20話:中編 プレゼンー真打ち
「では、事故の状況を物理的に再現することから……」
ノートパソコンを持ってホワイトボードの前に立った春香が口を開いた。さっきまで緊張していたように見えたが、口調は冷静でしっかりしている。
プロジェクターに映し出されたのは加速器のワイヤーモデルだ。それが画面上で縮小され、その横に幾つもの数式が並ぶ。
事故の状況を定義するための数式、炭素原子核の運動などらしい。画面上に次々と表示されるそれはまるでスタッフロールだ。相対論効果を考慮して云々、大悟には意味は殆どわからない。
大悟は横目にさららを覗った、試験官は黙って聞いている。
ページが変わり、次に示されたのは数式同様に記号と数字で出来ていても、少しだけ馴染みのある表示。プログラムだ。春香の説明によれば、余剰次元の折りたたみ方と関わるようだ。
二次元であるORZLの余剰次元モデルを折ることにより、擬似的な三次元の体積が云々。
さららはやはり黙って聞いている。ほっとすると綾と春香に挟まれた自分のプレゼンを思い出してしまう。これでは一人だけ……。
「まず装置が正常に動いている場合の加速器内の炭素原子核の動きについて。これは……基本的に先端核医療研究所から提供されたデータによっています」
一つ目のシミュレーションは簡単に終わった。炭素原子を表す黒い点が加速器を周回しているだけだ。大場に見せられたのと同じだ。
「次に、事故のデータから計算された炭素原子核の軌道の乱れを再現します」
次に表示されたのはまた数式。そして、プログラムが表示される。
「このように異常を生じた炭素原子核は、事故を起こしたポイントに向けてその運動を絞っていったと考えられます。それと、通常の運動との比較からLczの影響を受けた原子核の割合を……」
春香は6時のユニットと8時のユニットの間、センサーのデータのない区間に言及する。そしてすぐに6時のユニットにカーソルを戻した。
「つまり、6時のユニットを通過したLczによりどのような余剰次元の変更が生じたかが原因究明のポイントです。…………ですから、まずは余剰次元がLczにより変形した場合の炭素原子核の挙動の例を示します」
また数式、そしてプログラム。ただ、その間に異なる形の折り紙が挟まる。折り紙の形を変えることで、正常な起動とも事故の軌道とも違う軌道を炭素原子核が描く。
なるほど、この軌道と事故の時センサーが捉えた軌道の乱れが一致すればいいわけだ、大悟はなんとかそう理解した。
全てが理論的でふわっとした説明は一つもないように見える。これまでは、恐らく綾のですら夏休みの自由研究。そして、これがガチの科学なのだろう。
大悟が最後に見たときより、春香の作業はずっと先に行っていたのだ。これならきっと大丈夫なのだろう。少し癪ではあるが、彼女と自分の間の能力がかけ離れていることは解っているのだ。
自分の妄想の出番などないのだ。もちろん、最初から口に出すつもりなど無かったが、これを見ると思わず頬が赤くなる。
大悟は目の前で展開されていく時空の折り紙を鑑賞することにした。
「……作用の解離定数の変化によるものです。次の例では……」
だが、説明が続くにつれて大悟は違和感を感じ始めた。春香が事故のシミュレーションをしっかり構築しているのは視覚的にわかる。だけど、いっこうに話が進んでいないように見える。
これまで提示されたモデルのどれが、事故を説明する仮説に繋がるのだろうか?
