20話:後半 プレゼンー試験終了
「説明します。マイクロブラックホールの蒸発は質量エネルギーの百パーセントの解放と同じなんです」
大悟は言った。スライドはもちろん原稿もなにもない。それでも、昨日考えた流れはシナリオとして頭に入っている。ストーリーは記憶しやすいのだ。
「まず、6時のユニットでLczによって物理法則が改変された空間が生じ、そこに加速器の中を回っている炭素原子核が晒されます。この場合の、物理法則の改変は重力の強化だと仮定します。えっと、確か重力が他の力よりも極端に弱いのは、余剰次元と関係するって説があったはずです」
大悟は『世界を織りなすもの』の記述を思い出しながら言った。
「もともと原子の質量の99.9パーセントは小さな原子核に集中しているのでもともと高密度です。それが重力の強化により重力崩壊を起こしてブラックホールとなります。この過程が7時のユニットの中で進行。そして出来上がった炭素原子核由来のブラックホール、マイクロブラックホールが8時のユニット、正確にはその管の中に侵入。そして蒸発する。これがシナリオの基本です」
大悟はホワイトボードにペンを走らせる。
Lczによる重力強化 → 炭素原子核のブラックホール化 → ブラックホールの蒸発
「事故の直接の原因は最後にあるブラックホールの蒸発です。この現象はブラックホールと周囲の空間の特殊な相互作用によって生じます」
さららと春香にとっては周知の事実だろう。だが、彼は自分の理解している限りを説明するしかない。
「この現象を仮に数字で表すとこうなります」
ホワイトボードに大きく一つの数式を書いた。いや、数式などという高度なものではない。大学の研究室に書かれるものとしてはあまりにも幼稚だ。
1-1=0
「すべての空間において、極めて小さなスケールで考えたらですが。そこでは常にプラスのエネルギーとマイナスのエネルギーを持った粒子が生成しています」
個別の粒子であることを示すため、大悟はカッコを追加した。
(+1)+(-1)=0
「ですが通常の空間では正負の粒子は、次の瞬間対消滅してエネルギー0に戻ります。要するに、何も起こっていないのと同じです」
そこまで言ってこれを最初に読んだときのことを思い出す。エネルギー保存の法則も嘘じゃないかと思ったのだが、こんな詐欺が許されるのだ。
借金して得たお金を次の瞬間返済するようなものだ。金利が付かないから良いような物の、あまりに不毛な行為だ。しかも、これが空間というものの基本的性質だというのだ。
「ですがブラックホールの表面、【事象の地平面】に接している空間では違うことが起こります。このプラスとマイナスの粒子が対消滅して0に戻る前に、ブラックホールにより分離される」
通常空間:
(+1)+(-1)=0
ブラックホール周辺:
+1 → 外宇宙
BH ← -1
大悟は-1から矢印を伸ばしそこにBHと書いた。そして、+1から外に矢印伸ばす。
「マイナス粒子がブラックホールに吸い込まれ、残ったプラス粒子が正反対の方向、つまりブラックホールの正反対に向かう。通常空間と同じくトータルしたら0です。でも、これを外から見たらブラックホールから+1のエネルギーが飛び出し、ブラックホールのエネルギーが1減ったように見えます」
これがブラックホールの蒸発だ。ブラックホール自身は何もはき出していないのに、ブラックホールからエネルギーが飛び出している”ように見え”。そして、ちょうどその分だけブラックホールのエネルギーが”減る”のだ。
宇宙の全ての空間で、大悟の周囲の空間でも起こっている不毛なプラスマイナス0が、ブラックホールというマニアックな状況でだけ大きな意味をもつ。
ただ、本によるとその先に延々と、これが物理法則の根幹に関わる大事だと書いてある。全く理解できなかったところである。幸い今回のシナリオには関係なさそうだった。正確にはないことを祈っている。
「ホーキング放射がどうして質量のエネルギー化になるの?」
さららが尋ねた、表情を見るに明らかに面白がっている。
「質量はエネルギーです。プラスエネルギーの粒子がブラックホールから放射され、マイナスエネルギーの粒子がブラックホールに吸収される。これはブラックホールから1のエネルギーが放出され、それに相当する”質量”が減るのと同じです。つまり、ブラックホールの質量1が対応するエネルギーに変わることになります」
