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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第一部『物理学の爆弾』

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13話:見送り

 視界は紅茶に浮いたレモンの色。土手の上の歩道。右が車道で、左がむき出しの土。車道を走る車は多く、通勤帰りのサラリーマンや部活帰りの学生が歩いている。スーパーに買い出しに行かされることはままあるので、大悟にとってはいつもの道だ。


 だが、今日は一人ではない。なんと女子と一緒なのだ。しかも、相手は春日春香。その正体を知ってからはそれどころではなかったとは言え、あこがれの女の子だ。


 夏休みの夕暮れ、彼女と並んで歩いている。半月前なら物理法則が変わっても起りようもない状況だった。さっきまでと違い、家族の監視も勉強というやるべきこともない。周囲の視線は気になるが。


 無論、大悟は特別な意味など何もないことはわきまえている。学校のグループ課題で、実力的に劣る彼のせいで評価が下がると困る春香がレクチャーをしている。いわばそんな情けない状況なのだ。


 春香は無言である。自分から同行を求めたのだから、話題を振らなければならないというプレッシャー。同時に、彼女がそういった月並みを求めるのかという疑問。


「えっと、今僕の中の化学反応のエネルギーの重さが、運動した事による重さに変わってるんだ」


 沈黙に耐えられなかった大悟が口を開いた。出てきた話題は、さっきまでのレクチャーの話だ。何しろ他に共通の話題がないのだ。同じクラスの隣の席なのにだ。


「私が説明を間違えた話ね。……悪かったわね」

「あ、えっと、そういう意味じゃなくて。そうだ、地下室……じゃなくて研究室では具体的に何をするの?」


 春香が間髪入れずに言った。まるで、今将にそのことを考えていたように。大悟は慌てて話題を修正した。


「……シミュレーションの基礎的条件の決定かな。仮説を走らせるための準備をしてるの」

「足を引っ張ってゴメン」


 仮説という言葉に、大悟は反射的に謝った。巻き込まれただけの彼に責任はないのだが、それでも情けないという気分にはなる。


「…………ああ、ごめんなさい。そういう意味じゃないの。最初からそれは私が…………担当でしょ」


 春香は自分の言葉がどう取られたかに気がついたらしい。もっとも、フォローのつもりで口にした言葉があまりその役割を果たしていない。


「…………」

「…………」


 見事に会話が途切れた。


「妹さん。元気ね」

「あ、ああ、えっと騒がしくなかった」

「そんなことないわ。ただ……」


 春香が言葉を濁した。


「初対面の人としゃべるのは苦手だから。不快な思いをさせてないかちょっと気になっただけ」

「それはないと思うよ。それに……」


 大悟は手に下げた買い物袋を振った。


「少なくとも僕に買物は押し付けれた」


 大悟の冗談に春香がやっと微笑んだ。だが、会話がまた途切れる。


「その、もし聞いてもいいことだったらだけど、春日さんはどうして科学者を目指してるの」

「綺麗だから」


 踏み込み過ぎかと恐る恐る聞いたのだが、春香は即答した。大悟は反射的に春香の顔を見た。確かに、間違いなく綺麗だ。さっきから、すれ違った男が何人も振り返っている。


「そういう意味じゃないわよ。物理学が、もっと言えば方程式が綺麗だから」


 春香は言った。春香をじっと見ていた自分に気がついて、大悟は慌てて目をそらした。


「何より理論の分野は、一人でも出来る。私には向いていると思うの」

「でも、春日さんは人当たりいいし。その、普通に……」


 それを必ずしも好まないのだろうとは解ってきた。だが、最近多少のほころびがあったとはいえ、少なくとも大悟よりコミュニケーション能力が高いはずだ。


「それはそうでしょ。処理能力の大半をそれに使ってるんだから。普通の人は反射でやってることを私は計算してやってる。無駄が多いわよね」


 春香の答えは、裏の顔を知ったあとで気がついた彼女のコミュニケーションの特徴と一致した。まるで、決まりきった手順があるかのような会話。話す時に一拍置くのも、おそらくはそういうことなのだ。


 だから、さっき彼の妹に話しかけられたように初対面だとほころびが出る。


「実際、夏休み前も一度ミスしたでしょ」


 春香が皮肉っぽく言った。彼がクッキーでフォローする形になったアレのことだと解る。


「それで、方程式がきれいだって理由は、対称性」

「対称性?」

「例えばこういうこと」


 春香は歩道から左に片足を踏み出した。川沿いの土手。アスファルトの隣はすぐむき出しの土だった。


「アスファルトと土じゃ、歩くために必要なエネルギーが全然違うでしょ」

「あ、ああ、そうだね」


 今日は春香と一緒だから歩きだが、普段は自転車を使うことが多い。歩行者を避けるため、土の方に進路を変えるととたんにペダルが重くなることは足がおぼえている。


「ここを境に、同じ距離を進むのに必要なエネルギーが違う。同じエネルギーなら速度と移動距離が違う。つまり、異なる物理法則によって支配されている空間になってるってこと」

