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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第一部『物理学の爆弾』

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12話:後編 間違い

 形あるものであるはずの原子が、形なきエネルギーそのものだというイメージを不完全ながらも理解させられた大悟は、常識的感覚とのあまりの違いに混乱する。


「【強い力】が特別なんだよね」


 救いを求めるように口にした。


「もちろん違うわ。運動したら重くなるって言ったでしょ。すべてのエネルギーは質量と等価なんだから、例えばそうね……」


 春香はポケットから髪留めのゴムを取り出した。そして、ゴムを指の間で伸ばして見せる。


「このゴムにエネルギーが加えられた分だけ、ゴムは重くなってったの。この場合は九ヶ谷君の言う”物質分”の重さがほとんどで私の指から加えられたエネルギーの分の重さは測定できないほど小さい。でも、そもそも物質の重さの98パーセントはこのゴムに蓄えられたエネルギーと同じように……」


 春香はその指で、陽子の中のクォークを繋ぐ波線を挟むようにした。原子の中でクォークをつなぎ止めている【強い力】とゴムが蓄えているエネルギーが同じだと言っているのだ。


「でも、仮にそうだとしても」


 大悟は最後の抵抗をした。


「その指に当たる物があるはずだ」


 この際、物の重さがほとんどエネルギーでもいい。せめてそのエネルギーを支えている確固たる物質があって欲しい。


「クォークのことを言ってるなら、無駄よ。クォークだってエネルギー。原子の重さの残り2パーセントはいわばクォークという形を取ったエネルギーと空間の間の摩擦で出来ている。ヒッグス粒子の発見が大きなニュースになったでしょ」

「じゃあ結局全部エネルギーじゃないか。でも、エネルギーだけじゃ……」


 何かが足りない気がする。


「だから、それが余剰次元の空間構造。あるいは方程式」


 春香はお冷やのグラスを手に取った。


「水に確固たる形がなくても、グラスに入れればそれに応じた形になる。つまり、形のない水に形を与えることは幾何学的に可能なの。それが空間自体で起こる。そして、その空間の形を決めているのも形はないものよ」

「それはなに?」


 大悟が尋ねると、春香はふふっと笑った。


「方程式。つまりさららさんのORZL理論」


 形の無いエネルギーの形を決めているのが実体なき空間で、その空間の構造を決めているのが抽象的な数式。どこまで行っても大悟の求める実体は与えられない。


「最初に戻りましょうか。仮に、九ヶ谷君が時速十キロでランニングしていたとする。九ヶ谷くんの体重が65キログラムとすると、その時持っているエネルギーは静止しているときよりも250ジュール多いから、九ヶ谷くんの重さは1000億分の2.7グラム増えている。物質はエネルギーなんだから、エネルギーが増えたら重さが増えるのも別におかしな話じゃないでしょ」


 大悟が誤差と感じた核分裂の0.7パーセントがどれだけ大きいのかはっきり解る。


「そ、そう言われれば…………」


 運動することで増えた体重は、本当に僅かだった。なのに、その意味することはとてつもなく大きい。世界そのものがひっくり返るほどに。大悟はやっとそれを理解した。


(全てのエネルギーが重さを持つなら、運動したら重さが増えるのは当たり前……。あれ、でも全部のエネルギーが重さなら、この場合…………)


 だが、それを理解するために自分が走るイメージとして整理しようとした大悟は、何か違和感を感じた。


「……なにかおかしいな」

「何もおかしくないわ」

「…………今、春日さんは全てのエネルギーは重さがあるって言ったよね」

「言ったわ」


 春香はもう一度ゴムを伸ばして見せた。


「じゃあ、食べ物のエネルギー、えっと、カロリーとかはどうなるの?」

「カロリーは有機化合物の電子の軌道に蓄えられた電磁力のエネルギー。もちろん、重さがあるわ。とても計測できないほど小さいけど、化学反応、例えば物が燃えた場合とか、熱として放出されたエネルギーの分、反応産物の重さは減ってる。質量保存の法則は嘘っていうのはそういう意味」