「なるほど」
「そしてこの蒸発はブラックホールの質量が0になるまで続きます。質量100のブラックホールは100のエネルギーを放出して消滅するわけです。つまり、ブラックホールの蒸発は効率100パーセントの質量のエネルギー化ということです」
大悟は言った。春香が大きく目を見張るのが見えた。
「さらに、蒸発という言葉どおりブラックホールの質量が小さければ小さいほど早く進みます。ブラックホール表面積は質量によって決まり、蒸発の速度はこの表面積と質量の比に依存します。ブラックホールの質量が小さければ小さいほど、その事象の地平面の面積は中に含まれた質量に対して大きくなる。宇宙に存在する天体レベルのブラックホールは宇宙の寿命よりも長い時間がないと蒸発しないけど、逆に小さなブラックホールは一瞬で蒸発します」
空気中に、プールと同じ量の水が浮いているのと一滴の水が浮いているのと、どちらの蒸発が早いのかという話。大場の話はこれだったのだ。
「この結果、炭素原子核から出来たブラックホールはあっという間に蒸発。つまり、自身の質量をエネルギーとして一瞬ではき出すわけです。これは蒸発というよりも爆発といえる」
そこまで言ってさららを見た。春香は固まっている。質問はない。それを確認して結論に向かう。
「仮に、炭素原子核から出来たマイクロブラックホールが合計1pgあれば、エネルギー保存の法則に反する事になる900ジュールのエネルギーを一瞬で放出できます。これが事故の爆発を引き起こしたエネルギーは炭素原子核の質量というシナリオの説明です」
さあどうだこのでっち上げは。大悟は聴衆を見渡した。
会場は沈黙している。プレゼンのメンバー、春香も綾も一言もしゃべらない。そして、試験官は……。
「……くくくく、くっくっくっ。あ、あははははは」
さららは腹を抱えて笑い始めた。
「そ、そっか、そうきたか。この裏技は思いつかなかったわ」
そんな言われ方しても解らない。合格かどうかを早く教えて欲しい。これほど受けたなら、敢闘賞でも、例えが上手いでも、大負けに負けてでも、お情けでいいので点数ください。大悟がそんなことを考えたときだった。
「ありえません」
鋭い声が隣から生じた。春香だ。何と仲間のはずの女の子から否定された。
(百歩譲って気に入らなくても、お情けの点数が入るまで黙ってて)
お家再興のチャンスがある限り討ち入りはやめようと同志を説得するどこかの昼行灯のような気分に大悟は陥った。
いや、同僚にいきなり後ろから斬りかかられたどこぞの高家筆頭も混ざっているかもしれない。
「どうしてありえないの」
だが、彼の願いも届かず、さららが春香に尋ねてしまう。
「今九ヶ谷君が説明したとおりです。原子核レベルの微量な質量のブラックホールは本当に一瞬で蒸発する。つまり、8時のユニットに到達するまで持ちません」
「えっ……」
「ふうん。じゃあ、やってみて」
「分かりました」
春香は手に抱えたままだったノートパソコンを操作する。
「光速の70パーセントに加速された炭素原子核の質量は約15800メガエレクトロンボルト……。これがブラックホール化した場合の、表面エントロピーから推測される温度は……」
鬼気迫るようにキーボードを叩く音がした。大悟の”シナリオ”を否定するためにだ。彼女にとってはそれが間違った”仮説”としても、何かが間違っていないだろうか。
「Lczで重力相互作用のパラメータが変更されたとしたら、元々中性子星レベルの密度の原子核は一瞬で重力崩壊します。そこから、ブラックホールとなった場合の蒸発までの時間は……」
春香の指が軽快にキーボードを叩く。大悟は自分が叩かれている気分になる。
再び活動を始めたプロジェクター。映し出したワイヤーフレームが拡大する。6時のユニットを通過した赤色の点、炭素原子核は七時のユニットの半ばも行かない内に黒い点、ブラックホールに変化した。そしてその直後に消滅した。
画面の端に表示された時間は0.213ps。
「一億分の2秒。光速の70パーセントの速度でもLczから一センチも進まない内に蒸発します。更に言えば、これによるガンマ線の発生も一度しか生じません」
魔王に挑んでいたはずなのに、何故か姫に攻撃される理不尽には言いたいことがある。