「えっ? それは違うんじゃ……」


 大悟は違和感を持った。さららの理論じゃあるまいし、そんな簡単に物理法則は変わらないはずだが……。


「どうして違うと思う」


 春香は試すように言った。


「……多分だけど、摩擦とかが違って。それが理由で差が出てるだけじゃ」

「そういうこと。双方の摩擦を考慮すれば、この2つの領域で働いている物理法則はまったく同じという結果になる。つまり、方程式に摩擦の項目を付け加えれば、アスファルトと土の両方の方程式は一緒になる。これが対称性」


 春香は道路に戻っていった。言ってることは何となく分かる。だけど……。


「当たり前のことに聞こえるんだけど……」

「そう。つまり、何一つ特別なものはないってこと。それが対称性。だからこそ、どこでも同じことをするなら同じだけのエネルギーが必要とされる。だからこそ、エネルギー保存の法則も成り立つ」


 春香の答えは肯定。やはり物理法則とはゲームで言うルールのようなものだ。場所ごとに勝手にルールが変わったら、ゲームは成り立たない。ただ、春香の迷いない表情に大悟は何か冷たいものを感じた。何も特別なものはない。それは何に対しても……。


「ちなみに、エネルギー、運動量、電荷を始めとする物理学の保存則の全てに、その背景となる対象性が存在する。これを証明したのが偉大なる数学者ネーターよ」


 聞いたことが無い科学者の名前が出てきた。


「物理学に最大の貢献をしたと言われる女性数学者。その功績の割に、一般的な知名度は低いけど。アインシュタインと同じくらい評価されてもいいのに」


 「男女の間にも対称性があるはずなのにね」春香は言った。


「功績と認められてるだけマシかな。女性科学者が功績を無視された例は枚挙に暇がないわ。ウランの核分裂を洞察したリーゼ・マイトナー。DNAの二重らせんのX線解析を行ったロザリンド・フランクリン。太陽が水素であることを示したセシリア・ペインもね。全てノーベル賞そのものかそれに相当する大発見」

「……一人も知りません」


 彼が知っているのはそれこそ教科書レベルだ。湯川秀樹がやったことすら、となりを歩く女の子にさっき教えてもらったのだ。


「まあ、後からでもそれが解ってるだけで、科学の世界はマシな方かも」


 春香が言った。だが、大悟は大場に対する春香の反感の背景を見た気がした。


(さららさんに対するこだわりも、かな)


 綾が言っていた、女性科学者としてのロールモデル。春香にとっては貴重な道標なのだろう。


(なるほど、やっぱり春日さんにとって弟子をクビになるかどうかは大事なんだ)


 大悟は改めてそれを理解した。ただ、お手本と言うには二人の姿勢はまったく違っているように見えたのが少し気になった。さららはもっと……。


「ここまででいいから」


 大悟がこの状況の生みの親について考えていると、春香が言った。いつの間にか、気がついたら、大学の門が目の前にあった。


「送ってくれてありがとう」

「あ、いや、おしゃべりしてただけだし」


 本当に、あっという間だった。だが、春香はじっと大悟を見た。


「……その、九ヶ谷君には迷惑じゃないの」

「えっ? だから……」


 大悟が手に持っていた空の買物バックを見せようとしたが、春香は首を振る。


「夏休みがこういうことで潰れること。お父さんのことがあると言っても、元々好きじゃないでしょ。サイエンス」


 真意を見通そうとする強い視線に、大悟は焦る。


「あ、ああ、そういう意味か。そうだね、たしかに苦手分野だ」


 嘘をついても仕方がない。彼は正真正銘科学が苦手だ。


「でも、今日の話は面白かったっていうか。原子に実体がないとか、びっくりしたけど。でも、イメージできたら納得はいって……」


 ある意味良く出来た異世界の設定を聞いているようだった。


「凝った世界設定のゲームの解説を聞いてるみたいだっていうか……」

「その例えは納得出来ないけど。なら良かったわ」


 暗くてよく見えないが、春香がホッとした顔になった気がした。


「……一応これを渡しておくわ」


 春香がカバンに手を入れると、一冊の本を取り出した。文庫本サイズ。幾何学的模様をあしらったシンプルな表紙は如何にも澄ましている。


「『世界を織りなすもの』?」


 大悟は題名を読み上げた。


「現代物理学の啓蒙書。いわゆるポピュラー・サイエンスの本ね。私が読んだのは中学生の始めだったかな。一応数式とかなくても理解できるように書かれてる。これを読めば現代の物理学の概要が掴めると思う。本当に触りだけだけど、それでも、だいぶ違うと思う……」


 無知すぎる彼のための副読本といったことだろう。


「今回のことに必要なことは私が教えるから、無理にとは言わないけど……」

「いや、貸してもらうよ。読むのに時間掛かるかもしれないけど」


 本を引っ込めようとした春香に、大悟は言った。


「じゃあ、私は行くわ。次の予定はまたメッセージで送るから」


 そういうと春香は大学の門に向かった。大悟は本を手に持ったまま、それを見送った。彼女はまっすぐ道の先を見て、一度も振り返らなかった。


「自由研究課題についで、課題図書か……」


 本の表面をなでて大悟は呟いた。受け取った本は角が少しかすれていて、あちこちに開いたくせがついている。

2017/12/08:

来週の投稿は月、木、日の予定です。

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