16話:登校日
「夜更かしが当たり前になってさ、今日起きるの辛かったわー」
「俺も昨日寝たの二時だぜ……」
朝の教室。登校日に文句を言いながらも、クラスメイト達はむしろそれをネタに久しぶりの再会を盛り上げている。
「夏休みの宿題どこまで進んだ?」という縁起でもないセリフもチラホラと聞こえるが、未来の可能性が無限だと考えるのが若者の特権だ。夏休みの半分も過ぎていないこの状況で危機感を煽るには至らない。
その中で、二人ほど手持ち無沙汰にしている女生徒がいる。彼女達は教室の入口をチラチラと見ては、スマホの画面を確認することを繰り返している。
隣の空席を気にしていた大悟は彼女たちとぶつかりそうになった視線を慌ててそらした。
ホームルームまであと僅かなのに、待ち人きたらず。いつもなら十分な余裕を持って席についているはずなのだが。まさか、根を詰めすぎて体調を崩したとか。大悟は心配になった。
その時、二人の視線がドアに向いた。いや、二人だけではない、教室の視線が入ってきた女子に集中する。
きれいな黒髪をなびかせて歩く春香。男子は久しぶりに見るクラスのアイドルに魅せられたのか、いつもよりも少し無遠慮に見ている。
春香は自分への注目を全く意識する風もなく、無言で席に着いた。
「あの――」
「おはよ。春香、もしかしたらこないのかと思ったよ」
「そうそう、夏休みもあんまり会えなかったしさ。今日は話したいこと色々あるのに」
話しかけようとした大悟だが、間にプリーツスカートの壁が作られる。
「知ってる? 二学期に転校生来るらしいよ。しかも、アメリカ人の女の子だって」
春香の友人達は待ちかねたようにそんな噂話を始める。春香は如才なく会話を合わせているが、いつもより反応に生彩がないように見えた。
三人は、夏休みの課題について話し始める。さすが成績優秀者のグループらしく、順調みたいだ。だが、課題という言葉に春香が少し動揺した。ちなみに全くと言っていいほど手を付けていない大悟にとっても聞きたい話題ではない。
「春香ちょっと眠そうだね」
「えっ、あ、うん。ちょっと課題のことで……」
「春香に限って課題に追われてるなんてないと思うけど……」
大悟は密かな優越感を感じた。彼女たちは知らないだろうが、春香の抱える課題はそんなちゃちなものではない。締切も、夏休み明けではなく、後十日。
「ねえ、さっきから九ヶ谷がこっち見てない?」
そう言ったのは例のマンゴスチンの娘だ。
「久しぶりの春香が眩しいんでしょ」
もう一人がたしなめるように言った。大悟は慌てて顔を前に向けた。
直接話しかけるのは難しい。大悟は素知らぬ顔でスマホを開いてメッセージを入力した。文面は「課題のことでちょっと相談したいことあるので、放課後図書館に」だ。すぐ隣の女の子に密かにSNSを飛ばすというのが、何か秘密めいている。春香のSNSのアドレスを知っている男子など彼くらいのはずだ。
担任が現れ、出欠を確認してから体育館に向かうよう指示した。教室を出る直前に、大悟は春香にメッセージを送った。
◇◇
体育館での無味乾燥な全校集会が終わり、学生たちは教室に戻っていた。担任が校長の話の焼き直しのような注意事項を語っている。すぐにでも夏休みに復帰したい学生達の苛立ちが高まる。大悟も早く終われと担任を呪った。
カバンから物理と書いたノートを取り出し、中身を確認する。
ホームルームが終わり、大悟は図書館に向かうため席を立った。背後で春香が友人達に、ちょっとごめんねと言うのが聞こえた。
◇◇
放課後の図書館。いつもゲーム制作をしていた奥の席で待っていると。春香はすぐにやってきた。
「質問はゲーム項のこと? ごめんね。もっとちゃんと説明したほうがいいんだけど。九ヶ谷君に説明する方法が……。えっと、この前のゲームの話でつなげてもらえば、後は私が……」
「い、いや、質問じゃないんだ……」
レクチャーのことだと思っている春香を大悟は遮った。
「質問じゃないの? じゃあ…………」
春香は怪訝な顔になる。そして、入ってきた図書館の入口を見る。
「えっと、あの事故を引き起こした仮説についてなんだけど、一つ気づいたというか、思いついたことがあって……」
「えっ、仮説……でも」
春香の顔が曇った。そして、ちらりと壁の時計を見た。急いだほうがいいと、大悟は春香の前にノートを広げた。
「事故の爆発の原因ってもしかしたら反物質じゃないかなって……」
「反物質……??」
春香が困ったような表情で首を傾げた。
「えっと、九ヶ谷君――」
「とにかく聞いて欲しい。ちゃんと計算もしてみたんだ。まず――」
何か言いたそうな春香を抑えて、大悟は自分のノートを開いた。そして、昨夜というよりも今朝までかかった計算を一行ずつ説明していく。
…………
