25話:前半 折り紙の系統樹
8月の24日。夏休みが終わるまであと一週間。つまり、タイムリミットまでも一週間だ。
精力的に作業をしている女性陣に家から持って来た焼き菓子、今日はシュトルーデル、を配り終わった後、大悟は改めて部屋の壁に映し出されたプロジェクターの映像を見た。
中心部以外はもやに包まれたポリゴンは、まだ全く厳密ではない。可能性は無限、ではないにしても広大である。折り紙で言えば、手順一つごとに折るか曲げるか、折るなら山か谷か、曲げるなら……とやっていくのだ。更にそれが螺旋型になったり。隣り合った構造と場所を奪い合ったりする。
「私たちの体内で遺伝子がやってることと同じと言えば同じなんだけどね」がさららの言葉である。春香に補足して貰うと遺伝子がアミノ酸の並びに翻訳された後、そのアミノ酸の鎖が物理化学的性質によって立体構造を作って機能を持つタンパク質、例えば消化酵素などになるのと同じ事だという。
その計算はあまりに膨大で、どうして生物が間違いなく決まった形にアミノ酸の鎖を折りたためるのかは未解決問題らしい。
と言っても、そう説明をしてくれた春香の胃の中で消化酵素がクッキーを分解しているのだが。
生物学的解釈から神の動物であるORZLの折り方に移ろう。どんな手順で折るも曲げるも純粋数学的には可能な形らしい。ちなみにこの場合の純粋数学的にはとは、厚さのない紙と仮定する限りにおいて、という意味らしい。
一日に何度も解らない言葉が出てきて、そのたびに現実とはかなりかけ離れた概念が大悟の頭を直撃する。それをなんとかイメージに当てはめていくことだけで大悟は精一杯だ。
その膨大な可能性は、大悟が見たもやもやの時点で、かなり絞られてもいるらしい。
図らずも大悟の言ったとおり、重力の強さは平面である余剰次元が折り紙になった時の”仮想的な体積”で定義できるのだ。炭素原子核に重力崩壊を起こせる以上に強い重力、つまり一定以下の体積への折りたたみ、ということだ。
逆に言えば、一定以上の体積を持つ図形は全てはじいて良いことになる。
だが、同じ体積でも違う形はいくらでもある。さらに、情報重心が弱い内に出来る実験という意味では重力は弱すぎて不適切。これはさららが昨日、上のビルにいる柏木教授と確認したらしい。
と言うわけで細部の特定が必要なのだ。あり得る可能性はまるで生物の系統樹のように枝分かれしていた。その一つ一つが異なる折り紙生物だ。なるほど生物学に戻ってきた。またあの感覚である。
もっとも、今の大悟には深淵を覗き込んでいる余裕はない。何しろ、可能性の数は実に10の10乗、約100億通り。
もし一つ一つ計算していくと地球上の全てのコンピュータを使っても100年はかかるという。ちなみに、コンピュータの性能が三年ごとに二倍になり、コンピュータの数が一年ごとに10パーセント増えていくという楽観的予測を前提とした話らしい。要するに十日では絶対に無理だと言うことだ。
本来なら実験をして更なる情報を得れれば良いのだが、過去二回のLczはもう終わってしまっている。詳細なデータが得られた2回目、つまり4月の先核研の小型加速器のデータは計算に取り込まれている。
問題となる将来のLczは太平洋上を移動中。しかも、まだ最終形としての台風ではなく低気圧程度の段階。
「ダイゴの発想にも期待してるから、思いついたらいってね」と木で鼻をくくった様な期待をされても、ここまで理解するだけで何度もおぼれ死にそうになった彼に出来ることはない。
大体、一人の人間の一生に出来る物理学の量が決まっているとしたら、彼はこの前のマイクロブラックホールの蒸発を思いついた時点で使い切っているはずだ。
(というか、むしろ将来返さなければいけない借金までありそうだけど……)
だから他の三人がそれぞれ専門分野で活躍する中、大悟の仕事は残った雑用である。今日も文句一つ言わずに雑務にいそしんでいる。
次のおやつの希望を聞いたりするのは彼に可能なことだからだ。
ただ、それとは別のレベルで一つ気になることがある。
「小笠原さん。ここのデータなんだけど、もうちょっと粒度を落とせないかしら。原理的には……」
「粒度……ああ精度の事ね。と言われてもあるがままのデータがそうなってるんだけど?」
「でも、これじゃあゲーム項にインプットしたら計算量が追いつかないわ……」
「そこら辺の加工はそちらの仕事でしょ」
女子二人のやり取りだ。二人の関係を大悟は知らない。解ることは、綾が春香のことを把握していることと、春香が綾が自分のことを把握していることに驚かないことだ。
