10話:前半 夏休みの課題
先核研から理学部地下に大悟達は戻った。
入るのは二度目となる研究室は少しだけ清潔感が増していた。完全ではないが、壁の汚れが消えているのだ。おそらく、押しかけ弟子の働きだろう。
「これはなかなか興味深いよ」
師匠の方は戻った途端に自分の席のディスプレイに張り付いている。春香も大悟達も頭のなかから消えているらしい。
ディスプレイに向かう彼女の瞳に映っているのは、三ヶ月前ではなく五年前の情報場の計算結果だ。
大悟の質問で、五年前アメリカ西海岸の情報重心について簡易的な計算がおこなわれた。その結果を見たさららは大いに興味を持ったのだ。
自分のラボに戻ったさららは大場の約束したコンピュータの使用権を確認すると、作業の続きを始めた。質問した大悟が驚くほどの執着ぶりだ。
たまりかねたのは春香だった。
「さららさん、どうしてそんな昔のデータを……。今はもっと大事な……」
「うん、ちょっと気になってね」
「でも、その計算始めちゃうと当分終わりませんよ。それよりも春のことを……」
おかげで春香が一人気を揉んでいる。
「なあ、首ってそんなに大変なことなのか」
「そりゃそうでしょ。研究者のポストなんて限られてるんだから。最近は非常勤とか臨時とかで大変らしいよ。若手が正社員になれないのはこっちの業界も変わらないみたいだね」
「そうなのか」
さららにはまったくそういうガツガツとしたところが見られない。大悟が思い描いていたような、現実社会から超然とした人間だ。
ちなみに彼の父もそういったことには殆ど関心を示さないタイプだったと思う。渡米するときも唐突だった。そして、帰ってこなかったのだ。
「それに、春日さんにとってはね」
「何かあるのか?」
「さららさんはいわばロールモデルでしょ」
「ロールモデル?」
「お手本ってこと。ただでさえ貴重な女性科学者の身近なお手本」
「……お手本。あれがか」
大悟は疑わしげにさららを見た。ちょうどその時、さららが大悟に振り返った。
「ダイゴ。五年前の話もうちょっと詳しく聞かせて」
「あっ、はい」
春香が大悟を睨む。余計なことをしてくれたという顔だ。
大悟だって困惑しているのだ。情報通信が現実を変えるというSFを彼はまだ信じられていない。ただ、あまりにも共通点がありすぎた。それを口に出しただけなのだ。
「この人工的神経回路チップの大規模集積実験の話だけど、何か言ってた?」
「い、いや、僕小学生だったんで……」
大悟は両手を振って否定した。もちろん、仮に今聞いたとしても解らなかったと確信している。どこかで聞いた有名な海外企業がらみの話だという程度だろう。
ただ、当時の父親がやたらとそのプロジェクトに入れ込んでいたことは記憶にある。ただでさえ仕事に夢中だった父親が輪をかけて彼に対する関心を低下させたということだ。
「ふうん、九ヶ谷博士は当時もまだ【ゲーム項】への関心を持ってたんだ。長らく新しい論文は出ていなかったはずだけど……」
さららが呟いた。
「なにか見つかったんですか?」
「ちゃんとした結果がわかるまではもうちょっと時間がかかるの。ほら、ぼやけてるでしょ。時間を遡って必要とするデータを間接的な情報から計算し直す必要があるから」
ノートパソコンにはアメリカ西海岸、カリフォルニアの地図が映っていて、そこにはぼやけたような赤い光がある。
それが情報の温度なのか質量なのか、高次の数学的構造なのか大悟には解らないが、少なくとも周囲よりはずっと高い値だ。何かがある可能性はあるのだろう。少なくとも、さららの関心を引くだけの何かが……。
「さららさん、今大事なのは春の事故の原因を突き止めることじゃ。時間がないじゃないですか。たった一カ月ですよ……」
春香が言った。さららは首をひねると春香をじっと見た。
