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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第一部『物理学の爆弾』

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12話:前編 運動と体重の間の相対論的関係

「すごく綺麗ですね、髪の毛。シャンプー何使ってるんですか?」

「えっと  普通のだと思うんだけど……」


 癖毛を揺らす若いウェイトレスが客のつややかな黒髪を褒めている。注文の紅茶をもってきた妹は、そのままテーブルの横に陣取り春香と話し始めたのだ。


 もう一人の客である大悟は蚊帳の外である。


「スタイルもスラッとしてて羨ましいです」


 夏美は羨望の目で春香を見る。春香のスレンダーなスタイルは確かに理想的、彼の好み的にも、のバランスなのは間違いない。ただ、そんな同性同士だから出来る会話を、目の前でされても困るのだ。


 褒め言葉に慣れているはずの春香も居心地が悪そうだ。


「夏美。あんまり春日さんの邪魔するな。大体、普段はあんまりカフェの手伝いとかやりたがらないくせに」


 妹の勢いに戸惑っている春香を見かねて大悟が言った。ことさらノートを広げて勉強の姿勢をアピールする。夏美はそれを胡散臭げに見た。日頃の人徳が忍ばれる。


「ぶぅ。じゃ春香さん。この駄目兄じゃなくて、今度は私にも勉強教えてくださいね」

「えっ  あ、えっと、うん」


 妹はそんなずうずうしいことを言って、戻っていく。軽く手を振って夏美を見送る春香。夏美がカウンターの後ろに消えると、少し肩の力を抜いたのがわかる。


「先日出した問題は解けた?」


 大悟を振り返ったとき、その顔はすでに真剣なものに変わっていた。できの悪い文系学生に物理学の基本中の基本を叩き込まなければならない難問にもどるのだ。


「あっ、はい」


 一瞬でサイエンスモードに変わった春香。大悟にとっても彼女を意識しないで済むこの状態のほうが楽だ。妹の「駄目兄」という台詞を彼女が全く否定しないことにも、彼は落ち込んだりしない。


 ここでそれを否定しても、すぐにその通りになるのがわかっているからだ。


「これなんだけど」


 大悟はノートを春香のほうに向けた。そこにはきれいな筆致で書かれた二問の課題と、下手くそな字で書かれた自信なさげな答えがある。


 問題は、一グラムの物質が持つエネルギーの量の計算と、事故を起こした加速器と同じく、光速の70パーセントに加速された粒子の質量だ。


「答えは合ってるわね」


 春香は大悟のノートを見て言った。大悟はホッとするも、それは当たり前だ。


「まあ、数字を代入するだけだからね」


 速度が秒速30万キロとか、エネルギーの単位がジュールとか、そういったことを除けば計算そのものは出来なくもなかった。電卓の使用も許可されているのだから。


 ただ、その結果がイメージできないのだ。一グラムの物質が90兆ジュールと言われてもどれくらいすごいのかわからないがそれは置いておいても、問題は二問目だ。


「ただ、質問があって」

「質問?」

「うん、ちょっとイメージできないっていうか。加速器で加速された粒子の”質量”が増えるっていうのがよく解らなくて」


 大悟はノートを見ながら言った。春香がキョトンとする。何が解らないのか解らないという顔だ。


「……粒子って物質、物だよね。形ある物。で、加速されることで粒子にたまるのは、エネルギー。こっちは形ないものだよね。スピードが上がると沢山のエネルギーが貯まるっていうのは解るんだけど。それで質量、重さが増えるっていうのがわからなくて……」


 時速100キロの野球ボールより、150キロの方がデットボールを食らったら痛いだろう。


 だが、加速器の作り出す秒速何十万キロの世界では重さとエネルギーの区別があやふやなのだ。時速150キロのボールのほうが”重く”なっているというのが理解し難い。


 一体何が増えて重くなっているのかということだ。


 先日の説明では、炭素原子核は加速するにつれて速度ではなく質量のほうが増えていく。それで、加速に必要なエネルギーもどんどん増えるという説明だった。


 しかし、増える量が無視できる値ではない。光速の70パーセントでは1.4倍。試しに計算した90パーセントならなんと2.3倍だ。エネルギー分の方が多いのだ。


「加速してるのは原子核だから、原子核の数が増えたりするの?」


 野球投手が光速の90パーセントでボールを投げたらボールが二つになる。どんな魔球だというわけだ。まあ、魔球じゃなくても打てないが。


「あるいは、原子核の中の陽子とか中性子だっけ、その数が増えるとか?」

「そんなわけないでしょ。まず、全ての物質は運動していると重くなるの。これは、運動の速度とは関係ないわ。例えばこれを九ヶ谷君に向かって投げるとするでしょ」


 春香は自分の手に持った消しゴムを放るような仕草をした後、手で持ったまま大悟の目の前に持っていく。


「あっ、はい」


 大悟は消しゴムを受け取った。はずみに春香の指先が掌に一瞬だけ触れる。


「その消しゴムは私たちの間を移動しているとき、つまり運動しているときにはその分質量が増加しているの」

「原子核とか、光速とかじゃなくて普通の物でもそうだってこと?」

「そう。電子をはぎ取られてるかどうかはともかく、炭素も原子の一つにすぎないでしょ。大体、私たちの身体だって原子で出来てるんだし」


 運動している炭素原子核が重くなるなら、同じように原子で出来ている物、人間も含め、は運動すると重くなる。春香はそう言った。大悟としてはますますイメージ出来ない話だ。運動していて体が重くなったと感じることはあるが、この場合は運動生理学の話ではなく、物理学の話なのだ。


