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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第三部『ゲーム』

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123/152

19話:後半 シナリオ

 広い食卓に母娘の二人が向かい合っていた。


「いいですか、今は学業に専念しなさい。将来の進路についてあなたの希望を尊重できるかどうかは、今後の態度を見て決めます」


 表情を動かすことなく、保護者としての正論を告げる母。小さくうなずいて、娘は食卓を離れた。

顔を伏せたまま長い廊下を歩く彼女の目には、月明かりに照らされる広い庭の風情は入らない。部屋のドアを開けた。彼女の部屋は母屋から飛び出るように建て増しされた洋室だ。


 机に座ると、緩慢な動作でカバンからノートを出した。数学と書かれたノートには、彼女にはレベルが低すぎる問題が並んでいる。普通の高校生の解くべき問題。明日の宿題だ。


 手に取ったシャープペンシルが止まった。


 彼女は数学の宿題などの前で立ち止まったりはしない。実を言えばわざわざやる必要もない。黒板に教師が問題を書いている間に、いや当てられてから黒板に行くまでの間に答えが出るのだから。


 それでもこれまで律儀にノートを埋めていたのは、あくまで学校でのスタイルを守るため。授業の前に友人から宿題の答えを聞かれた時のための対処だ。


 まさか白紙のノートを開いて即興で解いて見せるわけにはいかない。それは異端の行為であり、彼女には異端の自分をうまくコミュニティーに受け入れさせるスキルはない。


 つまり、今やろうとしていることは、春までは当たり前の様にこなしていた作業だ。それも、どちらかといえば楽な部類に属する。共感できない答えを問題文から無理やり推測する国語と比べるとだが。


 春、姉の紹介でさららと会うまで揺るぎもしなかった。いや、あの地下ラボでさららの手伝いをするようになってからも、彼女としては学校での自分は守っているつもりだった。


 加速度を感じさせない速度でペンを走らせ、事務的に答えを書き込んだ。そこでペン先が止まった。


 ちなみに、答えが正しいことは書き終わる前にわかっている。


 彼女の頬が皮肉っぽくゆがんだ。


「九ヶ谷君ならわからないっていうかな」


 実家の“業務用”クッキーで彼女の学校でのスタイルがほころんでいたことを気が付かせたのは、彼だったか。


「でも、勝手に私のこと詮索したんだから」


 しかも、その後は当の彼のために、春香のスタイルはガタガタになった、それは学校だけでなくラボにおいても、なのだ。


 ノートの横に置いたスマホをタッチした。彼から送られたメッセージが表示される。


 ペン先がノートの空白に黒い切っ先が移動し、義務的に動いていた先ほどと違うグネグネと複雑な記号を描き始める。


「ORZL方程式が空間の歪曲に周期的パターンを作り出すとしたら、たとえばこんな感じ……」


 トントンと、リズミカルにペン先が紙をノックした。しばらくそうしていて、我に返った。自分の行動にあきれた。高校数学すら覚束ない男子生徒のことを考えたとたん、複雑な微分方程式の解を模索し始めるとは……。


「まだラボかな……」


 立ち上がり窓に向かった。小さな窓から広い庭が、その向こうに昇り始めた月が見えた。方角は高校と反対側。高い塀から山が頭を出している。その山の麓には理系大学があり、キャンパスの一番高いビルの地下には、彼女が師と仰ぐ女性科学者の研究室がある。

そこには、彼女ではなく彼女のクラスメイトが……。


 今まさに、この方程式を解こうとしているのではないか。


「ふふ、そんなわけないか……」


 代数方程式も怪しい彼が、微分方程式を解けるわけがない。そもそも、彼ならもっとおかしなことを考える。彼女に言わせれば、知識不足による致命的な勘違いから生れる、どう考えてもあり得ない発想をもとに。


 机にもどる。ペン先は、先ほどと同じ複雑な方の方程式に添えられた。完璧に整合の取れた世界の末端で、彼女の思考が止まる。


 以前までならコインの裏表の様に二択だった。選択しようとする数学は正しいのに、自分の実力不足で正解までたどり着けないのか。あるいは、選択している数式そのものが間違っているか。


 なのに、今はそのどちらでもない何かを前に立ち止まっているように見える。見えるか見えないかではなく、見えないのに見える。


 それは、回転するコイン。それがいつまでたっても倒れない。なぜならコインを回し続けているのは彼女だからだ。


 視線が部屋の奥にあるベッドに向いた。ペンがノートの上を転がった。彼女はあの時の様に、横向きにベッドに倒れ込む。


「九ヶ谷君なら……」


 彼女の完全な球形の美を、強引に押し倒してみせる憎っくき同級生なら、どんなことを考えるだろうと思いながら。



 放課後が来た。大悟は机を立った。隣の隣に向かおうとした足が止まった。彼には彼女に話す新しいシナリオがない。


 スマホを見る、洋子からのメッセージがある。


 あわてて内容を確認して肩を落とした。例の女子中学生が謝罪に来たいらしい。


 盗撮はあれだが、大悟としてはあの少女を謝らせても仕方がない。しかも、向こうは一方的に日時を指定している。内心どう思っているかよくわかる。薬指でメッセージを画面の向こうに追いやった。


