2話:後半 交換条件
「科学……な」
大悟はなるべく平静を装って答えた。そして、肩をすくめて続ける。
「科学って、がんじがらめで決まり切った答えを出すものだろ。数字と数式。それこそロマンが死ぬな」
思い浮かぶのは物理の授業だ。鉄球が落ちる、バネが伸びる。何が面白いのか解らないがまだイメージは出来る。だが、それを数式にされたらお手上げだ。
昔父の書斎にあったホワイトボードに並んでいた意味不明な物。そして、父が彼よりも優先した物。それでも歩み寄ろうとした彼を拒絶した壁。
「ま、大悟じゃ理解できないよね。ド文系だし。私としたことが現実的じゃない提案をしちゃったか」
綾が冗談めかす。大悟は自分が奥歯をかみしめていたことに気がついた。
「お前だって文系だろ。スィーツ系女子」
慌てて口から力を抜いて、軽い皮肉で応じる。
「おや、数学のテストなら私、2点勝ってるよ」
「生物で3点勝ってる。あれは暗記教科だからな」
二人は互いのテストの点数を思い浮かべて苦笑した。
「用事は何だ。綾が理由もなく僕のところに来ないよな」
大悟は話題を変える。目の前に広がった紙をかたづける。綾は「そうだった」と机の向こうに回り込む。彼女のスマホがスカートのポケットに戻り、代わりにペンを挟んだメモ帳が出てきた。
「明日の放課後なんだけど。ちょっと取材に付き合って欲しいの。一人じゃ入りにくいところでさ」
「綾が入りにくい場所……。そんなやばいところに付き合えるか」
大悟は思わず紙を掴んだ手を止めた。小学校の遠足、中学校の修学旅行。綾につきあわされた過去の悪夢が思い出される。
「今回は近場だから。バスに乗り遅れたり、門限破って正座喰らったりしないよ。普通に歩いて帰れる場所だし。何なら責任持って家まで送ってあげる」
笑顔の綾。大悟は彼女のブログを思い出す。いわゆるタウン誌的な内容で、飲食店の記事が多い。そういう意味では女の子といえる。ただ、記事には原価率分析なんて辛い項目がある。オーナーパティシエとして洋菓子店を経営する大悟の母をして唸らせた精度だ。
情報とは信用で裏打ちするがモットーらしい。女子高生のポリシーではないと大悟は思っている。ただし、そのおかげか扱っている情報がローカルなのに県外からも閲覧者を集めているという。
「距離とか終わった後のことよりも、場所を言え。いったいどこだ?」
警戒心を解かずに事実を求める。人間は実際経験した危険の再現を予感すると現実的になるのだ。修学旅行の限られた時間と、不案内な地理で土産の原材料を探るとかだ。土産物屋の女将のえびす顔が般若に変わるレアな一コマ。心のアルバムには欲しくなかった一枚だ。
「疑り深いなー。目的地は香坂理科大学。どう、問題ないでしょ」
「香理!?」
綾が口にしたのは高校から駅を挟んで反対側、山麓に大きなキャンパスを構える名門私立大学の名前だ。女子の間ではイケメン大学生が多いと話題になることもある。
ただ、大悟が驚いたのはそれが理由ではない。春にそこで起こった事故を思い出したからだ。
「大学なんかに何の用事だよ」
内心を悟られないようにぶっきらぼうに聞いた。
「んっ? ターゲットは中の学食。香理はウチでもあこがれてる子多いでしょ。情報価値は高いの。わざわざキャンパスに入って食べてきたっていうのも希少性がある」
綾は大悟が整理した設定資料をちらっと見た。
「晴恵さんのお客さんにも結構あそこの学生いるでしょ。何か参考になるかもよ。ほら、新作の苦戦してるみたいだったし」
綾は大悟の母親の名前を出す。だが、彼の頭に浮んでいたのは五年会っていない、生きているかどうかも解らない、父親のことだった。
春、香坂理大で新しく出来た研究施設で事故が起こった。最先端科学施設の事故として、一時大きく取り上げられた。それは、彼に父親が失踪した事故を連想させる。
もちろん、何の関係もないと解っている。五年前の事故はアメリカ西海岸のコンピュータセンターの火災。ニュースを見る限り、香坂理大は医療機器の研究だったはずだ。
「……気が進まないな」
大悟は興味なさげにいった。自分がどれだけ興味を持っても、理解しようとしても無駄だ。父親との僅かな思い出と失踪後に色々調べた経験から思い知った。父親のしていた研究内容ですらまったく理解できなかったのだ。
父親はゲームについて研究していると彼にいっていた。ゲームが好きだった彼は、それに細い繋がりを感じていた。だが、あのホワイトボードの数式がゲームであるはずがない。あしらわれたのだ。
関連する言葉を検索しても、彼にはそれが科学にすら見えなかった。あの時は小学生だったが、今見ても同じだと思っている。
「つれないな」
「危険じゃないんだろ」
不満げな綾の言葉に大悟は我に返りあしらおうとする。
「ある意味危険かも。……私が大学でナンパされちゃっても良いの」
「大学生が、お前を?」
大悟は綾の童顔を見て言った。目鼻立ちは整っている上に、明るく表情豊か。彼のクラスにも綾を良いと思っている男子はいる。学年レベルで圧倒的な人気を誇る存在がいるから少数派に留まるが。
ただ、大学生の隣を歩く綾がイメージしにくいのだ。
「……じゃあ、報酬として大悟が知りたい情報を教えるっていうのは?」
綾は手帳からペンを抜くと開いたページをポンと叩いた。
「情報?」
大悟は疑わしげに首をかしげた。
「そ、春日春香の秘密について。実は、この件ともちょっと関係したりするんだけどな」
綾はペン先をくるくる回しながら言った。
「なっ!!」
大悟は見事に動揺した。綾の口から出たのは、先ほど大悟が思い浮かべたクラスメイト。春日春香は教室の隣の席の女子で、彼にとってもあこがれの対象だった。そして……。
「最近春日さん、調子はどう?」
ペン先が突きつけられた。彼は銀色の先端から視線を逸らすことが出来なかった。