 大悟の頭のなかに浮かんだのは、お菓子を食べすぎた後、体重計の上でお腹を摘んでジョギングをしようかと計画している妹の姿だった。


「それじゃあ。ダイエットのために運動したら体重増えちゃうじゃないか」


 大悟は冗談めかして言った。背後から「セクハラ」という言葉が聞こえてきた。目の前の女性はそういうこととは無縁だ。ちなみに彼の妹も問題ないと思うのだが。


「純粋にエネルギーだけを考えると、そうなるわね」

「えっ、そうなの?」


 春香は最初の数式を指差す。【E=mc^2】。


「この式の意味、質量はエネルギーと等価。これくらいは聞いたことがあると思うけど」

「うん、それくらいはね」


 誰でも聞いたことがあると思う。それくらいこの方程式は有名だ。


「じゃあ聞くわ。一問目の物質がエネルギーに変わるの方。一グラムの物質が、90兆ジュールのエネルギーに変わる。九ヶ谷君のイメージは?」

「えっと、物質がじゅわっと蒸発してエネルギーになるみたいな……」


 大悟は恐る恐る言った。


「そこからか……。ちょっと時間がかかるけど仕方ないわ。まず物質とは何かを、この炭素原子を使って説明しましょう」


 春香はノートに中学生の教科書にあったような原子模型を書いた。中央に原子核があって、その周りを電子が回っている。


「この原子がどうやって出来ているかだけど、九ヶ谷君の理解は?」

「えっと、中央の原子核がプラスの電荷を持っていて、周囲の電子がマイナスの電荷を持ってるから、引き合っている」


 流石の大悟も、中学の理科の知識くらいは残っている。


「その時点で重大な問題があるんだけど、まあ今は良いわ。この模型使ってる時点でアレだし。電磁力のプラスとマイナスが引き合うおかげで原子が存在できる、そういうことね」

「う、うん」


 何か不味いのか。


「じゃあ、原子核はどうして存在できるの?」

「えっ?」


 大悟は原子核を見た。原子核は黒塗りされた陽子と中性子が描かれている。やはり中学の教科書と変わらないように見える。


「…………えっと」

「プラスの電荷とマイナスの電荷は引き合う。じゃあ、プラスとプラスは?」

「あっ!?」


 大悟はやっと意味が分かった。炭素原子核の中にはプラスの電荷を持った陽子が複数存在する。残りは中性の中性子だ。となると……。


「解ったみたいね。今の話なら、原子核はプラスの電荷を持った陽子同士の反発でばらばらになる。水素以外の原子は存在できないことになるわね。でも、この宇宙はそうなっていない。つまり、電磁力とは別の何かの力が働いている。この力が持つべき性質は三つ」


 春香は指を三本立てた。


「一つは、その力は原子核を構成する核子、陽子と中性子ね、の間に働き互いに引きつけ合う。二つ目は、その力は電磁力よりもずっと強い。最後にその力は遠くまで届かない」

「最後がちょっと解らないんだけど……」

「もしも、電磁力よりも強い力が電磁力と同じように遠くまで届いたらどうなる?」


 春香の試すような言葉。大悟は頭の中で想像を巡らせた。陽子と中性子を引きつけ合う力が遠くまで伝わる。その力は電磁力よりも強いとしたら……。原子と原子の間にはマイナスの電子が有って、そのマイナス同士の反発で……。


 大悟の頭のなかで、まるでゲームのフローチャートのように原子核と電子が行き来する。結論は簡単だった。


「そうか、隣の原子の核同士がくっついちゃうんだ」

「そういうこと。この力は遠くまで届かない。届いたらこのグラスの中で核融合反応が起こってしまうのよ」


 春香はお冷やのグラスを指さして物騒なことを言った。


「その力の名前が【強い力】」

「強い力……。た、確か宇宙の4つの力の一つだよね」


 大悟はさららの講義を思い出して言った。


「ちなみに、この陽子と中性子の間になければならない力を媒介する中間子を予言したことが湯川秀樹の功績。さっき言ったその力のあるべき条件から”計算だけ”で予言して見せたのよ」


 春香は言った。日本人ならそれくらい知っていろと言わんばかりだ。原子核の中に陽子が詰まっていることに疑問を持ったことがない大悟にはきつい話だ。


「わかりやすく言えば原子力」


 原爆や原子力発電。言葉だけはよく知っていても、実体となるとわからない力。なるほど、原子力というのは陽子と中性子をくっつけ合う力なのか。核の中にある力だから原子力、文字通り核エネルギーというわけだ。


「つまり、原子力っていうのはウランだけじゃなくて、全ての原子がもっているエネルギーってことなんだね」


 特殊なもの、おっかないものだと思っていたら随分印象が変わってしまった。大悟にはその感覚が少し新鮮だった。


「そういうこと。ウランはそれが取り出しやすいってだけの話なの」

「そうなのか」

「じゃあやっと本題に戻れるわね。この強い力と物、つまり原子の重さの関係を説明しましょう。結論から言えば、原子の重さの約98パーセントはこの強い力のエネルギーの重さと言っていいのよ」


 大悟が理解したのを見て春香は言った。少し理解したつもりだった大悟は飛躍した話に首を傾げた。

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