10話:後半 夏休みの課題
地下室から出ると、夏の日も傾いていた。呆然としたままの春香とそんな春香をどうしていいのか分からない大悟は、綾の後について駅に向かう大通りを歩いた。そして、誘われるまま通りの半ばにあるファミリーレストランに入った。
午後6時のファミレスは席の半分が埋まっていた。立地上か、若い男女が多い。三人は、奥よりのボックス席に座った。
「さて、これからどうしますか」
入り口から見て奥の席に滑り込むようにして座った綾が言った。
「どうって言われてもな……」
綾の隣りに座った大悟は、向かいの席に力なく腰を下ろした春香を見た。彼女は細い唇を引き結んだまま黙っている。ここに来るまでの道すがらも、大悟達とほとんど喋らなかったのだ。綾に言われて家に連絡を入れたのと、ここに入ることを提案した時に力なく頷いただけだ。
「まず決めることは、さらら先生の夏休みの課題をやるかやらないかでしょ」
「いや、あれは課題とかそんな生易しいものじゃないだろ」
何しろ大学教授、それもおそらく高名な、が何ヶ月も解けない謎なのだ。それを、高度な理論物理学の理論で解けという課題だ。できるとか出来ないとかそういう問題ではない。
ましてや、その高度な物理理論とはスマホの通信が物理法則を変更するという、いわばトンデモである。
「まあそうだよね。ぶっちゃけ私と大悟には無理。絶対に」
綾はあっさり認めた。そして、彼らにとっては課題をやらないデメリットは皆無だ。もちろん、大悟は五年前の情報重心に興味はあるが、それは課題とは関係ない。実際「また何か解ったら話し聞かせてね」と帰り際にさららに言われた。
ただ、そうもいかないのが目の前に座っているクラスメイトだ。
「キーパーソンの春日さんはどうする?」
さららは三人を研究室から追い出す前に、もし課題が出来なかったら弟子は首だと言ったのだ。最初から弟子ではない大悟と綾には関係ないが、春香にとっては大事だ。
大悟はそのことに腹を立てていた。先週よりも綺麗になっていた地下室を思い出す。科学者の心得云々はともかく、春香はずっとプライベートを犠牲にしてさららのために働いてきたのではないか。
「…………」
春香は唇を噛んで沈黙を守った。おおよそ科学に関しては自信満々だった春香のその様子が、何よりも今回の件の不可能性を示している。
「ちょっと状況を整理しよっか。今回の課題、どういう意味があるのか」
「そんなこと、貴方達にわかるわけない」
春香が言った。声に僅かに力が戻った。シルバーを手にした店員が回れ右をしたのが見えた。店員にこの状況がどう見えるか、大悟は知りたくない気分だ。
向かいに春香、隣に綾を侍らせて夏休みにファミレスである。これだけ見られたらクラスメイトの半分の九割くらいに呪われるだろう。
「そうでもないよ」
「そうでもある。綾……小笠原さんも絶対無理だって言ったでしょ」
「言ったねえ、でもその前になんて言った?」
「その前……?」
春香は困惑している、大悟はここに入ってからの会話を思い出す。
「これは課題だって」
「だから解ってない。さららさんは私に科学者として考えろって言ったの。これは二人がイメージしてるような問題じゃないの」
「研究と学習は違うでしょ、それくらいのことは私にもわかるよ」
「教科書を学ぶんじゃなくて、教科書を書く」というさららの言葉が思い出される。大悟達は明らかに前者である。いやさっきまで居たキャンパスの学生であっても同じだろう。
「でも、同時に課題でもある。さららさんは私たちに正解を出せとは言ってない」
綾は意外なことを言った。課題なのに正解しなくていいとはどういうことだ……。大悟はさららの言葉をもう一度思い出す。
「……確か、仮説を採点するって言ってたな」
「そういうこと。さらら”先生"は仮説を作れとしか言ってない。で、春日さんに聞きたいんだけど」
綾の言葉に春香が顔を上げた。
「な、なに」
「物理学の仮説っていうのはどれくらい当たるの?」
「………………殆どが外れると思う」
「じゃあ、その外れた仮説を提出した科学者は、科学者の資格なしってことになるのかな」
「…………そんなことはないわ。その状況で得られるデータを説明できる論理的な考えだったら、外れても非難されることはない、はず」
春香ははっとした顔になった。さっきまでの雨降り前くらいの表情に、一筋の光明が差している。
「そういうこと。でもその前に……」
綾はそう言うと人差し指を伸ばして、呼び出しベルを押した。