「ハル。私は今これを調べたいの。私の研究にとって大事なポイントだって感じるからだよ」
「で、でも、その研究を続けるためにはポストが……。そもそも、なんであんなこと言っちゃったんですか。失敗したら首ですよ。それに、あの男はさららさんの理論を空想呼ばわりして……、だから見返してやらないと」
春香は悔しそうに言った。尊敬する人間を馬鹿にされて悔しいという気持ちはわかる。大悟も尊敬するクリエータのゲームをけなされると腹が立つだろう。それにしても、春香の大場に対する態度はいささか度が過ぎていた様に思えるが。
言動に多少あれな点があったとは言え、大場は基本的に大悟たちには親切だった。
「まあ、なるようになるよ。ハルだって言ったじゃない。ORZLなら解決できるって」
「そ、それは、それはもっと時間をかければって意味で……」
春香が困ったように言葉を濁した。さららはため息をついた。大悟がこの女性には珍しいと思っていると、さららは椅子を回転させて春香に振り返った。
「じゃあ、ハルがやってみればいいよ」
「えっ!?」
さららの言葉に春香が固まった。
「あの、だから私はさららさんのお手伝いを……」
「ハルはさっきオーバになんて言った?」
「え、さららさんなら事故の原因を解明できるって」
「違う。ハルはこう言ったの「ORZL理論なら事故の原因を解明できる」」
さららは春香を見て言った。春香がたじろぐ。
「つまり、ORZL理論で事故の解明が出来ると言ったのはハル自身。日本語は主語を省略するからわかりにくいよね」
いや、それ日本語の問題じゃない。大悟は心のなかで突っ込んだ。だが、さららは言葉を続ける。
「ハルは春に起きた現象について調べたいんだよね。なら、ハルがそれをやるの」
「そ、そんな、私にはまだ……とても……」
春香が怯えたような顔になった。大悟もびっくりした。さららは最先端研究を指揮している教授が解けない謎を、高校生の春香に解けと言っているのだ。
何の冗談だろうと思っているとさららは更に続ける。
「ハルは科学者になりたいんだよね」
「は、はい」
「研究っていうのはね、ハル。まだ世界のどこにも存在しないものを探すことなの。教科書を読むんじゃなくて書く側、それが研究者の立場。特に、テクノロジーじゃなくてサイエンスはそう。そのためには、自分の分野に関しては世界で一番じゃないといけない」
「そ、それは……そうかもですけど…………」
なんとなくだが言ってることはわかる。だが、それは高校生に求めることではない。
大悟は綺麗になった、それでもまだ古い汚れはのこっているが、部屋の壁を見た。春香は友人との関係を犠牲にして、夏休みをつぶしてさららを手伝っているのだ。さららのことを尊敬して、その理論を学びたいと思っているのだ。
大場に春香が言ったのは失言だったのかもしれない。だからといって出来るはずもないことを言うのはあまりにも酷い。
「あ、あの、それはいくらなんでも無茶では……」
うつむいて黙ってしまった春香を見て大悟は思わず口を開いた。だが、さららは大悟と隣りにいる綾を見た。そして、ぽんっと手を叩いた。
「ちょうどいいから。三人でやってみてよ」
「「えっ?」」
更におかしな事を言い出したさららに、大悟と綾は思わす顔を見合わせた。
「夏休みの課題ってやつ? オーバとの約束が一ヶ月後だから、そうだね三週間後に採点する。それまでに三人で仮説を考えて来て。うん、そうしよう」
さららはまるでいいことでも思いついたように笑顔になった。
目の前の女性は一体何を言っているのだろうか。高校生の夏休みの課題が最先端分野二つにまたがった問題の解決? 悪い冗談にも程がある。
大体、三人で協力してなんて言っているが……。
「そ、そんな。私は足手まといってことですか。この二人のお守りが適役ってことですか……」
春香が絶望的な声を上げた。




