9話:後半 ポスト
「あくまで仮説として、今のように考えるとしましょう。でも、講師の理論を丸々信じたとしても、幾つも疑問があるわね」
「どうぞ」
スクリーンの光を背景に二人の学者が対峙する。
「講師の仮説。余剰次元の存在どころか、その性質を知るための実験がデザインできそうよね。どうして証明されていないの? 私の目の前にいるのが、ノーベル賞物理学者吉野さららではない理由は?」
「現象として観測可能な範囲で余剰次元に影響を与える情報重心の発生はまれなの。そして、そのレベルの情報重心が発生しても、高感度の測定装置がないと検出できない。さらに、これだけの規模のLczを引き起こすには、きっかけとしてのエネルギーが必要なの。狭い空間に高いエネルギーを集めて空間に刺激を与える。この場合は加速した炭素原子核が空間を叩いたことで雪崩的なLczの拡大が起こってる」
「それこそ実験で作り出せばいいんじゃない?」
「さっきオーバはここのコンピュータが情報重心の発生させたって言ったけど、確かにその要素はある。私もそれを目印にこの周囲に注目してたから。でも、それだけじゃない。同じ程度の候補地は世界に何十箇所ってあったけど、マクロのLczを引き起こす強度の情報重心の発生はここだけだった。情報重心は地球規模の情報ネットワークの結果生まれるから、実験で作り出すことが出来ないの。人工的に竜巻は引き起こせないでしょ。それと一緒。私にテクノロジー系の多国籍企業を二つ三つ動かす力があれば可能かもね」
「情報処理というのなら、コンピュータや人間の活動を特別視する理由がないでしょ。単純に処理される情報の多さだけなら、宇宙のあちこちでもっと大規模なLczとやらが起こっていい。天文学者は宇宙のあらゆる場所で物理法則が一定であることを繰り返し確かめているわよね」
「そうだよね。例えば太陽が燃えるのだって情報処理の一種。だから、それ以外の次元の方向性がある。そう考えるしかないの。私はそれを探しているってわけ」
「……あまりに都合が良すぎないかしら」
低く抑えられた大場の言葉には、強い猜疑があった。大悟は内心大男の言葉に頷いていた。今の説明は確かにさららに都合が良すぎる様に聞こえる。
画面が突然切り替わった。大悟が春香の方を見ると、操作ミスに気がついた春香が、慌ててタブレットに指を這わせているのが見えた。
「少なくとも私の計算だとそうなるとしか言えないかな。情報重心を作り出す理論と、私のORZLの数学的構造がピッタリ合致するとしか言いようがない。でも、だから今回の現象は私にとっては貴重なサンプルってわけ」
さららは悪びれずに言った。好奇心に満ちたその表情は不謹慎にさえ見える。
「その計算もどうかしら。ネットワークの情報通信量だけではなくて、いろいろなデータを混ぜ合わせているのよね。恣意的に選択されたパラメーターによって、あの時あの場所に情報重心が来るように調整することも出来るんじゃないの? 理論物理学のシミュレーションでは、パラメータを都合良く設定することは良くあることでしょ」
ゲーム作成で、世界の方のパラメータを操作してストーリーに合せる事がある。いわゆるご都合主義だ。
それをやらないで済むようにこねくり回した挙げ句、ストーリーのほうが破綻するのが彼の常だった。
さららがなんと答えるか大悟が注目した時、離れたところから「バン」という音がした。慌ててそちらを見ると、春香が机に右手をつけていた。
「すいません、手が滑りました」
絶対に違うと大悟は思った。
「それに関しても答えは一緒。情報重心の計算をしている【ゲーム項】にはそういう恣意的なパラメータを持ち込む要素がある。もっと高次の数学的構造が潜んでいると私も思ってるよ。まあ、そこが面白いところなんだけど」
さららは不敵に笑った。大悟は話が理解できなくなった。さららは自分の方程式が何を表しているか、自分で理解していないと言っているように聞こえる。
そしてさららは、ますます不信感を深めている大場に開いた右掌を向けた。
「というわけで、この現象の生データが欲しいの。それがあれば、私の理論を更に追求できる。オーバだって何が起こったのか知りたいんだよね」