「流石にそろそろ注文しないとね」
シルバーを運んできた店員が虚しくそれを持ったまま戻った。大悟達はドリンクバーから取った飲み物を手に席についた。
「あくまで”仮説”としてちゃんとしてれば合格ってことか」
大悟が乾いた喉を炭酸飲料で潤した後で話を繋げた。
「……私がちゃんとした仮説を提出すればいい」
春香は水を前に言った。表情は厳しいが、少しだけ生気が戻っている。
「そういうことだね。一種の弟子入り試験みたいなものでしょ。そう考えるとそこまで無茶でもないかもね」
「いや、無茶だろ」
大悟は突っ込んだ。高校生が科学者の真似事をするというのは変わらないのだ。
「でも、さららさんはそのムダになるかもしれない、ううんほぼ間違いなく無駄になるだろう行為に、自分が割り当てられたコンピューティングパワーっていうの、それを使っていいって言った。その分さららさんは使えなくなるんでしょ?」
綾は言った。さららは最後に大悟達にシミュレーションのために半分は使って良いと言ったのだ。
「……今さらっと調べたら、もし個人でその手の企業から借りるとしたら何十万円って額みたいだね」
綾がスマホの画面を取り出した。パソコンを支配するソフトウエア会社のロゴのページが映っている。時間あたりの使用量がドル表記で書かれている。
「私は見捨てられたんじゃない……」
「いや、だからそれが……。まあいっか、私の役割じゃないし。で、改めてどうするの春日さん」
「やるしかない。さららさんの期待に答えないと」
春香が言った。さっきまでと違って、その瞳には光が灯っていた。「期待はいいすぎじゃ」と大悟は思ったが言える空気ではなかった。
「さて、春日さんが心を決めたところで次は私達だね」
「いや、僕達はさ……」
新しい定義でも足手まといだ。なにもしないのが一番の協力だと大悟は思っている。
「でも、条件覚えてるでしょ」
「…………発表は三人でやれってあれか」
大悟は頭を抱えたくなった。さららが言ったもう一つの無茶だ。課題の発表は、春香一人でなく三人でやらないといけない。自分の喋る範囲においては質問に答える必要があるのだ。
嫌がらせとしか思えない条件である。
つまり、大悟たちが課題を放棄したらその時点で春香が失格になるということだ。それが解っているのか、春香の表情にまた絶望の色が戻っている。
「まあ、これもプレゼンっていうのならやりようはあるけどね」
「本当か」
「例えば、私は事故の背景、解決の意義なんかの背景説明を担当する」
「おい、ずるいぞ」
理系分野から逃げる意図が明白な綾に大悟は抗議しようとする。
「肝心要の仮説の説明は春日さんがやるしかないよね」
大悟を無視して綾は春香に言った。春香がゆっくり頷いた。
「じゃあ、僕どうするんだよ」
「その中間かな。理論の基本的説明くらい? ほら、お父さんの数式とかが絡んでるんでしょ」
綾が言った。春香がゆっくり頷いた。
「いや、そんなこと言われても……」
「そもそも、大悟が五年前のことを持ち出したのもこうなった原因の一つだよね」
自分がそそのかしたくせに綾はしれっと言った。春香が大悟に目を向けた。大悟は理不尽にも追いつめられた。
春香がやると言うなら不戦敗を強いることは流石に可愛そうだった。夏休み明けに、さっきまでのような元気のない春香の顔を見ることになるのは嫌だった。
「で、出来るだけのことはする……感じでいこうかな」
大悟は言った。春香がホッとした顔になる。
(レベルが足りないのにセーブ不可のダンジョンに足を踏み入れた気分だ)
「決まりだね。じゃあ、まずは今の役割分担をもうちょっと詰めて、春日さんが私たちが最低限理解しておかなければいけないことを教える。そんな感じで行こう」
「そうするしかないわね」
春香が先に待ち受ける困難を覚悟したように言った。彼女の困難の中に大悟達が入っているのは確実だった。
同時に、大悟の夏休みの大半が物理学の勉強、高校の試験は愚か将来の大学入試にすら役に立たない、に潰されることが決まった。
「最初の会場はパティスリー・ド・ラタンね。大丈夫、晴恵さんには私から話を通すから」
綾は勝手に場所を決めてしまった。止めようとした大悟だが、綾はスマホを片手にメッセージを打ち込み始めた。店名に首をかしげる春香。大悟は場所を説明した。
駅近くのその店は、彼の住所と同じ場所にあるのだ。
2017/11/20:
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