21話:前半 求める世界
「そろそろさららさんの思惑を聞かせて欲しいんですけど」
綾の言葉にさららは何も言わず、春香が置いていったノートパソコンの前に立った。そして、無言で人差し指でキーを押した。ホワイトボードに先程のシミュレーションが再開、加速器を炭素原子核が回る。
「本当、良く出来てる。でも、これじゃ駄目なんだよね」
さららは静かに言った。表情には先ほど大悟が父親を連想した時と同じ色が見えている。
大悟は改めて、今回の異常な事態に至るまでの経緯を思い返した。さららの理論を認めない大場に対して、春香が問題が解けると断言した。その春香にさららが自分で考えろと突き放した。しかも大悟や綾という足手まといまでくっつけた。それがこの奇妙で理不尽な夏休みの課題の始まり。
そして、先ほど結論が出た。大悟の仮説ではない。春香が準備から仮説に一歩も進めなかったことだ。大悟が答えをでっち上げたことで課題クリアになったが、それは奇跡的幸運、いやハプニングである。
さららは最初から春香の答えに期待していないように見えた。当たり前と言えば当たり前だ。大学の教官が高校二年生に期待してどうする。だが、それなら何のために……。
さららはノートパソコンから手を離すと、大悟と綾に向き直った。
「思惑って言っても、最初に言ったとおりだよ。私たちは教科書を書く側なの。つまり未知の、まだだれも知らないことを考えるのが役割」
それは確かに前に言っていたことだ。
「でも、ハルは自分の役割をシミュレーションに限定したがっている。何を計算するのかは他の人に決めて欲しいってこと。誰かに叩かれるのを待ってる計算機みたいにね」
「計算機……」
大悟はぎくっとした。それは、彼が春香に感じたイメージだからだ。そして、今回の春香の役割はあたかも……。
「公式を選んで数値を入れれば一意に、つまり唯一の正しい答えが自動的に出てきて欲しい」
大学に春香を送って行く途中の会話を思い出した。全てが対称的な美しい世界。彼女が語ったのはそれに対するあこがれだった。
「でも、科学の世界ってそういうものじゃないんですか?」
大悟は思わず言った。春香を庇うつもりではなく、それは彼の疑問だった。
「もしもこの世が完全にそうだったら、逆に言うと何もないの。例えば反物質。この宇宙にある物質は全てエネルギーから生まれた。そして、エネルギーからは普通の物質と反物質が1:1で生じる。これは、この世界に普通の物質しかないことと矛盾するでしょ」
大悟の失敗した仮説の反対、エネルギーから物質が生じる対創生だったか、そういう話だろうか。なるほど、それなら世界は対消滅と対創生が繰り返されるだけだ。
「完全に美しい世界、水平な世界だったら物質と反物質は丁度同等生じる」
さららはホワイトボードに水平な線を書く、そして上に正物質、下に反物質と書いた。
「でも、実際には物質しかない。つまり、物質と反物質を生み出す水平のラインがほんの少しだけズレてる。例えば1:1.000000000000000000001って感じ。これが延々と繰り返された結果、宇宙はほとんどが物質になった。つまり、その僅かな傾きが私たちが世界と思ってる物を作っている」
「この世界は歪んでるって事ですか?」
綾が言った。
「そういうこと。完璧な世界は完璧だから存在する必要すらない」
なんとなく言っていることはわかる。完全にバランスの取れたキャラクター。人間側の都合も、魔族側の都合も同等に扱う勇者がいたらどうか。
どちらも同等に正しいと認識して、どちらも同等に価値があると認識したら、世界など救えない。だが、同時にそれは主人公が意志を持つからではないかとも思う。世界のルール、物理法則は人間でも魔族でも同等に働くのではないか。
「でも、数学は有効なんですよね」
数学の世界は完璧だから意味がないと言いたいのか。大悟の脳裏に浮んだのは自宅の父の書斎、そこでホワイトボードに向かって必死にペンを動かす父の姿だった。
「多分キミの想像以上にね」
さららはにやりと笑った。
「ダイゴの仮説に敬意を表して、こういう例はどうかな……」
さららはペンを持つとさらさらと数式を綴った。
「一般相対性理論のシュワルツシルト解。アインシュタインの方程式を高密度の物質の存在という条件で解いて出てきた答え。意味するところは、密度が高まりすぎると無限に収縮し続ける。つまり、ブラックホールが存在することを予言した。もちろんブラックホールが存在するなんて想像も出来ない時代に。これは人間と方程式の関係について二つのことを教えてくれるの」
