20話:後編 春日家訪問
「これはルーシアさんに協力してもらって作った簡単なシミュレーション。さっき言った『階層数』の増加によって空間の虚数軸に与える影響をモデル化したものだ」
きわめて単純なものだ、シミュレーションというよりもプレゼンのアニメといった方が近い。
振動は低い階層ではほんのわずかな影響しかない、観測域以下。特に、先ほどのピラミッドだと下層、つまり物理化学層では空間それ自体の振動、例の正と負の粒子を発生させる類のやつ、とほとんど区別がつかない。
だが、階層が増えるごとに効果は指数関数的に増加していく。情報処理階層が上がるごとに珍しさがけた違いに増えていくことに対応している、らしい。
人間社会の階層まで来ると、理論上の観測可能域ぎりぎりまで上昇する。そして、GMsが作った地球規模の人工知能で、新しい階層が付け加わった結果、初めて振動として観測できる大きさに達する。
そして、ORZL-Dから発生した振動は、地球の重力を振り切る、というよりも無視するように衛星軌道まで届く。結果として、宇宙からの電波観測の、本来なら極めて均一なはずの光子のパターンを乱した。これが、彼のストーリーだ。
「振動そのものは小さいうえに、存在が想定されていないから、宇宙という地上のノイズから離れた場所で、宇宙背景放射という微弱な電波を観測することを想定したセンサーが初めてとらえたって感じかな」
「情報処理の複雑さの階層が、物理的効果を持つということ…………」
春香は投射された画面をにらむようにしていった。
「あ、あの春香お姉さま。こんな茶番――」
「ごめんなさい。ちょっと黙っていて。今考えてるから」
「ひっ、は、はい……」
初めて口を開いた中学生は、春香の言葉におびえてしまった。
「……百歩譲って原子、分子まではいいとして、その分子の化学反応ネットワークに、細胞とか人間とか、あるいは社会とか、九ヶ谷君の都合で名前を付けて数えたとしても」
春香は反論をまとめたらしい。大悟をまっすぐ見ていう。母親も中学生も目に入っていない。
「階層の境界はどんどんあいまいなものになる。生命に限っても、私たちの体の中には例えば白血球みたいに独立した細胞としてふるまうものもある。そもそも、地球の生態系という情報処理ネットワークの中に、原子も、分子も、そして単細胞も、多細胞も混じってる。例えば、今私たちが話している言葉は、空気分子の振動での情報伝達。単純な整数になるはずがないわ」
春香はピラミッドの段を指さした。それは正しい答えだ。なぜなら、その問題はすでにさららによって指摘されていたからだ。
「創発の階層の単位、言い換えれば次元が整数じゃなかったら?」
用意されていたからできた大悟の反問。彼をにらんでいた春香がはっとなった。そして、膝に突いた両掌をぎゅっと握った。
「……フラクタル次元だって言いたいのね」
「……そう、それ、そういうやつ。うん」
反論していた春香が半ば確信をもって口にした言葉を、それを受ける大悟があいまいに応じる。大悟の額に汗が流れた。
平面上の線が一次元じゃなくて小数の次元数を持つ。彼がほとんど理解していない概念だ。春香は自分の答えに再び考え込んでしまうが、佳枝の視線がちらっと大悟を刺した。
「じ、実は春日さんのORZL-DとAの関係にもそのことは表れてるんだ。えっと、DとAは実質的に同じものが違う形に見えてるだけなんだよね」
ごまかすように大悟は話を進める。
「え、ええ」
「でも、Aは複数あって、Dは一つだけ。これは何で?」
「それは、実際にはAよりもDの方が高……」
春香はそこで言葉を止めた。
「こう?」
「高次元の存在だから」
春香は唇を震わせて言った。ちなみに、これもさららの助言である。理解の限界ぎりぎり、というよりもオーバーしている。
「と、まあ僕の仮説はこんな感じ」
食い入るように画面を見る春香。大悟はごまかすようにリターンキーを押した。床の間の白い壁に『ご清聴ありがとうございました』という文字が並んだ。
「……今の最後のシミュレーションだけど、ちゃんと根拠のあるパラメータを使ってるんでしょうね。ものすごく、都合のいい設定にしてない?」
白い壁を見ながら、春香が言った。大悟の額に汗が流れる。
「僕は普通の高校生だからね。ルーシアさんも物理シミュレーションは専門じゃないし。だから、そこら辺のことは、何とも言えないかな。もっと得意な人がやれば、どうなるか……な?」
大悟は春香を見ながら言った。春香が膝に置いた手で、キュロットスカートをぎゅっとつかんだ。白い太ももが露出を増やした。
