28話:後半 重力波
未加工のデータを前に、春香とさららが作業をしている。
パソコンを前にキーボードから計算のプログラムを打ち込んでいるのは春香。グラフィックソフトのレイヤーのように、ギザギザの一本の波が、異なる形の波に分離されている。
実際の作業としては地面の揺れなどのノイズの波と、本物の重力波を分離するということらしい。春香は計算式を見せてくれたが、見ただけで大悟の脳波が乱れた。
光をプリズムに通すのと同じことだという。どんな色も異なる光の波長の合成で作られ、どんな音でも複数の弦の振動の合成で作られるのと同じ、というのが春香の説明だ。
コンピュータゲームなんかの色の指定をRGBの三色とその強さで指定するようなものだとかろうじてイメージした。
ただ、春香はすべての情報、画像なども含めて、が同じ原理で作られると付け加えた。二次元の画像が波の集合であるというイメージ不可能な概念はともかくとして、また情報である。
さららの方はホワイトボードを前に数式とにらめっこだ。マイクロブラックホールの蒸発から予測される重力波のパターンを理論的に導き出すということらしい。春香が分離した波形と照らし合わせるためだ。
難しい方を春香がやらなくてもいいのかと思った大悟だが、二人共そこにこだわりはないようだ。春香も、何か問題がでる度にさららに質問している。
「今回は方針を決めるのが大事なんでしょ」というのが綾の意見だ。今回はテストではないのだから教育問題よりも作業の効率なのは当たり前だろう。ただ、それならそもそもさららが全てを決める方が早い気がするが。
さららの数式はもちろん、春香のシミュレーターも二人が手を出せるようなものではない。
それでも綾は時々情報重心の軌道の確認などをやっている。綾に見せてもらった情報の気圧図では、予想進路の真ん中を通って中心を筑波の加速器に近づけている。
その気圧、つまり上方の空間に対する影響力を示す数値は、だんだん上がっている。
◇◇
一日が経過した。8月27日、昨日はずいぶん密度が濃かったが、実験まであと4日しかない。もう一つ大悟たちには締切がある気がするが、それは一体何だったか……。
春香がパソコンを操作すると、のたうつ毛虫のようだったグラフが幾つかに分裂した。それぞれ細かったり、太かったり、山形に配置されていたり、様々な形の波だ。
やがてその波が打ち消し合ったり高めあったり、まるでパズルのように進行。その中の一本が取り出された。嵐の海の中で孤立する1本のブイ。
「該当時間に特異的な波形が取り出せました。理論値を元に距離の逆算をします」
春香が緊張で固くなった声でいった。少し遅れて画面が更新される。地球儀の日本列島中央の岐阜県北部に赤い点が浮かび。そこを中心に円が描かれる。半径約200キロメートルの円。その軌道上に彼らの今いる県がある。
「ほほう。これは面白いな」
しわがれた声が発せられ、春香がびくっと震えた。今日はお客さんがいるのだ。
「でしょ。私の弟子は優秀だから」
春香の後ろでさららと一度だけ見たことのある老人が話している。
「しかし、まだ確定はできんな」
「まあ、1pgだからね。理論値だとマイクロブラックホールの蒸発は二種類の波形の合成になるはずだから」
距離をあわらす円の線は太い。範囲が絞りきれていないのだ。太くて淡い線は、彼らの県の半ばを覆っている。
好き勝手な論評で春香の手を止めさせている二人はとても楽しそうだ。いや、この二人も最初は未来の事故を心配してると”取れるような話”をしていた。ただ、春香の作業が進むに連れてどんどん方向性が専門に傾いてきたのだ。
その姿が大悟に嫌なことを思い出させる。彼が知っているもう一人の科学者のイメージがそこに重なりそうになる。
「次にどうするのかな、春日君」
「は、はい、問題はKAGRAとの角度です。ですから、KAGRA以外の重力波計を使った三角測定で解像度を高めます。幸い……」
春香がプロジェクターに地球儀を表示させる。赤い点が1つ、青い点が3つだ。赤い1点は大悟達がいる場所。正確にはその近くにある先核研、つまり爆心地だ。
青い1点はそこから200キロ離れた岐阜県北部のKAGRA。残りの2点は北米とオーストラリア。大悟は昨日エレベータの中で春香が確認していた地図を思い出した。地球儀上で青い3点は赤い1点を囲む三角形を作っている。
「地上で発生した重力波ですから、視差が最大限にとれます」
対象を離れた2箇所から見ることでより正確な情報を得るということらしい。GPSなんかと同じ原理のようだ。地球上の離れた2点から見ても三十億光年は僅かな角度の差だ。今回は地上にあるので表と裏の両面から見ることが出来る、そういう感じだろうか。
「というわけでカシワギ」
さららが傍らの老人を見た。
「連日全く無茶を言いよって。今こっちは重力波衛星のことで大騒ぎだというのに」
そう言いながら柏木はサマーカーディガンのポケットから銀色の長方形を取り出した。意外と言っては失礼だが若者に人気のメーカーの最新機種だった。
「……時差を考えろ? お前が留学前に論文を出せるように徹夜で付き合ってやった事をもう忘れたか。まだ10年しか経ってないぞ。なに13年前…………相対論的効果じゃな。大体こういうものは赤方偏移させては……」
「ヘロー、アンドリュー……。ティスイズ……ザッツサウンズ……」
