3話 天使の横顔
二重窓の外から微かな蝉の合唱が聞こえてくる。
「文理選択希望の提出は月曜までだからな」
眼鏡の女性教師はそう言い残して教室を出た。校庭の樹木からのBGMは一瞬でかき消され、教室はざわめきに包まれた。
今日は一学期最後の土曜日だ。学生達にとっては夏休みの予行演習にしか感じられない。来年にはそんな余裕はなくなると解っているのでなおさらだ。
浮き立つ教室。次々に席を立つクラスメイトの中、大悟はスマホを片手に席にいた。画面を見る振りをしながら、耳は隣の席の会話に釘付けになっている。昨日の放課後、図書館で綾に吹き込まれた不穏な情報のせいだ。
「進路進路って鬱陶しいよね細川」
「そうそう、文系一択に決まってるし。春香もそう思うでしょ」
大悟はちらっと横を見る。こちらに背を向ける二人の女生徒の隙間に、春香の横顔が見える。セミロングのつややかな黒髪、切りそろえられた前髪の下の大きな瞳。すっと通った鼻梁に小さな口。清楚という表現が制服を着たような美少女だ。
友人に同意を求められた春日春香は小さく首を傾げた。
「そうだね。 毎日言わなくても良いのに、とは思うかな」
「だよね。二時間目にも言ってたし。数学教師が担任なのに理系志望が少ないから焦ってんだよ。数学なんてもう沢山」
隣で繰り広げられているのはなんと言うこともない会話だ。ちなみに学年二位の成績を誇る春香の友人だけあって、三人とも大悟よりもずっと成績が良いはずだ。文理関係なく。
「あっ、でも春香ならどっちもいけるよね。苦手教科なんてないもん」
「だよね、春香に数学で勝てるのって三組の清瀨さんくらいじゃない」
「まあ、女子が数学トップとか終わってるけどね。そう思わない春香」
「 そうだね、男子の皆も頑張らないと」
「あはっ、春香にそんなこと言われたら、皆泣いちゃうんじゃない」
黙っていれば凜とした美人。口を開けば柔らかい笑顔。どんな話題でも一拍おいて返答するのも、ちゃんと考えているようで好印象だ。
人当たりも良く、大悟のような目立たない男子にも挨拶してくれる―これは隣の席というだけなのだが―まさに理想の天使だ。
その天使におかしなところは見当たらない。最後は取りようによってはきついけど、彼女ならきっと激励の意味に違いない。
三人の話題は、春香に数学の宿題を教えてもらったことに移っている。彼女に教えてもらえるなら、数学でさえ好きになりそうだ。数学教師などよりずっと丁寧に解りやすく教えてくれるだろう。
大悟はあり得ない光景を想像しようとして、小さく頭を振った。大事なことは、隣のガールズトークに何の異常もないことだ。
(綾のやついいかげんなこと言いやがって)
昨日の放課後に綾に吹き込まれたことを思い出す。
◇◇
「最近春日さん、調子はどう?」
「知るわけないだろ。単に隣の席ってだけなんだから」
「別に隠さなくて良いのに。あんな美人が隣にいたらいやでも気にするし。健全な男子高校生なら毎晩ベッドの中で裸に剥くもんでしょ。うわ、さっきの想像力で春日さんを……酷い」
「いい加減セクハラやめろ。春日さんな。別に変わらない…………ぞ」
大悟は慌てて否定した。断じて、そういう不埒な対象にしたことはない。彼にとって春日春香はあこがれなのだ。
ただ、ここ一ヶ月の春香に僅かな、違和感というには些細な変化を感じていたのは確かだった。
「ほら言いよどんだ。大悟も何かおかしいと思ってる」
「…………」
大悟は沈黙してしまう。この場合沈黙は肯定と同義だ。正確に言えば綾のせいだ。大悟の曖昧な印象と違って、綾のこの手の判断には何らかの根拠がある。人間観察において、綾が間違った例を彼は知らない。
だから、誘導と解っていても聞かざるをえなかった。
「春日さんの情報って何だ?」
「それを言っちゃ取引にならないでしょ。……まあヒントくらいはいいか。人が変化する理由の一番は何だと思う」
「そりゃ、環境とか。…………人間関係とか」
「最大は人間関係。夏休み明けたら別人みたいになっちゃう子とかね。実は春日さんが年上の、大学生らしい人と一緒に居たって情報があるの」
自らの言葉がいやな想像をさせる。イケメン大学生と春香が並んで歩く姿は、憎らしいほど様になっていた。
「……だからって、僕には関係ないだろ」
大悟は言った。春日春香は最初から高嶺の花。仮に想像が当たっていたとしてもどうしようもないし、どうするつもりもないのだ。
◇◇
大悟はもう一度春香を見る。親しい友人同士が集まって放課後の予定を話す、何の違和感もない光景だ。
(何がヒントだ。こっちの不安をあおってるだけじゃないか)
SNSに「やっぱりやめる」と入力する。綾には放課後までに決めろと言われているのだ。ぎりぎりの締め切り設定に、自分を乗せているという相手の確信を感じる。せっかくの土曜日だ。この前のゲーム企画の続きをがっつり進めたい。
そうそう思い通りに動かされてなるものか。大悟は親指を【送信】ボタンの上に移動させる。
「えっ、でも、ほらノートのお礼にって約束したじゃない。カレドってお店で……」
隣の空気が変わったのはボタンと指の間に静電気が流れようとした瞬間だった。
「ごめんね。急な予定が入っちゃって。それにほらお礼なんて良いから」
春香が友人の誘いを断った。大悟は思わず指を上げた。
春香は家の習い事や門限が厳しく、友人達はそれを考慮して行動を決めているようだった。ところが、ここ一月それでも予定が合わないことが出てきていたのだ。極わずかだし、そういうこともあるだろう位にしか思っていなかった。
だが、今日はドタキャンだ。しかも、今出た店の名前は知る人ぞ知る店、綾や母も評価しているカフェだ。恐らく、春香に勉強を教えてもらったお礼としてちゃんと考えたのだろう。
「だって先週も……」
案の定、友人は食い下がっている。だが春香は「ごめんね、外せない用事なの」と言って立ち上がった。表情は申し訳なさそうだが、視線がすでに教室の入り口に言っている。
「……じゃあ、しかたないか。お礼はまたにする」。
キャンセルされた相手の方が折れた。春香はそれを確認して早足で教室を出た。
大悟は隣の席で取り残された二人の女生徒と一緒に、教室を出る春香の後ろ姿を見送った。ドアをくぐるまで春香は一度も振り向かなかった。
二人は夏休みの予定もおぼつかない事を話し始める。
大悟はスマートフォンを握り直した。送ろうとしたメッセージを消す。「今から教室出る」と入力。指を震わせて投稿ボタンを押した。ピコンと音がして、すぐに投稿が来た。まるで用意されていたようだ。
「遅い。駅前で合流」
大悟はため息をついて立ち上がった。一学期最後の土曜日はこれで潰れる。これが夏休みの予行演習にならないことを祈るだけだ。