11話 パティスリー・ド・ラタン
「ママ。日本はどうしてこんなおかしなことになってしまったの?」
「綾ちゃんだけでも大概なのに……。私も反射的に電話に手が伸びたもの」
天窓からの光と木目を基調としたシックな調度が、明るいベージュの雰囲気を作り出す空間。パティスリー・ド・ラタン。ケーキの美味しさで評判の店。そのカウンターで母娘の会話がかわされていた。
二人の視線の先は店内にある喫茶スペース奥にある一つのテーブルだ。利用客の居ない午前中の時間帯。そこに、二人の息子と兄が同級生女子に挟まれてノートを広げている。
「好き勝手言われてるよ、大悟」
綾が面白そうに言った。
「誰のせいだ誰の」
さららから出された夏休みの共同課題。最初の会場に選ばれた『パティスリー・ド・ラタン』は大悟の母が経営している店だ。駅から程よい近さにあり、三人の家の真ん中でもある。
「この包装……」
春香が見ているのはテーブルの中央に置かれた木皿にもられたクッキー。ではなく、それを包んでいたラッピングの模様だった。ちなみに、彼の母から友人に対するサービスである。
春香は遠慮しかけたが、綾が勝手に受け取った。今のところ非売品だ。
正規の商品になるかどうかは綾の意見も加味される。もちろん大悟の意見など聞かれもしない。
「ちゃんとお店で作られた商品だって言ったから」
聞かれもしないのに大悟は言った。
「わざわざ私にカレドのキャンペーン内容を聞いて、晴恵さんに無理言って作ってもらった、だけどね」
綾が余計な情報を与えたので、春香が大悟にもの問いたげな視線を向ける。
「……始めないと時間がないんじゃ」
大悟は強引に話題を変えた。
「そうね、時間はいくらあっても足りないくらいだわ」
春香が一瞬で厳しい顔になった。これから彼ら三人は夏休みの課題に挑むのだ。
まずは基本的なプレゼンの構成の確認だった。最初に今回のLcz現象――事故ではなく現象だと春香が言い張った――の背景説明。次に本来在るべき、つまり標準的な物理学とORZL理論の違い。最後に、ORZLを使った今回の現象について”仮説”の発表だ。
ぶっちゃけてしまえば相手はORZLの提唱者なのだから、最後だけしか意味がない。第一幕、第二幕は綾と大悟にボロが出ないためにあるようなものだ。
「二人には悪いけど茶番ね」
「春日さんが正解を出せるなら、こんな形式何の関係もなくなると思うけど」
「…………もちろん、そのつもりでやるけど」
一言多い春香の様子にむしろ大悟などは安心したのだが、二人のやり取りには僅かに棘が感じられる。もっとも、大悟がそんなことを気にする余裕があるかのほうが問題だ。彼にとっては気が重い役割分担だからだ。
もちろん、彼としても【ゲーム項】に絡む話ではあるのだが。
三人は大まかなストーリーラインについて話し合う。事故を起こした加速器の説明については、大場から聞いたのとほぼ同じ。加速器の経済的側面などについてはむしろ綾が頼りだ。
ただ、問題があるとしたら、綾と春香の主張が食い違いがちな点だった。綾が加速器が再開できない理由について経済的側面から原因を考えると、春香はあくまで学術的な理由を持ち出したがる。下手したら大場が何か不祥事を隠しているという方向に行くのだ。
と言っても、役割分担が決まっているうえ、互いに相手の分野に踏み込むつもりがないので、大きな争いにはならなかった。大悟としてもこれまでの経緯が頭の中で整理された。
「私が把握する概要はこんな所かな。あと一つ確認しておかないといけない事があるけど」
「なんだっけ」
「この事故、現象の謎の根幹。確か、熱力学の…………なんとか法則ってやつ」
大悟も思い出した。あの時二人の科学者が共通して問題だと考えていたのは確か、そんな感じの名前の法則だった。
「熱力学の第一法則ね。でも……」
春香が首を傾げた。
「えっと、説明してほしいんだけど」
「えっ、でも学校で習ったでしょ……。エネルギー保存の法則のことだけど」
確かに聞いたことがある。だったらそう言ってくれと大悟は心のなかで突っ込んだ。
「確か、エネルギーは増えたり減ったりしないってやつだっけ」
大悟は記憶を引き出した。
「化学反応の前後で変わらないって、あれだよね?」
「多分そうだったような。多分そうだ」
二人の文系志望がなけなしの知識をさらけ出す。春香がため息をついた。
「そうだけど、小笠原さんが言ってるのは質量保存の法則のことでしょ。それ、間違いだから。量子力学的に言ったら更に――」
「そういうのは大悟に教えてあげて。私には端的におねがい」
春香のこだわりを綾が止めた。春香は綾をちょっと睨んだ。だが、諦めたように説明をする。要するに、どんな物理現象であろうとその前後でエネルギーの量は変わらないという話だ。