重力の権威というのは本当らしい。しばらくすると海を超えたデータへのアクセスが確保された。画面上の三次元空間にランダムとしか思えない波形が三つうごめいている。春香がそれぞれの波形を分離し照合し始める。
「それで、彼が九ヶ谷君の……」
柏木が大悟をちらっと見た。九ヶ谷君のという言葉の意味。ゲームの研究者だと思っていた頃なら驚いたかもしれないが、今は父の研究がとてつもない広がりを見せていることを知っている。
「カシワギはゲーム項を空間に応用したの。私のORZLの先行研究の一つだよ」
さららが補足した。
「まあ、儂の数学能力ではORZLのような対称性にまで持っていけんかったがな」
大学教官同士の数学力の差が大悟にわかるわけがない。多分オリンピックの金メダリスト同士の些細なフォームの違いとかそんなのだろう。それよりも問題は……。
そして彼が今一番気になっているのは、その一つに質量爆弾があるのかということだった。
「極めて、いや桁違いに優秀な科学者だな。数少ない本物。地平線いや、地平面の向こうを見ようとする、とでもいうのか……」
「地平面、ですか。それはブラックホールの……?」
「ああ。ブラックホールの境界を情報は越えられん」
柏木はどこか遠いところを見る目で言った。地平線の向こう、見えないものを見ようとするように、そんな表情だ。
彼の父の【ゲームの研究】を物理学と関連付けるのが一人の変人の考えではないということが今更ながら解る。
そしてまたも出てきた。ブラックホールと情報。本を読んでさえ全く理解できなかった物理学の究極と、そこから最も離れているように見える人間の頭脳の生み出す情報。
「あの――」
「おお、そうきたか」
大悟が何を聞こうかわからないまま何かを聞こうとした時、柏木は春香の作り出す画面に釘付けになった。なにか大きな進歩があったのだろう。
大悟には何が変わったのかわからない、グニャグニャがグニュグニュになった、そういうレベルだ。
「やることないね。私ら」
「それが普通だろ」
綾の言葉に大悟は投げやり気味に答えた。
「今何考えてるか当てよっか」
「珍しいじゃないか、こっちの意思を確認するなんて」
綾が覗き込むように尋ねてきた。
ゲーム項は彼の父、九ヶ谷秀人の考案したもの。そして、今回の局所空間の改変と五年前の父が失踪した事故のそれは似ている。どう考えても無関係とは思えない。
だが、大悟にとっては全く実感のわかない話だ。能力的に不肖だからではなく、彼の父は理論に惑溺するような人間。科学理論を使ってテロなどおおよそ最もやりそうにない人間だった。
第一、行方不明の一人の男にそんな力があるはずがない。彼の父の研究が勝手に応用されているだけ。そう考えるのが無難だ。だが、当の本人は未だ行方不明……。
「なあ【ゲーム項】ってなんなんだ?」
「私に解るわけ無いじゃん。大悟は春日さんから色々教えてもらってるんじゃないの?」
綾が意味ありげな視線を大悟に向けた。
「……途中なんだよ。綾の方こそ情報重心の計算で活躍してたじゃないか」
「私は単に入力するデータを持ってきてるだけ。言ってみればお店に売ってるケーキの中で希望にあった美味しそうなのを持ってくるだけ。作るのはもちろん私じゃないし、ケーキを食べて味の分析するのはさららさん達」
「で、でもさ。ほら、綾も「情報」って言葉はよく使うじゃないか」
「だからこそだよ……」
綾は春香とさららの背中をちらっと見て、肩をすくめた。
「あの二人の言う【情報】と私の言う「情報」は別物。もちろんどこかつながってるんだろうけど、ね」
「なるほど……」
綾の言っていることが少し解る。物質、エネルギー、空間、同じ言葉を使っていても彼と春香が見ているものは全く違う。いや、一般的な人間が見ているものと違うというべきだろう。
”深淵”を覗く感覚。そして、綾は”深遠”には興味を示さない。大悟だってそんなものを見たいとは思っていなかった、これまでは……。
(なら、父さんの見ていた情報は……)
情報重心、いや春香の途中で終わった説明でも、あまりに広い範囲のありとあらゆるものを計算しようとした父の視点は……。
彼の父が作ろうとしていたゲームは……。
(春日さん達の言う【情報】か……)
「計算終わりました」
春香がパソコンから顔を離した。画面上には4月6日の事故の時間にピンと立ち上がった山が現れていた。
「ほい。こっちもできた」
さららが計算したマイクロブラックホールの蒸発の波形――心電図を一拍だけ取り出したような――と一致しているのがわかる。そして、前は距離しかわからなかったのに今回は方向もまっすぐ”ここ”を差している。
天体ブラックホールの衝突のネジを頭に向かってみたような波形とは似ても似つかない、特別な波。
「Pは0.00001。これが偶然である可能性は0.0001パーセント。加速器の実験なら確定ではないですけど。これが限度です」
2つの波形を重ねあわせて春香が言った。言いながら、その視線は画面に釘付けだ。
「ほほっ、世界中で一番初めに見られたブラックホール蒸発による重力波か」
柏木が唸った。少なくともこの瞬間、老人の中に未来の大事故など存在しないのだろう。
「これでこれまでとは正反対の方向からORZLの絞込ができるね」
さららが言った。こちらもかなり怪しい。
大悟が追いつくより先に、分析は進んでいく。それでも、事故に間に合うかどうかはわからない。それが彼の目の前にある現実だ。
2018/03/10:
来週の投稿は火、金の予定です。