 春香をちらっと見てから廊下に向かった。周囲の視線が「やっとあきらめたか」というものに変わる。教室のセルオートマトンの中、突如創発した異常な構造がやっと消えたといったところ。


 もちろん、あきらめたわけではない。なぜなら、彼には見えているからだ、見えない何かの空白が。

自分では見えないその空白の輪郭だけ、それを春香に見せつける。それが、彼の今の目標だ。



 ラボに入ると、部屋の中はいつもの通りだった。さららがホワイトボードで自分の世界に入り込み、ルーシアは複雑な回路図を横に、アルファベットの呪文を並べる。そして、綾は両手を頭の後ろに組んで、パソコン画面を見ていた。


 綾の後ろから、画面を見る。


 小さな窓の中、キャスターが続報を伝えている。違うのは日本語であること。どうやら、既存のメディアにも情報が届いたらしい。


 昨日見た傾いたビルの写真と同じものを前に、日本の耐震基準の話をしている。


―地震の多い日本なら、その耐震基準上震度〇〇まで耐えられるように設計が……―


 その声を聴きながら、大悟は側面のスクリーンに目をやった。そこには地球規模の知能の動きが描き出されている。それは人類の社会をベースに、それを超える知能の段階。パッと目には、二階建ての知能に見える。


 でも、それは結局情報処理にすぎない。春香ならそういうだろう。エネルギーの問題、情報の問題。だが、彼はそれを否定した。少なくとも納得はしていない。


 つまり、目の前に現れた人類を睥睨するネットワーク知性は、何か特別なものなのか、それともこれまでのものと同じなのか。


 昨日やっと到達したところまで、思考のフローチャートがロードされた。昨日と違うのは彼の脳は処理不可能な大量な情報によって占拠されていないこと。


 だからこそ、脳の空白に目の前の情報から生れる空白が合致した。ニュースで語られるビルの話の中に、彼が求めていた空白が存在することを認識したのだ。


 それは、ある意味簡単な話だった。


「階層があるかないかなんて、僕が考えて解るわけがないんだ。春日さんがないというのなら、あることにすればいい」


 今までの自分はまるでゲームの攻略者の様に、与えられた問題を解こうとしていた。


 だが、彼はゲームの製作者でなければいけないのだ。ならば、世界は彼の自由に設定していい。問題は、その設定が面白いゲームを生み出せるかどうかだ。


 彼に見えたのは、明らかに重さとは違う数字の存在だ。それには実体がないように見える。見かけだけの存在に見える。だが、数字として存在しているのもまた確かだ。


 春香は数学的にありうるものは現実にも存在する、そう考えている。ならば、この数字をぶつけてやればいい。後の問題は、この数字の根拠をでっちあげることだが……。


 彼の脳裏には歴史の教科書に載っている大昔の巨大建造物が建っていた。


「さららさん、綾、ルーシアさんも。ちょっと聞いてほしい。空間をゆがめる力について一つアイデアがあるんだ」


 全員が彼の方を向いた。大悟は綾に頼んで、傾いたビルの画像を側面のスクリーンに映してもらう。


「このビルは重さによって地面をゆがめている。それは重力の力。質量、重さが空間をゆがめるのと同じ、それは間違いないですよね」

「そうだね」


 さららが答えた。


「ビルの重さが地面に与える影響ってどうやって、計算します?」

「簡単に言えばビルの重量を底面積で割ったものだね」

「じゃあ、重さだけじゃないもう一つの数字があるとしたら。つまり、このビルの……」


 いくら何でも荒唐無稽だと思いつつ、大悟は己のアイデアを口に出した。


「……」「……」「……」


 沈黙が地下室を覆った。


「どうですか?」

「まったく新しい発想だから、ORZLがそれを受け入れるかどうかは、実際にやってみないとわからないけど。うん、面白い」


 さららはそれまで自分が書いていたホワイトボードの数式を未練なく消し去る。そして、彼にはわからない別の暗号をさらさらと作り出す。


「……大悟が考えてるのとはちょっと違った形式になると思うけど、可能性はある」

「クレイジーだね。大悟の言うパラメータがアルゴリズム的に可能かS.I.S.と相談してみる」


 ルーシアが画面に例の猫のポリゴンを呼び出した。


「少なくとも、二人の反応を見る限り、いい線言ってるんじゃない」


 綾が言った。大悟はニヤリと笑った。


「それで十分だ。こっちとしたら、春日さんを釣れるくらいのホラならいいんだからさ。それよりも……」


 面白そうな仮説プロモーションはでっちあげた。問題は、どうやって春香に見せるかだ。

2019年1月13日:

次の投稿は来週の木曜日です。

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