「100円しか持ってないのに、ホールケーキを注文したら出てきちゃったみたいなことね」
「確かに、物理学でもフリーランチって言うけど……。ちなみに、お金以下のケーキが出てきた場合もだから」
「喫茶店でその例えはやめてくれ」
大悟は言った。
「事故を起こしたエネルギーは勝手に湧いてこないから、どこかになくちゃいけなかった。でも、どこにあるかわからない、そいうことだね。お金の出所が解らないって言うのは事件チックで面白いかも」
「まあ、それでいいわ。お金が勝手に湧いたり消えたりしたら経済学は成り立たないでしょ。それと同じ、熱力学の第一法則が崩れたら、物理法則の大半が意味を失ってしまう」
綾の言葉に春香が渋々といった体で頷いた。確かにそれは不思議なのだろう。エネルギーが勝手に湧き出るならそれは魔法だ。いや、魔法ですらマナとか、魔力とか、エーテルとかそういったエネルギー源が必要なのだ。
だが、大悟は一つ気になることがあった。
「でも、ORZLって物理法則が変わるんだろ。その熱力学ってやつも変わるんじゃ……」
「物理法則っていうのは、あくまでエネルギーがどう使われるかの法則だから。そこは大丈夫。詳しく言えば対称性と関わって――」
「だいたいわかったかな。じゃ、私はここまででいいや。次の予定が押してるから」
「ちょっと待って、まだ全然……」
「春日さん、目的忘れていないかな。私と大悟、特に私は一番基本的なことだけわかっていればいい。さららさんに質問されたら、それは次の人が説明しますでしのげるから。というわけで、そういうのは大悟に教えてあげて」
「ず、ずるいぞ」
大悟の抗議を尻目に、綾はさらさらとノートにペンを走らせる。そして、定規で綺麗に切り取って折りたたむ。それを手にカウンターに行き、大悟の母に手渡した。恐らくさっきのクッキーの感想だろう。
チリーンと入り口のドアのベルがなり、窓の横を手の平をひらひらと手を振って綾が通り過ぎた。大悟はそれを恨めしげに見た。
「じゃあ、九ヶ谷くん。続きをしましょうか」
春香が言った。
「えっと、ちなみに僕はどこまで理解すれば…………」
「九ヶ谷君はまず、加速器内で物理法則が通常通り働いていたらどうなるか、それを理解して」
「かなり難しいんじゃ……」
「そうでもないわ。熱力学の第一法則が問題になってるってところに絞れば、加速器で加速された荷電粒子の持つエネルギーが理解できれば最低限なんとかなると思う」
春香が言った。そして、説明が始まる。
春香はノートを開くと、荷電粒子を磁力の力で加速していく様子を図示する。加速器が大きい必要があるのは、なるべくカーブを緩やかにしないと曲がるときに失われるエネルギーが無駄になるかららしい。カーブで速度が落ちるのは理解できる。
もっとも、春香にかかると荷電粒子が纏っている光子がカーブで剥がれて光として出て行ってしまうという話になるのだが。それでも、春香が丁寧に説明しようとしていることは解る。
「加速器が抱えるもう一つの原因は、加速による粒子自体の質量の増加で……」
春香自身の問題と言えば問題なのだが、こうやって一生懸命に教えられると頑張らなければという気持ちになる。それでも、説明の羅列について行くのが精一杯だったが。
「まるで足りないけど、基本はこれくらいかしら。解らないことは次の時に質問して」
説明が終わったのは大悟が理解したからではなく、春香の時間が限界になったからだ。習い事で午前中いっぱいで戻らなければいけないらしい。
大悟にとっては残念ながら、理解したといい難い状態だ。彼にとってイメージできるかが全てだ。スピード、質量、そしてエネルギー。まるでバラバラのアイデアのように、それはただ頭の中をさまよっている。
「この問題を解けるくらいになっていて」
引き上げ間近、春香に宿題を与えられる。加速した粒子のエネルギー量の計算だ。使うべき公式も全て指定されている。
わざわざ大悟のノートに課題を書き込む春香。微かな石けんの匂いが鼻に届いた、その瞬間、春香はペンを引き上げて立ち上がる。
必要以上に丁寧に大悟の母にクッキーのお礼を言った後、春香は店の前に来た明らかに日本産ではない車に乗り込んだ。大悟は店の中からそれ見送った。
大悟はそこで初めて、まともにノートを見た。父の書斎や、あの地下研究室のホワイトボードよりは大分ましだが、それはやはり記号の羅列だった。一つ一つに、説明が付いているのが救いだが。その説明を果たして理解できるだろうか。
「これは先が思いやられるな……」
一人残った店内で大悟は呟いた。
2017/11/26:
来週の投稿は、2017/11/29(水)、12/2(土)の予定です。




