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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第一部『物理学の爆弾』

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14話:前半 虚空の艦隊

(またここに来てしまった)


 午後一時の明るい日差しも届かない暗い通路の奥に大悟は立っていた。目の前には錆びついたドア。『吉野さらら研究室』と書かれたプレート。極めつけが最後にここを離れたときのこと。


 夏休みの初日。先核研の見学をした日だ。とんでもない課題を出されて、綾と春香と三人でファミレスの会議をした日から、一週間がたっている。


 もちろん望んで訪れたわけではない。さららの指定した締め切りまでは後二週間以上ある。


 薄暗い地下道でポケットを探り、取り出したスマホの光が彼の顔を照らした。今朝届いた春香からのメッセージを確認する。今日のレクチャーの会場はここだ。


 ぴしゃん、という水滴の音が背後で響いた。大悟はビクッと背筋を伸ばした、意を決して控えめにドアをノックした。


 …………


 返事がない。大悟はもう一度スマホを確認する。日時は合っている。試しにドアのノブに手をかける、ノブはあっさり回転した。ゆっくり開くと、中からの光があふれる。


「失礼します……」


 室内に入ると、奥のスチール机の向こうに春香の姿が見えた。彼女は机の前に前かがみでノートパソコンの画面を見ている。ただ、その格好がおかしい。はだけられた白い服と、紺色の細い肩紐。しかも姿勢のせいで膨らみと谷間が強調されて……。


 女の子のサインカーブから大悟は慌てて目をそらした。


「九ヶ谷君。来たのね。ちょっと待って……」


 ドアが開いたことに気がついた春香が言った。画面に視線を固定したままだ。大悟は恐る恐るもう一度春香を見た。


「どうしたの?」


 春香はやっと体を起こした。よく見ると、服がはだけてるように見えたのは肩にかかった白衣で、肩紐はその下のキャミソールだった。


 入口近くのパイプにかかったハンガーに彼女の上着らしきものが掛かっている。


「……なんでもないです。さららさんは?」


 まあ、姿勢からして胸元が色々と危なかったのは確かだったが。大悟は大げさに左右に首を動かした。改めてみても部屋の中には春香だけだ。


「講義中。……受講者ほとんどいないみたいだけど」


 春香が気まずそうに言った。やはりあの講師は問題ありらしい。テストが現実離れして難しいに違いない。


「わざわざ来てもらってごめんなさい。ちょっと作業が立て込んでたのと、今日の説明内容だとここの方がいいから」


 春香は言った。その視線はまたパソコン画面に向かっている。立ち上がったまま、キーボードを勢いよく叩いている。だんだん前屈みになっていく姿勢がまずい。


「そ、そうなんだ。えっと、僕はどうすればいい」

「すぐ終わるから。椅子を持ってこっちに来て」


 春香の言葉に従い、彼女の机に向かう。一つの席に二つの椅子、二人で一つのノートパソコンの画面を見ることになる。位置関係的には学校の教室と同じ。だが、ギリギリ肩が触れない程度の距離だ。さっきまで、羽織るだけだった白衣に袖を通しているのが救いだった。


「…………」


 大悟は何とか前に意識を向けた。映っているのは先核研の巨大曲面スクリーンでみたワイヤーモデル。そして、碁盤目模様と、そこから突き出した折り紙のような構造。


 碁盤目の上には、球体がゆっくりと直進している。改めて見ると3Dポリゴンのデザインの画面のようだ。これが春香の作業……。


「ORZLの、一般的に言えば余剰次元のシミュレーション。余剰次元の形が変わったとき、物理法則がどう変わるかを表示しているの」

「た、確か情報重心で空間が変質して、それが事故の原因なんだよね」

「そう。だから加速器の六時のユニットで余剰次元がどう変化したかを計算する」

「なるほど。そしたらその後八時のユニットだっけ、そこで起こった爆発の理由が分かると……」


 画面にはポリゴンの他に、例の数式。そして、見知らぬ記号と数字が表になって並ぶ。春香が手元で操作すると、数式の記号の一つから吹き出しのように行列が表示された。行列と言っても、彼が知っているものとは違って項目一つ一つにsinサインとか、cosコサインとかがついている。


 春香が行列の数値をいじる。そうすると、碁盤目から突き出した折り紙の形が変わる。よく見ると、折り紙の上の空間を直進していたボールが左に曲がるようになった。


「た、大変そうだね」


 自分の心配半分、春香の心配半分で大悟が言った。


「一度パラメーターを決めたら計算結果が出るまで時間が掛かるの」


 春香はそう言うとリターンキーを押した。ポリゴンモデルの横に黒字のシンプルな画面が現れ、数字の羅列がダンスを始める。


「その間にこれを使って説明するわ、余剰次元の」


 春香はそれまで最前面にあったウインドウを背面に隠して新しい画面を開いた。突き出した折り紙がない、ただの碁盤目だ。デザインを開始する前の、3Dゲームの初期状況のような状態だ。


 そしてやっと隣の大悟に顔を向けた。


 言われてみれば、大悟はORZL理論の根幹である余剰次元おりづるのことを全く知らない。物理法則を決めている天界に当たるもの。その形が物理法則を決めると言われても、具体的なイメージは出来ない。言葉を見ると余った次元だが、その時点で意味がわからない。


