28話:前半 重力波
視界の三方が肌色の壁に覆われた、長方形の箱。体重がすっと減ったような感覚の中、ドアの上に表示された数字が高速でカウントダウンしていく。紐が切れて自由落下しているのではないかという中で、春香は待ちきれないとばかりにスマホに指を走らせている。白い指が『重力波測定装置』という言葉を入力し、その結果が地球儀上に表示される。
チン、という軽快な音とともに一階に到着した。屋上まで到達しているエレベータも、地下室へは届かない。春香を先頭に三人は階段を降りる。壁が明るい現代から戦前の防空壕にかわる。
ラボに入るや、春香はすぐに自分の席のノートパソコンを開いた。計算中のORZLを最小化して、別のシミュレーション画面が立ち上げられる。春香はそこに数値を入力する。
どうやらさららはまだ戻ってきていないようだ。
「30億光年先の天体ブラックホールの衝突と地球上のマイクロブラックホールの蒸発には10のマイナス26乗の開きがある」
春香はまず絶望的な差を口にした。実に100億の100億の10万分の1。
「ただし、九ヶ谷君が言うように衝突と蒸発は異なる現象」
春香の指が一組の数式と3つの球体を表示させる。互いの間を周回する野球とテニスボールくらいの球は天体ブラックホール。ビーズ玉くらいのもう一つの球はマイクロブラックホールらしい。下に表示された10の型のプラスとマイナスの数字で解る。
大悟のシナリオの主役はずいぶんと頼りない。
二つのボールが衝突して、一つに変わる。同時にビーズ玉が消滅した。説明されなくても意味はわかる。天体ブラックホールの衝突とマイクロブラックホールの蒸発。そのシミュレーションだ。
「でも、重力波を引き起こすのは質量の変化。天体ブラックホールの衝突は単純には質量の増加にすぎないのに対して、マイクロブラックホールは質量がその場から全て移動する。この違いを質量と重力波の発生効率に換算すると……」
春香の指が画面上に答えをはじき出す。
『1.0034✕10^2』
「もし同質量だった場合、蒸発は衝突の10の2乗の効率で重力波を発生させる事ができるということ。つまり100倍」
大悟は思わず「おおっ!」といいかけて、そして虚しさに気がついてやめた。実際には10のマイナス26乗がマイナス24乗に減っただけ。その”変化”はたったの2だ。天文学的な数の猛威、ログスケールの理不尽さ。改めて日常とはかけ離れたスケールの話をしているということがわかる。
この数字を当たり前の感覚で扱うだけで春香を尊敬しそうだ。
「そう、とても届かない。でも今回の場合、質量の変化が空間に波を起こすに当たって一番決定的な要因は時間的なスケール。いい、この数字を見て」
春香の指が新しい数式を呼び出すと、そこにマイクロブラックホールの質量を入力した。
「天体ブラックホールの衝突は一秒間の出来事と推測されている。一方、ブラックホールの蒸発は質量に反比例するの。ちなみに、100トンのブラックホールでも一秒も持たない。つまり、蒸発は1秒が永遠と言えるほどの短さで起こる。同じ変化でも時間的に圧縮されれば、その影響は小さくなる。例えば火災の時に、トランポリンに向かって落ちれば助かるのは、地面に落ちたら一瞬で身体に加わる重力による衝撃が、トランポリンによって時間的に分散されるから」
春香は指先でキーボードと机を突いた。
「この場合、空間に突き刺さった細い針を一瞬で引き抜いたような物。その差は10の21乗」
「おおっ!」
大悟は今度こそ驚きの声を上げた。なんと100億の100億の10倍だ。
「もちろん、荷電ブラックホールが突然中性に戻ったり、宇宙空間よりも遥かに大量のエネルギーに満たされた地上じゃ違う。他にも赤方偏移の影響。重力波も情報だから、光速でしか伝わらない制限。それに、ここまで短くなるとセンサーであるレーザー干渉計の限界に突き当たる。もっと言えばこのレベルだと量子力学的効果がとても大きい。だからそれらを限界まで考慮しても推測としか言えないけど……。天体ブラックホールとマイクロブラックホールの重力波の違いは……」
春香がリターンを押した。ノートパソコンのファンが回転を増す。そして、画面に現れた数字は。
『1✕10^ー1.537』
数字だけなのに大悟には読めない暗号だった。数字の肩に少数を載せるなんて酷すぎる。
