14話:後半 虚空の艦隊
「余剰次元で追加の数値が増えるって、多分こういうことでしょ」
立ち上がった海戦ゲームのアプリを大悟は春香に向けた。
「あのゲームね……」
春香の視線が厳しい。大悟は片足を上げてポーズを決める少女のキャラクターを最速でスキップ、艦隊の陣形を決める画面に進んだ。
「こ、このゲームのマップを見て欲しいんだ。今の説明と同じ二次元だよね」
「ええ、縦と横という二つの数値で表せるからそうね」
「これが通常の次元だとして、例えば……」
そう、これは少しだけかじったゲームのプログラムと一緒だ。
「マップのマスの中に何があるかの情報を追加する……」
大悟はマップ上に自分の艦隊を配置した。駆逐艦、巡洋艦、戦艦がマップ上に並ぶ。
「つまり、そのマスに何もなかったら0、駆逐艦だったら1、巡洋艦なら2、戦艦なら3と言った具合だね」
目に見えない三次元目、つまり三組目の情報だ。ゲームマップをクリックした時に浮かび上がるステータス画面。これこそが余剰次元ではないか。
実際、ゲームのプログラムの本でも、一マスの情報を(縦、横、ユニット)という三組として処理する方法が乗っていた。そして、さっき見た余剰次元は言ってみれば、マップにあるマスをクリックした時、別ウインドウに表示される情報そのものではないか。
「どう」
大悟が春香に聞いた。春香はちょっとびっくりした顔で大悟を見る。
「…………遊戯に例えられるのは大いに抵抗があるけど、残念ながら間違ってはいないわね」
春香はスマホの画面を見ながら考え込む。そして、ふっと笑った。
「でも、こちらのほうが正確かも……」
春香がノートパソコンを操作する。細くて白い指がキーボード上を舞う。はずみで春香の肩が大悟の胸元に触れる。逆だったら大惨事だと思いながら、大悟は椅子を少しだけ後ろに引いた。
「出来たわ」
春香がそう言って大悟に向き直る。画面を見ると、棒だった余剰次元が平面になっている。
「余剰次元の幾何学で艦船のパラメーターを表現する。この場合は、船の移動速度と攻撃力。つまり、このゲーム空間の次元は4でデータとしては(x,y,S、A)ということになる」
「えっと、xとyが位置で、SはスピードでAがアタックかな」
「そう。仮に5✕5の海の中央に駆逐艦があればその地点のデータは(3,3,4,1)となるわけ」
数度プレイしただけなのに、春香はデータを覚えているらしい。スピード4で攻撃力1は駆逐艦のステータスだ。
「すると余剰次元の形はこうなる」
ノート画面の余剰次元の一つが、三角形になった。底辺が1高さが4の尖った三角形だ。まるで、実際の駆逐艦のように見えなくもない。
「同じように巡洋艦が(x,y,3,2)、戦艦が(x,y,2、5)」
碁盤目の上に伸びた余剰次元が、二等辺三角形、横に広い三角形になる。
「なるほど」
碁盤目状の”通常次元”に余剰次元の”艦艇”が並んでいる。妙にそれっぽいのだ。海軍と言うよりも宇宙空間の艦隊っぽいが。
自分が提案した例えなのに、大悟はその光景に驚いた。これは純粋に数学的な構造なのだ。大悟が苦手な数学のグラフと本質的に同じものだ。例えばだが、この三角形の面積がその艦艇を建造するための資源の量だったら……。
まるでゲームのプログラミングのように、そういうふうに世界を捉える。その例えで、あまりに抽象的な話がイメージできてしまう。確固たる存在だと思った艦船が、全てデータという形に収まってしまった。大悟の付けた艦種ごとの勝手な番号ではなく、実際の艦の能力で区別されているのが徹底している。
大悟は違和感を感じた。これまで何度か感じた違和感だ。大悟の背中に何かわけの分からない寒気のようなものが走った。まるで深淵を覗き込むような……。
(いや、コンピュータのゲームは全てデータだから当然だ)
大悟はそう自分を納得させた。人工物である艦船に例えたから違和感がでるのだ。
「今のを……、原子とかそういうのに置き換えればいいんだね」
「そういうこと。理解してくれてよかったわ。遊戯に例えられたのはちょっと抵抗あったけど、お陰で思ったよりも早く説明が終わったわね。今日はどうしよう……」
春香が次のレクチャーを考えようとしたその時「ビッ」という電子音がして画面に赤い文字が出た。
「ちょっとごめんなさい」
春香が画面に乗り出すように体を移動させる。大悟の鼻先を春香の髪の毛が流れた。レクチャーが始まる前に開いてたウインドウが最前面に戻される。
「また、無限大が出てる。どこが間違ったのかしら…………」
春香が落胆したように言った。そして、キーボードを勢い良く叩き始める。無限大云々は分からないが、おそらくデバッグのようなものだ。
大悟は春香の邪魔にならないように椅子を引いた。その時、ガチャリという音がしてドアが開いた。
「あれ、今日はダイゴが居るんだ」
入ってきたのはとても大学教官とは思えない若い女性。部屋の主であるさららだ。相変わらずのエレガントな装いと軽妙な態度。さららは縁無しのメガネをクイッと上げると大悟を見る。
「さららさん、あの、ちゃんと朝許可を取りましたよ」
「お邪魔してます」