もう一つは二人の考え方が全く正反対で有ること。それが、この作業においてダイレクトにぶつかっていること。
それでも、この3日間作業は進んでいる。後ろから見ている印象ではだが。
「よし、ここで一回走らせてみよっか。春香お願い」
「分かりました」
春香がパソコンを操作すると、プロジェクターが地下室の壁に格子模様の折り紙を映し出した。ちなみにホワイトボードはさららが占有しているので、大悟が苦労して拭いた壁がスクリーンだ。
一枚の平面から折りたたまれていく次元の折り紙、ORZL。その形が生物の系統樹のように分裂しては別れていく。
太い枝の先から無数の小枝が別れ、その先に針葉樹の様な細い葉が茂っている。そういう印象だ。
「まずはここまでね」
「はい。まず問題になるのはここの分岐でしょうか」
春香が根元に近い分岐の一つにカーソルを合わせる。根元がこれだけ刈り込まれているのは、先ほどの体積による選別らしい。
「そうだね。新しい計算の結果を考えると……。こちらを選択すべきでしょうね」
さららは春香が系統樹の隣に表示した計算結果を見て言った。分岐の片側画にラススラッシュが付く。すると、その分岐の先に有ったすべての形が消えた。可能性の大量絶滅だ。
「今のでどれくらい絞り込めたんですか?」
大悟はさららに聞いた。
「うーん、だいたい15億くらい可能性が減ったかな」
「億……そんなにですか」
「簡単で影響の大きなところから始めてるからね。最初はそんなもんだよ」
さららは何でもないことのようにいった。そして、また三人の作業が再開される。大悟はそれを見ながら、さららが散らかした計算用紙を整理する。
(そう言えば前回もこんなことをやってたな……)
大悟は手を動かしながら、先ほど行われたことのイメージを脳内で整理する。終わったことを理解するだけで精一杯な自分に少し焦る。
◇◇
「これだとどちらに行っても、重力の強度は変わらないし、他の条件に対しても中立です」
「うーん。情報重心の精度も限界だし。まいったな」
春香が疲れた声でいった。さららが机の上にうつ伏せになっている綾をちらっと見て首をひねった。今日は8月26日。本来なら夏休みの終わりから必死で目を背けるべき時期だ。
大悟は最初は簡単だというさららの言葉をかみしめていた。
DNAならぬ折り紙の作る系統樹は枝打ちされた樹木のようにかなり寂しくなっている。残った可能性は約二千。つまり最初に比べれば一千万分の一以下になっている。
だが、残った枝の配置はバラけていて、最初のように一つを切れば大量に消えるということはなくなっている。
一つ前の計算でも枝一つ潰して先の12枚の可能性が死んだだけだった。しかも、それはさららの理論的分析に対して、春香が半日コンピュータを走らせた結果だ。
ちなみに、大場からは黒体放射を前提にして事故の痕跡をシミュレーションし直した結果、ぴったりと一致したという連絡が来た。おかげで向こうのコンピューターをぎりぎりまで使い倒しているのにだ。
パズルだと周りが決まれば特定は楽になっていくはずだが、この場合はまばらになった枝の先がマニアにしか解らないような些細な差になる。
そうやって作業が詰まってくると、必然的に起こるのが……。
「だ・か・ら! これ以上簡略化したらリアリティーがなくなるっていってるでしょ」
綾がいった。
「一日に可能な計算量の十倍のデータをもってこられても困るの」
春香がいった。
「えっと、取敢えず向こうにそう伝えます」
大悟は両方に玉虫色の答えを返す。二人の間のメッセンジャー役だ。それをやればやるだけ、二人の間の考え方の違いが解る。あくまで現実を見る綾と、すっきりとした理論を追求しようとする春香の相性は最悪だ。
責任者であるはずのさららは延々とホワイトボードの前で暗号を量産しては消す作業、傍から見たら穴を掘って自分で埋める拷問、を繰り返している。
「「どっちの味方なの」かしら」
「いや、味方とかそういう話じゃ……」
二人の間に挟まってクッション役をつとめようとする大悟だが、このままではクッションではなくサンドバッグになる未来も遠くない。何しろ計ったように正反対の方向から圧力がかかるのだ、圧力を逃すすべがない。
それで快感を得でもすればマゾヒスト説の証明完了だろう。
2018/02/16:
来週の投稿予定は月、日の二回の予定です。
木曜日は投稿をお休みさせていただきます。