「なるほど…………」


 春香の説明を聞きながら大悟は頭のなかで考える。彼がジョギングをしたら一秒あたり250ジュールのエネルギーが必要だ。その250ジュールは彼の身体の中に脂肪とかの形で蓄えられていた分子が呼吸で燃やされることで、分子の外に出る。分子の外に出たエネルギーは筋肉を動かすことに使われる。


 なるほど、構造的には原子力発電でウランの中のエネルギーが水分子の沸騰に変わりタービンを回すのと同じだ。そして、そのスピード分重さが増えるのだ。


 つまり、運動によるエネルギーの分体が重くなったとしても、その重さは元々は……。


「春日さん。全てのエネルギーが重さだとしたら、体が動いて重くなった分のエネルギーは、体の中に元々あったエネルギーの重さでしょ。だから……」


 大悟がそこまで言ったとき、春香がしまったという顔になった。


「脂肪の中にあったカロリーの重さが、体にまとわりつく運動エネルギーの重さに変わっただけだから、差し引きゼロじゃない。つまり、運動しても体重は変わらない気がするんだけど……」

「…………えっと、そ、それはね」


 春香はそこまで言ってうろたえたように沈黙した。頬に朱が走った。髪留めのゴムを伸ばしていた指先が震える。


 ついに彼女はふいっと窓の外に視線を逃がした。


「…………よ、よく理解したわね。例えば私がこのカップを投げたら、カップを運動させたエネルギーは私、つまりカップの外から与えられたものだから、カップの重さが増える。だけど、人間の場合はそのエネルギーは元々自分の中にあったのだから、化学反応のエネルギーが運動のエネルギーに変わっても、重さは変わらないわ」


 横を向いた春香の耳まで赤い。


「…………」

「何」

「いや、まあ……」


 春香らしくないその仕草が新鮮で可愛かったとはとても言えない。


「とりあえずエネルギーが増えると重さが増えるのは納得できた。うん、科学の話を聞いてこんなに面白かったの初めてかも」


 理解できたのは春香の説明が丁寧で、お陰でイメージ出来たからだ。大悟の言葉に春香は驚いたように目をぱちくりさせた。そして、更に顔を赤くした。


「調子のいいことを言って。……こ、このペースじゃいつORZLまでたどり着けるかわからないのに」

「でも、面白かったのは本当だから」


 そもそも、今の話は途中から本題からはだいぶずれていた気がするが、大悟はそれは指摘しない。


「じゃあ、次は…………。あっ!」


 次のレクチャーに進もうとした春香は壁にかかったシックな時計を見て困った顔になった。


「今日はここまでね。私はラボに行かなくちゃいけないから」

「あ、ああ、もうそんな時間か」


 窓の外はすっかりオレンジ色だった。


 春香はこれから例の地下研究室に行くのだ。あんなこと言われてと思わないでもないが、さららを放っておくとせっかく片付けた部屋がカオスになるらしい。


 何より春香の作業には大学のコンピュータが必要なのだという。今までのレクチャーはあくまで足手まといの大悟のためで、彼女の役割はあくまで仮説を立てることだ。


 大悟は沈みかけた太陽を見た。


「でも、これからだと……」

「帰りは迎えが来るから」


 せわしなく筆記用具を片付けながら春香が言った。


「そうなんだ」


 それなら一安心ではある。だが、ここから大学までもそこそこ時間がかかる。駅前まで出てから大学への進路を取れば、後は広い道だ。だが、ここから直線的にその道路を目指せば、途中に繁華街や裏道を通ることになる。


「大学までは送らせてもらえないかな。今日のレクチャーが長くなったのは、僕の知識不足のせいだし」


 大悟は言った。実際には春香が派手に脱線した気がするが、結果として彼が新鮮な話を聞けた。


「……でも」

「わざわざ家まで来てもらったんだし。大学の入口まで送ったら帰るから」

「でも、やっぱり悪い――」

「外に出るなら、帰りにスーパーで卵買ってきてよ。ママが試作に使いすぎて、家の分まで使っちゃったみたい」


 カウンターから夏美が言った。抜け目なく買物を押し付けた妹に大悟が苦笑しながら頷いた。


「そういうことだから」

「……じゃあ、お願いしようかな」


 春香は窓の外を見てから、小さく頷いた。

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