12話 勝者の権利
消えゆく東京湾のオーロラが、コンピュータセンターの巨大な局面スクリーンに映っている。だが、その光景を見るものはこの場にはいない。画面からの光が照らす部屋の中では、先ほどまで休みなく動いていた二種類の頭脳、シリコン製とニューロン製、がともに停止していた。
GMsの人工知能に、自ら実行中のゲームのネタバレをかますためのパズルの作成。それは、多くの分野にまたがった現代科学知識を総合したものだった。
柏木と大場はもちろん、さららすら疲れ果てて机にうつ伏せになっている。
完成したパズルは、ルーシアとS.I.Sによってプログラムされたが、次の問題はその膨大な計算量だった。そこで「じゃあ、向こうに計算させればいい」というアイデアを出したのは綾だった。
というわけでルーシアと綾、そして画面上のS.I.Sまで疲れ果てている。
コンピュータのファンの音すら静まった部屋の中、活動しているのは二人の男女だけ。
「ある性質を持った数字の集団。この場合は素数ね。この集団のサイズが無限だと証明したいとするわよ。この場合、まずこの集団が有限と正反対の定義を置くの。つまり『素数集団=無限集団』という式を立てる。次に、この式を数学的に展開していき。最後に、その集団が有限ではない。つまり、無限だという結論を導く。すると、有限の集団が無限という矛盾が表れるでしょ。素数は有限だということが否定された、逆に言えば素数が無限だと証明されたことになるわ。これが背理法の例ね。今回の場合は、プレイヤーが一人の集団と、一人以上の集団という相容れない二つの集団を考えて、矛盾を導いたわけ」
一人は春香だ。問題の定義、というかテーマを提唱した女の子。さっきまでの困難極まりないプロジェクトで大活躍だった彼女が元気なのは、いわばサイエンスハイとでもいうべき状態だからだろう。
「も、もうちょっと簡単にお願いしたいけど。ええっと、確かプレイヤーの独立の定義? が問題だったんじゃなかったかな」
もう一人、といっても彼女の講義を聞いているだけなのが大悟だ。彼が春香の相手をしていられる理由はプロジェクトで、普通の男子高校生らしく、何もできなかったからだ。
「そこなのよ。個の対等はいいとして独立の定義が問題だった。すべてが繋がっている以上、あるプレイヤーがどこまでか区別できないと、そもそもプレイヤーの定義ができないでしょ。そこで、相互作用の濃度の境界を使うの」
「相互作用の濃度。えっと、確か春日さんがさららさんと一緒に考えてたやつかな」
「ゲーム項の応用なんだけど。例えば今、私と九ヶ谷君という二人のプレイヤーが話してるでしょ。私たちは言葉で相互作用している。でも、私の脳の中ではその言葉を作り出すために、莫大な数の神経細胞が相互作用している。九ヶ谷君が私の話を聞いているときも、私の言葉との相互作用以上に、九ヶ谷君の脳内で大量の相互作用が生じている」
春香が言った。中同士の相互作用の密度と外との相互作用の頻度みたいな感じだろう。それが逆に内と外を分ける感じだろうか。
「なんかシミュレーションゲームの二つの軍団の関係みたいだね」
「ええ。九ヶ谷君と洋子とのゲームの経験を思い出したの。あの時も、同盟と敵対にかかわらず、プレイヤーの区別はできたでしょ」
「それでわかったよ。えっと、GMsの人工知能は情報をすべて吸い上げるし、その情報をとんでもない勢いで処理する。いわば地球全体を支配する一つの帝国みたいなことになるわけだ」
「そうなの。世界のすべてがゲーム、ネットワークと定義した以上。ただ個が一つだけだったら。それはネットワークじゃなくて、ただの点でしょ。その内部でどれだけ高度で複雑な情報処理をしていてもね」
「さっきのパズルで、向こうにはそれを自ら証明してもらったと」
