止している。


 やることがない二人、大悟は綾に重力波計のことについて質問されていた。現実世界のことに自分の役割を限定していた綾の宗旨変えに戸惑うが、大悟は『世界を織りなすもの』を開いて説明する。


「片側だけで3キロの、しかも地下のトンネル。これはお金がかかってるね。まるでたった一種類のしかも地味な菓子を作るためだけにある厨房じゃん」

「まあ、それは同感」


 綾と大悟が金額にため息を吐いた。30億光年先のブラックホールの衝突を捉えるために数100億円を使うのだ。


 実際には更に宇宙空間に複数のレーザー衛星を打ち上げて更に感度の良い観測装置にするというプロジェクトがあるらしい。天文学的な金額の天文学だ。


「そういえば柏木教授がそんなこと言ってたね」

「ああ、でも本じゃまだ先の計画なんだよな……」


 本が書かれたのが約十年前、その時点では二十年後の計画として書かれている。いかに日進月歩の科学界といえど10年もの前倒しは珍しいのではないか。


「あー、ニュースで出てる。仮想通貨で大儲けした大富豪が100億円以上寄付したおかげで計画が早まってるんだって」

「そりゃ、すごいな」


 理解できない意義でもそれに私財を叩く金持ちがいると聞くと、とたんに重要に見えてくる。現金な話だ。


「まあ重力波検出器のことは一応わかった」

「どうするんだ?」

「うーん、まだ考え中。ただ……」


 綾は春香の背中を見た。


「大悟のアイデアを活かせるのは理論だけじゃないってこと」


 綾はそう言ってけむにまくと、さっさと自分の机に戻った。そして、台風の進路を気にする農業従事者のように情報重心の進路を見ている。


 情報の台風は筑波に到達している。台風と違うのは到達してから気圧を下げていることだ。嵐になるのは近い。


「これ以上は量子限界です。理論値の方で何か手伝えることありますか?」


 春香が言った。弟子の頼るような声にさららはホワイトボードの前で両手を上げた。


 師弟揃って渋い顔になる。二人共美人なので謎の迫力だ。


「一つ聞きたいことがあるんですけど。いいですか」


 綾が手を上げた。「言ってみて」さららがいうと。綾はプロジェクターに自分の見ていた情報重心の進路の画像を表示した。情報重心は太平洋上にあるから3、4日前のものだ。台風のそれがそうであるように、その時点の点から始まって先に進めば進むほど広がっていく。


 そこに現在の進路が重ね合わされる。進路は広がっていく帯の中心を通って筑波にある。素晴らしい予想だ。


「計算通り」


 春香が見惚れるように言った。


「正確すぎるの」


 綾が挑戦的な口調で返した。大悟は首をかしげた。台風の進路予想が二週間前から完全に当たるというのは珍しい。だが、当たったことに文句をいうのはおかしい。


「計算をお手伝いしたから分かるんですけど、そういう確定は不可能です。さららさんはこれが最初からここを目指すだろうと予想してた。ですよね」


 反論しようとして立ち上がった春香が止まった。


「私達の計算でも、一番可能性が高い進路が筑波だったってことも間違いないけどね」


 さららは綾を見ていった。表情に動揺はない。


「でも、正確すぎます」


 綾は言葉を重ねた。そして、大悟をちらっと見てから、意を決したように続きを口にする。


「この進路を決めている側。”向こう”はもっと正確な情報を持っている。違いますか?」


 それはおおよそ科学的ではない、告発のようなセリフだった。

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