22話:前半 SとM
「楽にしたらどうかしら。家には私たち二人しかいないんだし」
白いテーブルを挟んだクラスメイトが誤解を招きそうなことを言った。そういうセリフは、敵を睨むような目を向けながら言われてもこまる、と大悟は思った。
(どうしてこうなっている?)
大きな門をくぐって、広くて長い廊下を通ってたどり着いたのは、彼と彼の妹の部屋を合わせたより広い部屋だった。
白く清潔で、物が少ない洋室。甘い香りが鼻腔をくすぐるように感じるのは錯覚だろうか。
大悟は部屋の真ん中のローテーブルの前に正座して、状況を把握しようと必死だった。
だが、目の前にいるクラスメイトの存在が彼を混乱させる。彼女がいること自体は全く不思議ではない。ここは彼女の部屋だからだ。入るのは初めてだが間違いないだろう。
彼が春香の私室に存在することが間違いだとしてもだ。
もっとも、ここにいる理由だけなら簡単だ。あのプレゼンから二日後である昨日の夜、春香からのメッセージにより場所を指定して呼び出されたのだ。
大きな屋敷の白い壁。その前で小市民として恥ずかしくないくらい所在なさげにしていると、大きな門の横のドアが開いた。そして、出てきた春香に、屋敷の中に連れ込まれた。
(うん、やっぱり訳が分からない)
改めてテーブルの向こうに座っている春香を見た。黒の無地のシャツとカーキ色のキュロットスカート。どうもちぐはぐな装いだ。
どう考えても不機嫌な春香は何も言わない。大悟としては彼女の思惑を早く知りたいところだ。
ついでに言えば、彼女がさららのラボに戻るつもりがあるのかも気になる。そう思いながらも、彼もまた沈黙を守っていた。
情報があまりに少ないのだ。ただ一つわかることは、今の春香があちら側。つまり、彼がもう会えないかと思ったサイエンスモードだろうということくらい。
やはり、二日前のアレがよほど気に障ったのだろう。どちらかと言えば、彼の方が色々と言いたいことはあるのだが。
「「よく僕の前に顔を出せたものだな」とか言わないの?」
やっと口を開いた春香が剣呑なことを言った。
「問答無用で呼び付けた相手に言う言葉じゃないと思うけど……」
大悟は控えめに反論した。だが、春香はまるで彼のせいであるかのように、ため息をついた。
「……ここに来てもらったのは、ありとあらゆる事態を想定して、最適だと判断したから。九ヶ谷君のためでもあるんだから、我慢して」
不本意そうに発せられた言葉は全く要領を得ない。大悟が知りたいのはありとあらゆる想定ではなくて、春香に呼ばれたただ一つの理由なのだ。
「えっと、用件は何なのかな」
「だから、用件があるのは九ヶ谷君でしょ」
春香は再び大悟を睨んだ。大悟は首を傾げるしかない。
「……要求を聞きたいの」
「要求?」
春香がもう一度ため息をつくと言った。それは、呼びつけた相手に言うことじゃない。
「登校日、図書館」
春香が困ったように言った。単語だけ並べられても困る。登校日の図書館とは、春香に反物質仮説を罵倒されたあの時のことだろう。
今更、それがどうしたというのか……。
「どうしても私の口から言わせたいのね。…………言ったでしょ。もし九ヶ谷君が有効な仮説を出せたら、何でも言うことを聞いてあげてもいいって」
春香はこれ以上ないほど苦り切った表情でいった。
(忘れてた!!)