それでも、彼は反論のすべがなかった。彼の感覚では、光速の70パーセントで飛んでいるブラックホールだ。ユニット間の数メートルなど一瞬だと思っていたのだ。
登校日の図書館と一緒だ。彼には基本的な知識が不足している。仮説をシナリオと言い換えても、所詮無謀なことには変わりはなかったのか……。
大悟は思わず顔を伏せた。
「本当にそうかな?」
だが、さららが春香に疑問を呈した。
「えっ、な、何が違うっていうんですか。計算では疑問の余地なく……」
「ハル。ブラックホール化したのは何?」
「それは、だから炭素原子核ですけど、それが………………」
春香は戸惑いの表情になる。
「あっ!」
そして、何かに気がついたように目を瞬いた。キーボードに付いた手が震える。
「じゃあやり直してみよっか」
春香は押し黙ったまま、のろのろとキーボードを操作した。そして、もう一度シミュレーションが行われる。
赤から黒に変ったマイクロブラックホールは、7時のユニットを通過する間に一つに集まり、消えることなく8時のユニットに到達。そして、そこで蒸発した。
「えっ、どういうこと?」
大悟にはさっきとなにが変わったのかわからない。
「電荷の保存。エネルギーと同じく電荷も保存される。プラスの電荷を持つ炭素原子核が元である以上、出来たブラックホールはプラスの電荷を持つ。いわゆる普通の、カーのブラックホールじゃなくて、荷電ブラックホールってことね。荷電ブラックホールは電荷の反発で重力崩壊に時間が掛るし、そのままじゃ蒸発しない。まあ、細かいことを言い出したらキリがないけど、今のはそういうこと」
さららはシミュレーション画面を指差した。
「炭素原子が荷電マイクロブラックホール化。爆心地まで真空中を進んだ後、管の電子をはぎ取って電荷が中和される。普通のブラックホールになるってことね。そして、一瞬で蒸発。なるほど、二度のガンマ線の発生を含めて成り立つわ。あのデータとも合う。参った参った」
さららはどこかあきれたように大悟を見た。
「じゃあ、さららさん。私達の課題の評価は?」
綾が試験官に聞いた。
「まあ色々粗はある。というか根本的なところで試験相手がねえ」
さららは春香と大悟を交互に見た。
「けど、三人でって言った以上は合格って言うしかないね」
合格という判定に大悟は力が抜けた。彼らは理不尽なほど高難易度の試練を乗り切ったのだ。
(まあ、最後は誰と戦っていたのか色々おかしなことになったけど……)
大悟は首を逃れたクラスメイトを見た。まあいいのではないか、根幹である質量が膨大なエネルギーということを含め、彼が説明に使った知識は殆どが春香から教えてもらったものだ。
そして、綾の取材がなければまずたどり着けなかった。彼は二人の少女の集めた知識と情報をうまく筋が通るように組み合わせただけだ。
大悟がそう結論した時、スクリーンに写った影がプルプルと揺れた。
「こ、こんなの、こんなの認められない」
春香は絞り出すように言った。
(いや、だからなんで春日さんが反対するんだよ)
大悟はあきれて春香を見た。プライド云々は解らないでもないが、弟子を首という話を免れたのだ。それじゃ駄目なのか……。
だが、彼女の表情を見て大悟は固まった。春香は両目から涙を流しながら、大悟を睨んでいる。さっきさららに仮説は出せないと言ったときすら泣いていなかったのに。
春香は手で涙を振り払うや、走ってドアに向かう。そして、地下室から出て行ってしまった。
唖然とした大悟は、開かれたドアがギギッと音を立てて閉まりはじめるのを見ているしかなかった。
「うーん。ちょっと刺激が強すぎたね」
さららがバンと音を立てて閉まったドアを見た。
「いい加減、今回の件の思惑が知りたいんですけど。さららさんの」
いつの間にか取り出していたスマホから指を放して、綾が言った。
2018/01/19:
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
この話はもう少し続きますが、とりあえず切りが良いところまでたどり着きました。
次の投稿は一週間あけて2018/01/26(金)からの予定になります。
推理?終わりということで感想欄を開きたいと思います。
もし感想などありましたらよろしくお願いします。
(作者の数学力と物理力のステータスは中学生レベルですので、いただいた感想を理解できなくても、そこはご容赦を)