目の前の見たことのない式が、大悟には父の方程式に見える。
「まず一つ目。この式は厳密解。アインシュタインの考えた方程式から純粋に数学的手法で導かれた。つまり、方程式の答え。でも、この解を見つけたのは生みの親であるアインシュタインじゃなくてシュワルツシルト。それだけじゃない。二つ目、アインシュタインは最初ブラックホールの存在を認めたがらなかった。自分の方程式が作り出した世界に、こんな歪な物が存在することがいやだったみたい」
さららの言葉に大悟のイメージが刺激される。物理法則は世界のルールだ。ゲームならその世界のルールを作るのはデザイナー。だが、プレイヤーによりそのルールを考えたデザイナーが思いもよらないプレイが生じる。
それは、いわばプレイヤーによる世界の探求。チートとかバグと言われることもあるが、ゲームにおけるもう一つの冒険だ。
さららは別の方程式を書き上げる。一般人には覚えてるだけで尊敬しそうなものだ。
「フリードマン方程式。宇宙それ自体がもってるエネルギーの総量によって膨張したり、収縮したりするという解。同様にアインシュタインの方程式から導き出されたけどアインシュタインはこの結果も認めなかった。それどころか自分の方程式を修正して丁度それに反発する項、宇宙項を導入した。宇宙は安定だと定義したわけね」
まるでゲーム会社がバグにパッチを当てるような話だ。だが、ミスを修正することは当然。
(いや、待てよ宇宙は確か……)
「その、わずか数年後、ハッブルによって宇宙が膨張していることが発見された。アインシュタインは自分の修正を生涯最大の過ちと言ったわ。そして、自分で付け加えた宇宙項を削除した」
自分の方程式を信じなかった発案者。それは、大悟の数学に対するイメージと全く違う。
「さらに、この話には更に続きがあってね」
さららはそう言うと宇宙項が追加された方程式を指差した。
「宇宙項は今では正しかったと考えられている。宇宙は確かに膨張したり収縮したりするけど、アインシュタインが考えたようにそれに対抗する性質、弾力みたいなものね、も同時に持ってることが分かってきたの。宇宙項は、この宇宙それ自体が持つ性質を見事に予想してた。ちょっと不公正な言い方だけど、アインシュタインは自分の方程式から出てきた三つの答え、ブラックホール、宇宙の膨張、宇宙空間の弾力という性質。世界そのものの本質を表す答え、その全てを最初は否定したことになる」
史上最大の天才物理学者が、自分の方程式に振り回されるその姿。それは大悟がイメージしてた科学の世界とも数学の世界とも違う。
まるで方程式こそがすべてを知っている神で、人間はその宣託を受ける……。
「方程式は理論物理学者にとって最大の武器であると同時に、あまりに強力で人の身では扱いきれない力でもある。自分が扱うには過剰な力を持って、まだ誰も知らない未知の問題に挑む。そして万物理論は世界そのものを扱う。逆に言えば世界をまるごと未知のものとみなす。この意味がわかるかな?」
さららの静かな瞳が大悟に向いた。
「……方程式そのものが一つの世界。発案者もその全貌をしれない未知の世界。そして、それを使って挑むのも未知の宇宙そのもの。二つの巨大な世界に挟まれて……」
大悟の口から思わず漏れたのは、ある意味ヒロイックファンタジーのプロローグかというセリフだった。
またあの感覚だ。深淵を覗くゾッとするような、吸い込まれるような感覚。全く違った世界を覗いたのに、その世界が自分が知っている世界と…………。
「うん、そういうこと。というわけで数学は頼るとか、答えを出してくれるとか、そういう生易しいものじゃないの」
さららはそう言って微笑んだ後、ドアの向こうを見た。
「だから、なんでもよかったのよね。空間のダークエネルギーを絞り出すでも、マイナスエネルギーの宇宙の分離でも。それこそ反物質でもね。正しいか間違ってるか解らない。その中で考えてみる事さえやれればね」
話が春香に戻ったことで、大悟はなんとか戻ってきた。
そうだ、今問題になってるのは世界そのものなんて深遠なものではない。彼と同い年の少女のことだ。
2018/01/26:
予定通り投稿再開します。今後も三日に一回の投稿の予定です。
来週の投稿は月、木、日の予定になります。