「さららさんが説明したと思うけど、この平面が通常の三次元空間を二次元に簡略化したもの。そして、その空間一点一点から出ている直線が目に見えない余剰次元。今回は、余剰次元も単純化して一次元で説明する」


 春香が操作すると、碁盤目の交点一つ一つから真っ直ぐな線が延びた。


「えっと、新しく生えてきたこの棒が余剰次元だね。でも目に見えないっていうのは?」


 大悟は手のひらを空中で動かした。空間というのはそもそも目に見えない。


「通常の3次元空間、つまり縦横高さに比べてずっと小さいってことね。どう例えたらいいかな……。えっと、例えばこういうこと」


 春香はいきなり自分の髪に手を伸ばした、きれいに伸びた黒髪の一本をつまむ。それを無造作に大悟の目の前に持ってくる。この距離でそういうことをされると、視覚以外の感覚器が刺激される。


「髪の毛は線にしか見えないでしょ。でも、実際には……」


 春香は大悟の動揺にも気が付かず、もう一つの手でボールペンを持った。


「これと同じで周囲がある。つまり、一次元にしか見えないけど、実際は二次元の表面がある。これが余剰次元」


 春香はそこまで言って小さく笑った。


「皆この目に見えない表面を気にしてるでしょ」


 春香の髪の毛は天井の蛍光灯の光を反射している。なるほど、と大悟は納得した。春香のシャンプーに興味を持っていた妹のことを大悟は思い出す。夏美の言うキューティクルがどうのという話だ。


 同性に羨ましがられ、異性を引きつけるきれいな髪。春香にとってはただの説明の材料らしい。口調に自慢げなところは一つもない。


「線にしか見えない髪の毛の一本一本に、第二の次元があるように。空間の各点にもそれがあると考えるの。もちろん、実際には今の例えよりもずっと余剰次元は小さくて、原子はおろか、核子よりも小さいと考えられているわ。そうじゃないと、実験で見つかってるから」


 春香がやっと髪の毛を下ろした。


「余剰次元があるとして、そんな小さな物がどうやって物理法則を決めるの?」


 空間に目に見えない追加の次元がある。とりあえずそれを信じるとして、何が出来るのかイメージできない。髪の毛の表面という次元なら、そのなめらかさが天使のリング(かがやき)を左右すると解らないでもないのだが。


「簡単に言えば、空間各点における情報量が増えるの。つまり……」


 春香がPCを操作する。碁盤目の方に、二組の数字が表示される。碁盤の中心の一点が(0,0)その横が(0,1)と言った具合だ。これは大悟にも解る。


「xとy。縦と横の番号だね」

「そう。これが立体になると……」


 ポリゴンが二次元から三次元になり、各点を表す数字は三組になった。縦横高さだ。なるほど、次元が増えると数値が増える。


「これをさっきの表示に直すとこうなる」


 平面に戻ったが、その交点の一つ一つから直線が生えている。春香が碁盤から生えた棒の先端をクリックすると、3番目の数字が表れる。


「なるほど、余剰次元が一次元の場合と三次元は一緒か……」

「とてつもなく薄い紙にも高さやでこぼこがある。こういうふうに増やしていけば、空間一点に存在する情報量が増えていく。例えば、この三次元目の数値がその場所の重力場を表しているとしましょう」

「じゅ、重力場……」

「簡単に言えば重力の強さ。見れば解るわ……」


 春香がリターンを押すと平面上の余剰次元、棒の高さが場所ごとに変化した。中央が盛り上がる山のようになった。


「余剰次元を見えない私達の目からは、通常空間がこうなったのと同じ」


 大悟の胸元をかすらんばかりに春香の手がリターンキーに伸びる。碁盤目の平面が余剰次元とは対照的に、すり鉢状にへこんだ形状に変わった。


 そして、画面の端にボールが現れる。まっすぐ中心部に向かって進むボールは、すり鉢の中を円を描いて回転する軌道に変わる。


「例えば太陽のような巨大重力があったとき、地球がどう動くか、みたいな感じかしら。余剰次元を増やせば、さらにいろいろな情報を扱える。例えば、このボール自体の情報とか」


 春香は言った。各点で扱える情報が増える。それには、そこにある物体の情報も含まれる。意味がやっとわかってきた。


 大悟のゲームづくりの知識を刺激した。ちょっとだけかじった、ゲームのプログラミング、その知識が大悟のイメージを広げる。


「解った。これ、ゲームと同じだ」


 この平面、碁盤を文字通りゲームのフィールドと考えればいいのだ。ゲームのデータは今言ったような形式で扱う。大悟は興奮していった。


「ステータス?」


 春香が疑わしげな目で大悟を見る。


「うん、余剰次元でその時点の情報が増えるって、多分こういうことでしょ」


 大悟はスマホを取り出して、あるアプリを立ち上げた。春香と図書館でプレイした――そしてボコボコにやられた――海戦ゲームのアプリだ。


「あのゲームね……」


 大悟がスマホの画面を春香に向けた。これまで彼との接近を全く気にしていなかった彼女が椅子を引いた。

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