そう言えば、確かにそんなことを言われたような気がする。あの時は春香の罵倒に対する反発でいっぱいいっぱいで、そのセリフは彼の中では罵倒の一部だったのだ。
「約束は守るわ。九ヶ谷君に負けた屈辱を忘れないためにも。だから言って……要求を」
唖然とする大悟にそう言って、春香は唇を噛んだ。
「な、なんでも?」
大悟は思わず聞き返した。春香はテーブルの上に置いた手をびくっと震わせた。
「…………そう、何でも。一つだけ。もちろん私に可能な範囲のことしか出来ないけど。犯罪に手を貸せとかは駄目だから」
(どれだけ酷いやつなんだ彼女の中の僕は)
そう思いながら、大悟の視線は反射的に彼女の背後の家具、この部屋で一番大きな、つまりベッドに向かった。
綺麗に整えられたベッドは、この部屋の匂いを更に良くしたような匂いがしそうだ。その壁には制服が掛っている。
「…………やっぱり、そうなのね」
大悟の視線に気がついた春香が、絶望的な表情を浮かべた。
「えっ、あっ、いや今のは違くて……」
大悟は慌てて釈明しようとする。今のは思春期男子としての反射のようなものだ。決してそういう意味ではない。いや、よしんば無意識でそういうことを望んだとしても、それは内心の自由の範囲であり、つまり無実だ。
「い、いいわ。最悪の事態は想定していたもの」
大悟が心の中で言い訳していると。春香はすっと立ち上がる。何をするのかと思うと、ベッドに仰向けに倒れた。そして、両手で目を被った。
「好きにすれば良いわ。家族が帰ってくるまで、あと四時間。後の処理を考えたら一時間は欲しいけど」
そんな姿勢でも綺麗に揃った足。ただ、キュロットスカートじゃなかったら色々危なかっただろう。
「あの、話の展開が急すぎて……」
「後で訴えたりしないから。大丈夫。貴方にあんな形で借りを作ったままなんてご免だし。ただ、言いふらしたりはしないでほしい。九ヶ谷君も困るでしょ」
春香は全然大丈夫でないことを言った。サイエンスモードの彼女は色々とぶっ飛んだ言動をするが、これは際立っている。
「こんなこと何でもない。ほんの一時のことだし、死ぬ気で我慢すればきっと……」
そして自分に言い聞かすようにそんなことを言っている。
(つまり死ぬほどいやと……)
完全に自暴自棄だ。たった一日で、負けず嫌いをここまでこじらせたらしいことに感心すらする。
それはそうと、彼にとって容易ならざる事態だ。目の前にはクラス、いや学年一の美少女と言ってよい同い年の少女。
それがベッドに身を投げだして、無防備な状態。サイエンスモードのとっつきにくい態度ではあるが、それが返ってこの状況を引き立てている。
正直に言えばこれはこれであり。いや、むしろ…………。
(これはもう……)
逡巡を振り切るように、大悟はゆっくりと立ち上がった。ベッドの上の春香がびくっと震えた。テーブルを迂回して一歩一歩、ベッドに近づく。春香が両目を覆った腕に力を込めるのが解った。
ベッドから少し離れたところまで近づいて春香を見下ろす。キュロットスカートから延びる綺麗にそろえた足が、ベッドから床に付いている。太ももなんてほとんど出ていないのに何でこんなに色っぽいのか。
体の線が出にくい服装なのに、腰のくびれとなめらかそうなお腹。そして、仰向けでも形を保った二つの膨らみがわかる。
白い喉。細い顎。小さな口。腕の下に隠された瞳は大きくつぶらであることも知っている。
大悟は更に春香に近づくと、手を伸ばした。ベッドの上で春香が微かに後ずさった。微かに軋む音。それを追うように大悟の手が伸びていく。
「春日さん。ちょっとテーブルに戻ってもらえるかな」
未来の自分に一生恨まれるかも。そう思いながら理性の全てを振り絞って、春香の手を掴んでベッドから引き起こした。そして、体を硬くしたままの春香をテーブルに座らせる。一度だけ腰に触れてしまったのは仕方がない。
「…………」
「えっとね、春日さん」
テーブルの向こう側。つまり、ベッドから距離を離した位置に戻って大悟は説得を開始する。もちろん、何で僕がと思いながらだが……。
それでも彼にだって失いたくないプライドくらいはあるのだ。それに……。
「…………」
「あの発表はあくまで三人でやったものでしょ」
「…………そういった偽善的な言葉は好きじゃない」
春香は顔を上げない。
「そうじゃないよ。まず第一に、物質が膨大なエネルギーそのものだって知識は春日さんから教えてもらったものだし。マイクロブラックホールは大場教授の取材をした時に、綾がたまたま出した話題がきっかけなんだ」
顔を伏せたままの春香に、大悟は着想に至るまでの過程を説明した。そして、カバンから借りていた本を取り出した。
「これにもだいぶ助けられたし。ブラックホールの蒸発とか……」
「下巻の内容だったと思うけど……」
「図書館で借りた」
大悟は言った。春香が顔を上げて、テーブルの上の本を見た。それを手に取る。そして、本が歪むほど手に力を込めた。
「私、これ五回ぐらい読み返したんだけど、中学生の時。上下共に」
「う、うん、解りやすかったし面白かったよ。下巻はブラックホールのところだけしか読んでないし、それも後半わけ分からなかったけど……」
どう答えていいのか解らずに大悟は言った。
「そこからが一番重要な…………。ああもう、私どうして貴方なんかに負けたのかしら」
春香がやっと顔を上げた。彼を睨む瞳にさっきとは違う色が生じている。同じ睨んでるのでも色々あるんだなと大悟は思った。
彼がもう会えないと思っていた春香がそこにいた。
「じゃあこの話はこれで終わりだね」
大悟がホッとしてそう言った。だが、春香は上げた顔を背けた。