「……つぎは――」
「ねえ、ハル。いつになったら仮説、ハルの考えを聞かせてくれるの?」
さららが落ち着いた声で聞いた。大悟は内心で思わず頷いた。春香は焦るようにキーボードを叩いた。
「あの、これまでの例からLczの影響を受けた原子核の割合は約21パーセント程度と推測されます」
やっと話が進んだ。そして、画面が切り替わる。
…………
スライドは最初の加速器のワイヤーフレームに戻ってしまった。
沈黙の中、プロジェクターの光に照らされた少女の影がホワイトボードの上で揺れた。
「どうしたのハル。続きは?」
さららの問が沈黙に包まれた地下に響いた。
「……ません」
凍りついた空気の中、春香の絞り出すような声が聞こえた。
「ここまでしか、出来ませんでした」
彼女は宿題を忘れた学生のように壇上で震える。悔しそうに、情けなそうに歪んだ表情。必死で涙をこらえているようなその姿。それを見て大悟は全てを察した。
春香は仮説を作れなかったのだ。ああやっぱりそうなのか。そういう納得が心に生じた。
同時に、自分にはあそこまで言っておいてという怒りが湧いた。
「……ここまでって、始まってもないけど」
さららは容赦しない。感情を読み取れない表情で春香を追い詰める。綾は何も言わずに成り行きを見守っている。
一人壇上で耐えている春香。その姿に、湧いた怒りはすぐにいたたまれない気持ちに変わった。
「答えが書いてないと評価のしようがないの」
さららは容赦しない。大悟は春香に自分の仮説が責めらたときのことを思い出した。
高校生相手にもう許してやれよ、そう思って横を見た。ホワイトボードから反射する光に照らされたさららの横顔に、小さな陰りが見えた。その陰り、天才科学者の表情には見覚えがあった。
世界を共有できない人間に対する一種の諦観。馬鹿にするでもなく、微かに切なさを感じさせる表情。むしろ、疎外されたのはこちらだと言わんばかりの……。そんな勝手で理不尽な表情。
それは、彼が父から感じたものだった。もちろん、向けられた時はそんなことは解らなかった。子供心にがっかりされたと思っただけ。
なのに、今になって父が彼に対して感じた感情に触れたと思った……。
そして、それを向けられて顔を伏せた春香。
「仕方ないね。じゃあ判定は不――」
クラスメイトのこんな姿を見るために、彼はここに来たのではない。
「あの、すいません」
気がつくと、彼は立ち上がっていた。
「んっ? どうしたのダイゴ」
大悟に向けたさららの表情はいつものように暢気そうだった。春香に向けていた鋭さの欠片もない。
「この課題は三人でやれって言いましたよね」
「確かにそう言ったけど。だから三人でやったんでしょ?」
さららは首を傾げた。大悟はゴクリとつばを飲み込む。スクリーンの前の春香は反応しない。綾は、何が始まるんだという顔でこちらを見ている。
大悟は大きく息を吸った。
「シナリオ……じゃなかった。仮説。あります」
片言のような言葉が出た。
「そう、じゃあ言ってみて。その仮説」
そう言ったときさららの瞳がやっと大悟に焦点を移した気がした。もう後には引けない。彼はホワイトボードの前に向かう。
「九ヶ谷君……」
春香が自分の方に向かってくる大悟を見た。当たり前だが、そこにあるのは戸惑いだけ。
圧倒的な敵国を前に、万策尽きて降伏を決めたお姫様。その前に、ろくな武器も訓練もない一市民が飛び出て勝手に戦うと言い出した。そういう状況だろうか。
互いにどういう顔をすれば良いのか解らないまま、大悟と春香は同じ電荷の粒子が、単に運動の結果としてそうなるように入れ替わった。
まっさらなホワイトボードが前にある。「やらないよりはましだ」大悟は心の中でそうつぶやくと、逡巡を捨てた。そして、口を開く。
「この事故の最大の問題、エネルギーの出所。それは…………質量エネルギーの解放。これが仮説です」
そして、ホワイトボードからペンを取ると、自分のスライドの最初に示した一文を書いた。
【最大1pg以下の爆発物から90ジュールのエネルギーを発生させる】
自宅一階の喫茶スペースで春香から教わったことを思い出しながら続ける。
「この事故が起こるためには、高密度のエネルギー源が必要だというのが今回の問題の本質です。そして、物質は高密度のエネルギーそのものです。なら、加速器の中に存在している物質、つまり炭素原子核の中に存在する、いやそのものである強い力のエネルギー、これが爆発のエネルギーとして解放された。そう考えるんです」
大悟はさららに言った。
「なるほど、炭素原子核の質量の形を取った強い力なら量的にも密度的にも相応のものが存在しているね。でも、その解放のメカニズムは? オーバが言った水素の核融合も質量エネルギーの解放の方法の一つだよ」
さららが言った。演者が大悟に変わっても容赦するつもりはないらしい。仕方がない、今の彼は志願した身だ。
「核融合による質量エネルギーの解放、つまり質量の1.4パーセントでは1pgで12.6ジュール。全然足りません。でも、Lczによりある物が作られれば、効率百パーセントで質量をエネルギーとして解放できます」
「九ヶ谷君、反物質は……」
プロジェクターと席の間で立ちすくんでいた春香が、思わずと言った感じで口を挟んだ。どうやらダメ元で頓珍漢なことを言い出したと思ったらしい。
「んっ? 反物質による対消滅が仮説?」
さららは首をかしげる。だが、大悟は二人に向かって首を振った。もちろん、今から言うのもダメ元だ。おそらく頓珍漢である可能性が高い。ただ、反物質ではない。
同じイベントでユーザを飽きさせてはシナリオとしては失格だ。
「反物質じゃありません。炭素原子核の質量エネルギーを解放する方法。それは……」
大悟はそこで言葉を止めて聴衆を見た。春香は戸惑いを浮かべたまま。顎を人差し指で支えているさららは感情が読めない。綾はその瞳に好奇心をたたえている。
「マイクロブラックホールの蒸発です」
「…………えっ?」
春香が唖然とした表情になった。さららが顎に当てていた指を離した。
「説明します。マイクロブラックホールの蒸発は質量エネルギーの百パーセントの解放と同じなんです」