「約2.9パーセント。後は方向と時間が正確にわかっていることがどの程度効いてくるかとか、これは実際のデータを分析してみないとなんとも言えないわ。でも……」
春香は大悟と綾を見た。
「確かめる価値はあると思う。さららさんが戻ってくるまでに確認だけでもしましょう」
春香がブラウザを立ち上げた。呼び出されたページには、山の中腹に掘られた長いトンネルの模式図が表示されている。春香は説明を見ながら、何かのファイルをダウンロードすると新しいシミュレーターを立ち上げた。
描き出されたのは使い古された歯ブラシのようなグラフだ。下にあるのは時刻、大悟の目には該当時刻周辺も他と同じくごちゃごちゃしている様にしか見えない。
もうちょっと劇的な山、あるいは谷を期待した大悟は肩すかしを食らう。だが、春香の指は止まらない。
「まずはノイズの除去だけど……」
グラフの横に表示された空白の枠の中にプログラムらしき数字とアルファベットと記号の組み合わせが伸びていく。
◇◇
「んんっ、この波形は重力波かな。何か新しいことが始まってる?」
ドアが開いて入ってきたさららは壁に映った映像を見るやすぐにそう言った。見ただけでやっていることを見抜いたらしい。
春香の作業により、グラフは弧を描いた曲線にデタラメに針を生やしたようなものになっている。
「はい。4月に発生したマイクロブラックホールの蒸発の重力波の情報があればORZLの絞込に役に立つかもって。……その九ヶ谷くんのアイデアで」
「ふむふむ。重力の下限、つまり根本の枝を一気に絞れる可能性がある、そういうことか。ふむふむ……」
さららは少し考えて頷いた。そして大悟を見た。
「いや、これは三人で考えを出し合った結果で。に、日本には三人寄れば文殊の知恵って諺がですね。僕は思いつきを口にしただけで……」
大悟は慌てて両手を振った。そして、さららにシナリオを思いついた仮定を説明する。
「というわけで、僕の貢献なんて精々1パーセントもあるかどうかってところです」
「なるほど、天才とは1パーセントのって言うもんね」
「それを言うならボクのは幸運だけです。実際、いま春日さんがやってることの意味もわかってませんから」
大悟は言った。嘘など一つも言っていない。実際思うのだ、自分に春香の十分の一の知識でもあったら、考える前にこの可能性を打ち消したのではないか。
さららはそんな大悟をじっと見ると、春香に向き直った。
「じゃあダイゴのアイデアを受けてハルが今やってることはどんな方針?」
「あの、私がやってるのも事前のテストみたいなもので……」
春香のキーボードを打つ手が硬直した。さららが戻ってくるまでに最低限の確認をしようということで始めたのだ。
「ハルが今見ようとしている物を見るために、何が必要?」
だが、さららは重ねて尋ねた。表情は穏やかだが、春香を見る瞳は有無を言わさない光を持っている。
「……あの、でも今のは私の考えで、大体上手くいくかどうか……」
「上手くいくかどうか解らない。私もそう思うよ。でもやる価値はある。そう考えたんじゃないの?」
「は、はい、そうです」
「じゃあ始めた人間が進めるしかない。私はお手伝いかな」
さららのセリフに、大悟はあのプレゼンが終わった後の女性科学者の言葉を思い出した。あの時そこにいなかった春香。心細そうな瞳がさらら、綾と動き、そして大悟のところで止まった。
下がっていた綺麗なまつげが心なしか上を向いた。
「……公開されてる重力波のデータは処理されてて、多くの周波数成分がノイズとして除去されてるみたいなんです。完全な生データが必要です」
「了解」
さららは満足そうに答えると、スカートに手を突っ込んだ。
「カシワギちょっと相談があるんだけど。さっきの件とも関わるんだけど…………。違う違う、まだ打ち上がってもない衛星じゃなくて……。そう、欲しいのは未来じゃなくて過去のデータ」
さららが連絡を取っているのは、恐らく先ほどまで話していた相手、柏木だろう。なるほど、確か重力の専門家だったはずだ。
「何に使うのかって、それはうちの弟子の調理次第かな」
さららがそう言うと、春香の肩がびくっと震えた。
2018/03/07:
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