「というわけなんだよ。元々物質、原子核の中には大量のエネルギーが閉じ込められているんだよね。だから、それが対消滅で解放されるだけでいいんだ。加速器の中にある炭素原子核の一部が、反物質に変わればいいんだ。ほら、これならエネルギー保存の法則に引っかからない形で爆発のエネルギー源が用意できるだろ」
説明している内にだんだん興奮してきた大悟は早口でそう言い切った。そして、春香の顔を見た。そこで初めて、彼は春香が自分をどういう目で見ているのかに気がついた。
「…………九ヶ谷君。一つ聞いていい」
春香の顔は、初めて大悟が理系モードの彼女を見たときのことを思い出させた。
「あ、えと、はい」
大悟は思わず居住まいを正した。
「反物質の特徴は?」
「え、えっと普通の物質の反対。確か質量以外が……」
大悟は借りた本の記述を思い出しながら言った。春香は頷いた。
「そう、つまり電荷は逆転する。プラスがマイナスに、マイナスがプラスにね。炭素原子核が反物質になったとしたら、反陽子の電荷でプラスじゃなくてマイナスの電荷を帯びた粒子として加速器内に現れる」
「あ、ああ、なるほど。そうだね」
「で、その電荷が逆転した反炭素原子核は、プラスの電荷を持った炭素原子核を時計回りで周回させるようになっている磁場の中に置かれる」
「な、なるほど」
「つまり、その反炭素原子核は突然加速度を逆に変える。反時計回りに走り始める」
「あ、ああ、そうだね」
電荷が逆転など全く考えていなかった大悟はオウム返しに答える。なるほど、だからこそプラスとマイナスが引き合って対消滅が起こるのだ。だが、春香の表情はますます厳しくなっている。
「その明白な軌跡の変化が、加速器のセンサーに検出されないと思う?」
だが、春香の結論は全く予想外のものだった。
「……えっ?」
「もともと原子核みたいなミクロの粒子を観測する最も普遍的な手段は電荷。反物質のこと本当に調べたの。最初に発見された反物質は陽電子。つまり反電子。宇宙から地球に飛び込んでくる宇宙線によって生じた粒子の中に、電子と同じ質量で磁場に対して電子とは正反対に曲がるものが見つかった。貸した本にも書いてあることよ」
春香は低い声で淡々と続ける。大悟はやっと春香の言葉の意味を理解した。大悟の仮説は成り立たないと言っているのだ。そして、彼があまりに基本的な条件を見落としていたことを糾弾している。
「あ、えっと……」
大悟の頬が熱を持った。何か言おうとしてしどろもどろになってしまう。ただでさえ考えていなかった事に関する情報を大量にぶつけられているのだ。
「反物質による対消滅なんて話にならないアイデア、ううん妄想だって理解できたわね。なら、話は終わり」
だが、春香はそう言い切った。席にもつかず、彼を見下ろしたままだ。
「で、でもさ」
「なに? 粒子の電荷の逆転が観測されていない。この明白な反証に対して何か言うことがあるの」
「い、いや、ないけど、だけど……」
「だけど?」
「か、春日さんも仮説のこと上手く行ってないんだろ。ボクはただ、少しでもヒントみたいな……」
自分の努力が完全に否定されたことにショックを受けた大悟は思わずそう口走った。春香は不快げに顔を歪めた。
「だから、今のはヒントにもならないわ。そういうことはせめて最低限の知識があっての話」
「そりゃ、ボクには……だからって絶対間違うとは限らないだろ」
普段なら納得したかもしれない。だが、彼は思わず言葉を荒げた。まずいとわかっていても止められなかった。
「確かに、物事に絶対はないわ。でも、反物質の電荷の逆転が何を意味するかもわからない九ヶ谷君の考えなんて、実質的には可能性ゼロよ。……言っておくけど、私が九ヶ谷君に期待していることは一つだけ。私の教えたことの、せめて半分も理解してくれること」
「…………」
春香は一切容赦しない。大悟は黙るしかない。彼女の言葉は理にかなっているのだ。科学で彼女に敵うわけがない。
そう、彼は同じ課題のパートナーではなくて、足手まといのできの悪い生徒なのだ。大悟は顔を机に向かって伏せた。
「忙しいからもう行くわ」
大悟が口をつぐんだのを見て、春香は時計を確認してから彼に背を向けた。そして、数歩歩いてから止まった。大悟は顔を上げる。
「そうね、もし九ヶ谷君が有効な仮説を見つけたら。私、なんでも言うことを聞いてもいいわ」
「なっ!」
トドメとばかりに言うと、春香は入り口へ向かう。大悟は呆然と見送るしかなかった。
春香が図書館のドアを出たところで、二人の女子が合流した。どうやら、なかなか戻ってこない春香を迎えに来たらしい。二人は、春香の表情に驚いている。
そして次の瞬間、その視線が図書館の奥で膝立ちになったままの大悟に気がついた。二人は何か悟ったような顔になる。軽蔑するような視線が大悟に刺さった。
春香に促されるように三人は出ていった。クラスの女子が自分をどう思ったのか、大悟は不思議と気にならなかった。
彼の脳内に渦巻いているのは、自分はあそこまで言われるようなことをしたのかという疑問だった。




