26話 屋上
「へえ、こんなふうになってたのか」
扉を開けた大悟は目の光景に思わず声を上げた。高速エレベーターで運ばれた場所は、夏の晴れた空に包み込まれたような空間だった。
屋上は憩いの場として整備されているようだ。中央には花壇があり、周囲の落下防止の壁は殺風景な金網ではなく、透明な樹脂がドーム状に湾曲した構造。その塀の周囲にはベンチが並んでいる。
大学が夏期休業中で時刻も昼を過ぎているおかげで人影はない。
「ほら、あっちに駅。その向こうに私らの高校。見て、あそこにラタンの屋根が見える」
大悟の後からドアを出た綾が周囲をぐるっと見回していった。綾の後から出てきた春香も、日差しを庇った手の下で目を瞬かせている。
もっぱら地下の住人であった大悟達には関係なかったが、理学部のビルはキャンパスで一番高い。大学どころか街が俯瞰できる
「さすが綾だな」
地面の下に閉じ込められていた身にはこの開放感はたまらない。
「あのベンチにしよ。側に自販機があるから、飲み物は各自で用意ってことで」
綾が角のベンチを指差した。
自動販売機が取り出し口を三回揺らした後、三人はベンチに腰掛けた。
コーヒーを持った大悟が真ん中で、右にミネラルウォーターの春香、左に無糖紅茶の綾だ。同学年男子に見られたら抗議の声が上がること必至だろう。
だが、彼にしてみれば紛争する二つの勢力を隔てる中立地帯の気分である。そして、今からそれを仲介しようというわけだが……。
「とりあえず、出す物を出さないと」
大悟は持って来たカバンを開ける。中にはノートなどの筆記用具、全く活躍の余地がない、を押しのけるよう角の丸いアルミケースが入っている。
「いつもごめんなさい」
春香がいった。
「いや、気にしないで」
いつもなら「余り物だから」という言葉を付け加える。ちなみに謙遜の意味はない。家に文字通り売るほどあるのは、彼ではなく彼の母親の力である。そして、何よりも仮にどちらかの好みに偏ったとしても決して彼の選択の結果ではないのだ。
「その容器からして今日の差し入れはクッキーだよね。さて……」
綾は覗き込まんばかりに銀色の箱を見た。春香も視線を大悟の手元に注ぐ。
蓋に手を掛けた彼をいやな緊張感が取り巻いた。前に希望を聞いたときに、チョコレートとミルクで完全に別れたのだ。二人の注目の中、大悟は慎重な手つきで蓋を開いた。
バターの香りが広がり、ナプキンシートに厳重に包まれたクッキーが顔を出す。正方形で田の字に黒と白が交互になっている。
「なるほどそう来たか。晴恵さんに泣きついたのかな」
「ほう、綾は母さんの好意に文句があると」
「いえいえ、まさかまさか。これに文句なんかあるわけないよ」
綾が両手を振った。春香は怪訝そうにクッキーを見た。見た目だけなら良くあるタイプだからだろう。
大悟が紙皿に取り分けたクッキーを二人に渡す。春香はそれを口に入れると、慌てて口を抑えた。口の中に広がる食感に不意打ちされたのだろう。
この二色クッキーは白と黒の部分で全く食感が違う。ミルク風味の白い生地はさくさくと心地よく砕け、チョコレートをしっかり練り込んだ黒い生地はねっとりしている。先に砕けた白い生地を黒い生地が口の中で包み込む。
水分やバターの割合が全く違う2種類の生地を一体のように焼き上げるラタン自慢のレシピだ。だからこそ、割れないように細心の注意を払って梱包される。
手間が掛るので週一しか作られないが、リピーターも多い人気商品だ。ちなみに今日はその日ではないが……。
「晴恵さん特製のクッキーは一味違うでしょ」
「たしかに美味しい……」
何故か自分の手柄のように自慢気な綾。春香の顔が少しだけ緩んだ。しばし、クッキーを食べる音と缶から飲み物を飲む音が続いた。
缶コーヒーの最後の一口でチョコレートの甘さを中和して、大悟は左右を覗った。両手でペットボトルを握った春香の視線が屋上のドアに向かっている。左を見ると綾が紅茶の缶を持った手を伸ばして天を仰いでいる。
甘いお菓子と開放的な環境のお陰で雰囲気は緩んでいる。女の子同士お菓子の話題で盛り上がってくれればなおよかったのだが、二人が言葉をかわすことはない。
言うまでもないがこの状況で気の利いたことを言えるなら、彼の学生生活はもっとずっと華やかだったはずだ。
「それで、九ヶ谷くんの聞きたいことって?」
「そうだね、大悟のアイデアを聞かないと」
左右の女子が同時に口を開いた。同時に両側から視線の圧力が彼を襲った。穏やかな時間はあっという間に過ぎてしまった。しかも「大悟のアイデア」という綾の言葉で、春香の瞳に緊張の光が宿った。
(まあ、ここで引いたらわざわざ休憩を提案した意味がないか)
もちろんいろいろな意味で才色兼備の二人に期待に応える何物も彼は持っていない。もしそんな物があれば彼のこれまでの学生生活も以下略である。
彼に出来ることなど、戦力である二人にゴールのイメージを共有してもらって、彼女たちがアイデアを出す環境を整える程度。
最終決戦の場さえ整えれば、プレーヤーの操作する善と悪のヒーローがかってに熱戦を繰り広げて盛り上げてくれる。そんな感じの思惑なのだ。実に他力本願な、いや普通の高校生らしい謙虚な態度と言える。
「この作業の最終的な終着点を確認したいんだ」
情けない思惑を隠して、大悟はそう切り出した。
「終着点って8月31日のLczによって生じるORZLの確定でしょ」
春香が拍子抜けしたような顔になる。
「いや、向こうでやる実験のこと」
大悟は東の方を見る。その先には筑波がある。
「……そうだね。具体的にどんな機器を使って、どんな風にデータを取るのか。全然イメージ出来ないかな」
「でも、それはORZLの形が決まらないと。実験そのものは私達は手を出せない……」
綾が頷いた。だが春香はまだ怪訝な顔だ。
「そういうレベルの話じゃなくて。多分僕と綾は実証可能な実験というもの自体が解ってない」
大悟はいった。あの抽象的なポリゴンモデルが物理法則を決めているのはいい、それは海戦ゲームのステータスで理解した。だが、今回あの図形から出てくるべき結論は「実験的に検証可能な何か」だ。もっとずっと具体的なのだ。
それに対して、これまで彼が見て、そしてなんとかイメージを作り出した、工程が全く繋がっていない。そして彼は見ていない工程のイメージなど出来ない。見ているものですら怪しいのだ。
恐らく彼だけでなく、綾にとってもそうだ。
「例えば、マイクロブラックホールの蒸発って仮説が有ったとしたら、その結果は発生する熱? 光の波長のパターンみたいなので確かめるわけじゃない」
大悟はとりあえず例を挙げた。
「そうね、九ヶ谷くんとさららさんの答えが一致してたのに私は…………」
「いや、そういう話じゃなくてね」
いきなり顔を曇らせた春香に大悟は慌てる。だが、春香はきっと顔を上げた。
「解ってるわ。今度は負けない……。じゃなくて、えっとORZLの形から出てくる現象の捉え方ってことね」
春香は思案顔になった。
2018/02/25:
来週の投稿は水、土の予定です。