大悟は少しのわだかまりを感じながら挨拶した。
「二人は、何やってるの?」
「余剰次元の説明です。今終わりました」
春香はバツが悪そうにいった。
「へえ。じゃあダイゴ。余剰次元とは何か?」
「えっ、えっと……。その、ゲームみたいなもので……」
大悟は心配そうな春香の視線を感じながら、ゲームに例えて説明する。説明を聞いたさららは「ふむふむ」と面白そうに聞いている。
「面白いね。うーん、講義で使っちゃおうかな。ハルの方は?」
「……今は再現のための準備で…………」
「何を再現するの?」
「それは、Lczの……」
春香はエラーの出た計算結果を前に唇を噛んだ。気まずそうな春香と、それを気にせずに畳み掛けるように質問するさらら。空気が重くなる。
やはり、春香の作業である仮説構築は上手く進んでいないのだ。だが、それは当たり前だ。大悟のように既存の知識――それを最大限噛み砕いたもの――を何とか理解すればいいのではないのだ。
「そっか」
春香の要領を得ない答えを聞くと、さららは自分の机にカバンを放り出すように置いた。カバンから講義に使ったプリントのようなものが飛び出るのも気にしない。そして、パソコンの天板を開いた。画面にはこの前と同じようにアメリカ西海岸の地図が映っている。さららは、ああでもないこうでもないと、キーボードを動かす。傍目にも、とても楽しそうだ。
春香がそれを見て心配そうな顔になるが、諦めたように自分の机に戻った。
席に戻って作業を再開した春香は眉間にしわを寄せている。大悟は二人の表情をどうしても見比べてしまう。本来なら、逆であるべきではないか。
「ダイゴ。ちょっといい」
春香が気になったが、さららに呼ばれて仕方なく反対側の机に向かう。
「だいぶ解析が進んだんだよ」
さららは自慢気に言った。以前見たよりもずっと拡大された地図が表示される。赤い領域が、一つの街を覆うように存在している。その街は、大悟の父が関わった実験施設があった街だ。
より詳細に情報重心を特定するための方法、大悟には理解できない、を聞いていると背後を春香が通った。新しい計算の結果待ちなのだろうか。春香は、さららが放り出した講義のレジュメのファイリングを始めた。それが終わると、今は部屋の隅においてあった箒と雑巾を手に取った。
「あの。春日さん」
大悟は春香に声をかけた。
「九ヶ谷君。……えっと、今日はさっきので終わりでいい」
「うん、それはいいんだけど……」
大悟としては、これ以上詰め込まれたらようやく理解した余剰次元が吹き飛びそうだ。ただ、だからといってこのまま帰るのは気が引ける。もちろん、彼には春香の仮説の手伝いなど無理だ。
だが、大悟は春香の手にある掃除道具を見る。
「掃除なんだけど。僕がやっちゃダメかな」
「えっ、でもこれは私の仕事だから」
違うだろと大悟は言いそうになったが、それはこらえた。春香が自主的にやっているのだろうことはわかっている。
「えっと、春日さんの担当部分はここのコンピュータが使えないと出来ないんだよね。夏休みだからって、いつでも来れるわけじゃないんじゃない?」
「それは、そうなんだけど……」
「僕が協力できることっていうと、それくらいだし」
大悟は春香の画面を見た。サイン、コサインが理解できなくても箒と雑巾は使える。
「……でも」
春香は躊躇する。だが、彼女の机でパソコンがまた警報音を鳴らした。
◇◇
「うーん」
地上に戻った大悟は肩を回した。午後四時。レクチャー自体はそこまで時間がかからなかったが、掃除を始めるとついつい力が入ってしまったのだ。
掃除をしながら後ろから二人の作業を見ていたが、やはり到底手を出せるものではない。あれだったら、同じ挫折したにしてもポリゴンデザインに再挑戦するほうがよほど望みがある。
ただ、気になったのはやはり二人の表情の違いだ。自分の計算で出たエラー表示を見て「あり得ない」というさららには負の感情が出ていないのだ。どちらかというと楽しそうですらある。
春香がエラーの時見せる表情とあまりに違う。彼女が苦戦していることが作業の内容がわからない大悟にもいやというほど伝わってくるのだ。
だが、掃除が終わった大悟はやることがない。春香はまだ当分作業を続けるみたいだったが、帰りは家からの迎えがあるらしい。
大悟は一人、大学生の間を門へ向かう。ちょうど講義が終わったのか、正門の広場には大学生が溢れている。大学生はまだ夏休みではないらしい。私服を来ていても、ちょっとビクビクしてしまう。
「あれ?」
門を出るとき、大学生にしては小柄な背中が見えた気がした。我が物顔で道を歩くその小柄な背中は、学食の方に向かっている。
「今の、綾じゃないか?」
その背中はすぐに人混みに消えた。
「そう言えば学食の取材まだだったな」
確か大悟のおごりという話だった。大悟はスマホを取り出した。SNSを見ると、綾のステータスは『取材中』だ。この場合、メッセージを送っても返事はないことを大悟は知っている。
「これじゃ仕方ないか」
別の店で奢らされることになりそうだ。学食よりも高くなりませんようにと望み薄の祈りを捧げながら、大悟は門を出た。