「……また私に九ヶ谷君の計算機になれって、そう言いたいの。私の仮説を利用して、出し抜いて、こんなめちゃくちゃにしてくれた上に!」
春香はわなわなと肩を震わせた。なんというか、いまにも畳にそのこぶしをたたきつけんばかりだ。
「この仮説だと。重力が通常の三次元空間を振動させるとしたらよ。階層数は余剰次元空間全体に作用する可能性が高いじゃない。そんなの、私だって考えようとしてたのに!!」
遂に春香のこぶしが畳を打った。嘘ではないのだろう。さっきの大悟の質問にORZL-AとDの次元の関係を即答したのだから。
「根拠がないから詰まってたのに、またどこからか勝手にもってきて、何でいつもいつも……」
大悟の前で肩を震わせる春香は何かを連想させた。
(苦労してレベル上げをしたセーブデータを勝手に使われてラスボスを倒されたって感じかな)
実に優秀なポンコツぶりである。彼の前にいつもの春香が帰ってきていた。
「こんなわけのわからない話に何の意味があるんですの。叔母様、きっと私たちをけむに巻くために適当なことを言っているんです。この男の言ってることはでっちあげです。その、春香お姉さまもきっとたぶらかされて」
置物のようだった祥子が叫ぶように言った。春香に叱られたショックから立ち直ったらしい。意外とたくましい。
「……まったく、春香といい祥子さんといいはしたない」
じっと黙ったままだった、ただしこちらは置物にはまるで見えなかった、春香の母が口を開いた。母の視線は娘から、娘のクラスメイトに移動した。プレゼンが始まって以来、ちゃんとこちらを見るのは初めてかもしれない。
「ただ、祥子さんのいうことも一理ありますね。春香にとって、今のあなたのお話は大事なことのようですが。私には何のことか全く理解できません。これで、判断しろと言われても困ります」
口から出るのは正論だ。大悟としてもこのプレゼンは徹頭徹尾春香に向けたもの。というか、春香の理解力に期待したものだ。
だから、大悟は別の手段を使う。彼はカバンから三通の手紙を取り出した。
「でっちあげかどうかに関しては、これで判断してください。ご本人たちに確認してもらっても構いません」
柏木、大場、そしてさららに書いてもらった大悟の仮説への評価だ。
大学教官、そのうちの二人は教授、の立場からこの“仮説”に妥当性があることを保証した、いわば保証書である。
佳枝は慎重に保証書の署名を改める。横からのぞいた祥子が何かを言おうとするが、それを制して大悟をじっと見る。
無形の圧力が彼にのしかかる。大悟は何とかその視線を受け止めた。春香のためにでっち上げた仮説と違って、保証書は本物なのに、すごく怖い。
「嘘には見えませんね。春香、あなたはどうしますか」
母親は大悟から春香に視線を戻した。春香は母親の視線をまっすぐ受け止めた。
「お願いです、お母さん。私に九ヶ谷君……じゃなくて、さららさんのお手伝いにもどることを認めてください。私の仮説をこんな風にめちゃくちゃにいじって。とんでもない結論を勝手に出すなんて。私自身の手で検証しないと絶対納得できないんです」
どうやら母親の圧力よりも、大悟に対する感情の方が勝っているらしい。
「もしそれで、前の様にお母さんの信頼に背くようなことをしたら、高校卒業後の進路は言う通りにします」
春香は母親に宣言した。母は娘に向けるとは思えない、厳しい瞳で応じる。母娘の視線が、彼の前でぶつかり合う。大悟と祥子がそろって背筋を伸ばすくらいの緊張感が大広間に出現した。
「その言葉、間違いありませんね」
「はい」
大悟も祥子も完全に蚊帳の外である。なるほど、綾が当事者はとか、家庭の問題とか、そういう風に言ったのは正しかったのだろう。考えてみれば、母親はずっと娘の反応だけを見ていたのだ。
「そこまで言うのならば。その覚悟を認めましょう」
そして、佳枝の言葉に大悟は体から力が抜けるのを感じだ。どうやら、ゲームの攻略に成功したようだ。彼がそうほっとした時だった。これで帰れる。大悟がそう思った時だった。
「さて…………」
彼の油断をつくように、佳枝は大悟に向き直った。
「しゃべり続けてのどが渇いたでしょう。お茶を入れて差し上げます。春香は祥子さんを玄関まで送ってあげなさい」
首尾よく春香に母親を攻略させたのに、ラスボスは彼にヘイトを向けた。セオリー通り第二形態があるらしい。
2019年1月24日:
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