余裕があるとはいえ、大悟にとってはついていくのがやっとの話だ。なるほど、その基本的な考え方は、前に彼が言ったネタバレ戦略と通じるのかもしれない。高度すぎて全く実感がないが。
それでも、彼は義務としてちゃんと話を聞く。何の義務かといえば、敗者の義務である。
彼は先ほど最後の最後に春香に負けたことに、一瞬だけ悔しさを覚えた。だが、それは同時に彼に教えたことがある。それは行ってみれば、目の前の女の子がこれまでどういう気持ちを抱えて彼に接していたのかだ。
春香に勝てないことを当たり前に受け入れるべきである彼ですら、そういう感情を抱いたのだ。ならば、春香はこれまでどれだけの悔しさを抱えながら、彼に対してきたのか。それをやっと少しだけ実感することができたのだ。
実際、今でもまだちょっと悔しい。だからこそ、彼もちゃんと認めるしかない。
「やっぱり春日さんはすごいよ。最後の最後で完敗だ」
悔しさを振り切って敗北を認める。大体、彼は何もできなかったのだ。彼とのゲームが彼女のアイデアの助けになった程度か。これまでと逆である。
「そうね最後の…………この勝負に関しては私の勝ち。それは間違いない。でも……」
だが、勝者のはずの春香は微妙な表情になった。さっきまでのノリがない。
「でも、一番大事な勝負というなら……九ヶ谷君の勝ちよ」
「ごめん、さっきまでの説明よりも意味が解りません」
「……観覧車の中で私が言ったこと、忘れたの?」
春香はちょっとむくれた顔になった。そして、小さく顔をそむけてから口を開く。
「もし世界のすべてが情報処理じゃないって、私に納得させたらっていったでしょ」
横を向いた春香の頬がかすかに赤くなっている。
「私が最後に出したアイデア。あれは、あなたにそれを納得させられたってこと。それが何かは分からないけどネットワークの中に0と1では割り切れない何かがあるって。そして、その何かが……」
春香は頬を赤らめたまま彼に向き直った。
「……大事なことだって」
やっと理解できた。どうやら彼女の中では試合に負けて勝負に勝った的なことになっているらしい。勝者が自分の勝ちを理解できないとは、相変わらず複雑な勝負もあったものだ。
ただ、赤らめた顔を向けられている大悟の方も平静ではいられない。彼女の言葉はひどくわかりにくいが、それはいわば……。
「つまり、春日さんにとって僕との間の……」
「あ、あくまで一般解の話だから。……でも、勝負は勝負だし。えっと、そう私は敗北を認めたんだから、後はあなたが答えを出す問題だと思うの。後、今言った割り切れない何かの正体については、まだ答えは出てないわけだから。だから、次の勝負は負けない」
春香は頬を染めたまま彼に新しい挑戦を告げた。
(まいったな。今度こそ本当に、二度と勝てる自信はないんだけど)
それでも、彼女とのゲームが続くことを歓迎する自分に気が付く。この複雑極まりない女の子とのゲームは、彼にとっても大事だったし、これからも大事だと思う。
「それで……今回の勝負の清算は、どうするの?」
春香はどこか期待したような、どこか不安そうな表情で聞いてくる。大悟は思わずつばを飲み込んだ。
確かあの時春香は「九ヶ谷君が普通の女の子に望むようなこと、私がかなえてあげられるように努力してみてもいい」といったのだ。
「ちなみに、どこまで要求していいのかな」
「それは、約束だから精一杯努力はする……」
この娘の場合、この手の発言に嘘はないだろう。男子にとっては極めて危険な発言だ。ましてや勝負に勝ったとはいえ試合に負けた彼にとって、次はないかもしれないチャンスである。
「じゃあ第一ラウンドの勝者として一つお願い。来週のことだけど……」
もう二度と勝てないかもしれないのだから、権利を行使しておこう。大悟は本来なら世界が終わっていたかもしれない日の約束を彼女に取り付けた。
2019年7月7日:
来週の投稿は日曜日です。