大場は首を振った。
「無理ね。この研究は国内外に多くの競合がある。共同研究先との関係上守秘義務を課せられているデータも多い。例えば炭素原子の軌道だけでもこの加速器に施した幾つもの工夫に繋がりかねない機密なのよ。今日見せた分だけでもギリギリ。あなたの今の話、理論物理学によくある数学的には綺麗でも現実からは乖離しているもの、空想科学にしか聞こえないでしょう」
大場の言葉に、スクリーンを反射した壁に影が揺れた。
「頭ごなしに否定するというのは、科学者として失格じゃないですか?」
さっきから不穏だった春香がついに直接口を挟んだ。
「空想が悪いと言ってるんじゃないの。今の話は工学の基準ではということよ」
春香の差すような視線を受けても、大場は穏やかに諭すように言った。そして、さららに向き直る。春香が悔しそうに顔を歪めた。
「……大体、貴方の仮説で10の500乗の可能性から正解を導き出せると言うわけ?」
「それは超ひも理論の11次元の話でしょ。ORZLは基本が二次元だからそこまで膨大なパターンはないよ。精々、10の130乗くらい」
「囲碁の可能性と同じでしょ。計算機科学上それは解けない問題というのよ」
「だから、データが欲しいんだって。今回の現象はLczとしてはかなり大規模。当然空間一つ一つの改変は大きくない。計算数が届く範囲にある。もちろん、ここのコンピューティング能力も必要だから貸してね」
この流れでどうして要求を引き上げるのか。大悟は険悪になる空気を見守るしかない。
「オーバも頑固だね。私の言ってること信じたほうが楽だろうに」
「私はこの実験に係る人間の安全と将来にも責任があるの。そんな無責任なこと出来ない。講師と違って遊びじゃないのよ」
大場が胸をそらした。大悟は「あっ、やばい」と思った。
「ご自分が理解できないからと言って失礼です。さららさんの理論なら、データさえあれば答えが出せるのに」
女子高生の口出しに、大場は今度こそ顔をしかめた。そして、春香ではなくさららを見た。
「じゃあこういうのはどう? もし、データもらって解けなければ切腹、じゃなかった打ち首、えっと……」
「……もしかして職を賭けるっていいたいのかしら」
「そう、それ」
「何言ってるんですか、さららさん!」
のんきな口調のさらら。慌てたのは春香だった。
「あまり滅多なことは言わないほうがいいわよ。非常勤とはいえ、後二年は残ってるでしょう」
「データが手に入らないんじゃここにいても仕方ないからね。それでどう?」
だが、さららは春香を掌で止めて続ける。大場は考え込んだ。
「……貴方の首なんて興味ないけど、そこまで言うなら考えてもいいわ。今までと、次の論文に載せることが決まってるデータ。今の再現シミュレーションは貴方のとりあえずの結果を見てから、私が立ち会ってでいいなら」
「コンピュータは?」
「ここの使用時間を優先的に提供しましょう。期間は一月間でどう」
「オッケー。それでやってみる」
大場はさららとデータのやり取りについて話を始める。大場が書類を取り出して、さららがサインをする。機密保持の契約か何からしい。
春香はそんなさららの後ろでおろおろしている。春香の様子は気になるが、大悟は話がまとまったことにホッとしていた。その時、綾がちょんちょんと大悟の脇をつついた。
「ねえ、さっきの情報重心だけどさ……」
綾の耳打ちに、大悟ははっとした。
五年前の彼の父が関わった科学事故との共通性を思い起こさせられたのだ。情報重心が原因で事故が引き起こされ、その情報重心を計算する式は父が作った。そして再び起こった原因不明の事故。
いや、彼の父は情報重心を計算するためにゲーム項を作ったのではないはずだ。あれはさららの勝手な流用だ。
それでも偶然として片付けるにはあまりに噛み合いすぎているのも確かだ。
「話は終わりに。じゃあ、もうこのスクリーンは切るわよ」
さららから書類を受け取った大場が指をスクリーンに向けた。
「待ってください。一つ聞きたいことが」
大悟は思わずそれを止めた。
「今の情報重心っていうの、過去のも見ることができますか。五年前のアメリカ西海岸のなんですけど……」




